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近くにある音大に通う学生を当て込んだ物件なので、賃貸にしては珍しく防音性が優れている。床が補強してあるのでピアノも置ける。その分家賃は少々高めだけれど、ミズキはその部屋を気に入っていた。

「近くにね、美味しいパン屋さんがあるんだよ。あと小さい八百屋さんがあってスーパーより安くて」

祓ったれ本舗の五条悟と結婚した。
テレビで見たことのあるような連名のFAXを書いた。言葉を交わしたこともないような昔の同級生からもたくさんお祝いのメッセージやDMが届き、イヌマキとしてデビューした時のことをミズキは思い出した。

結婚後は五条の方の部屋に住もうと2人で決め(ーとは言え、五条の自宅にある特注サイズのベッドを普通の賃貸アパートに搬入するのは無理なので、実質選択の余地は無かったけれども)、既にミズキの私物の大半は運ばれている。今日は最後に残ったピアノの搬出をし、部屋を引き払うために来たのだった。

「…悟くん?」

背後から返事が聞こえずミズキが振り向くと、五条は床に蹲っていた。

「ミズキちゃん…ッこの、部屋!やっぱり契約したままにしない?!」
「しません」
「やだぁぁ尊すぎるだってミズキちゃんが何年も寝起きして掃除して自炊してピアノ弾いたり歌ったりしてきた部屋だよ?!次の入居者が男だったりしたら僕何するか分かんない!!」
「何もしちゃいけません」

蹲っていると思ったら少し違って、五条は手っ取り早く『部屋』そのものに触れたかったらしい。床に手を当てていた。
ずっと、マスコミ対策のために五条はこの部屋を訪れずにいた。彼のマンションと違って申し訳程度のオートロックしかなく、外廊下で誰かとすれ違いでもしたら瞬く間に拡散してしまうに違いなかったから。
今はもう、一緒に歩くところを目撃されたとしても堂々としていればいいのだ。

「私、ひとりで住んでた部屋より悟くんと住む部屋の方が好き」

五条は天啓に打たれて震えた。
結婚して尚、推しは推しでありその言葉は強いのである。



引越し業者の到着が渋滞で遅れると連絡が入り、掃除をしながら待っていた2人は追加で30分ほど待つことになった。空っぽの中に1台のピアノがぽつねんと置かれただけの部屋で、2人は暇を持て余してしまった。

「悟くん、そっちの窓を閉めて」

ミズキが言って、2人で手分けして窓を閉めていく。
全ての窓を閉めて五条がミズキの動向を見ていると、彼女は長椅子に座ってピアノに向かった。

「部屋が空っぽだから音が響くかも」

ミズキの白い指が鍵盤を押さえた。
奏で始めた曲に五条は覚えがある。イヌマキの曲、そして彼の誕生日にミズキが電話越しに歌ってくれた曲だった。あの時はまだ同棲していなかったから、彼女は正にこのピアノでこの場所で、あの時、電話をしてくれたのだ。

美しい声が高く低く滑っていく。指が軽やかに鍵盤を走る。あの時、12月7日になった瞬間にも彼女はここに座って歌っていた。
五条は鳥肌が立った。

最後の一音の余韻が消えるのを待ってミズキはホッとしたように溜息をついた。

「よかったぁ覚えてた!」

返事がない。
なんとなくそれを予期していたミズキは、蹲る五条に歩み寄って背中を撫でてやった。

「もしかして悟くん泣いちゃうかもって思ってた」

五条は返事をしようとして、しかし喉から嗚咽が漏れるだけ。

「あの時も夏油さんが電話に出て『悟が泣いてるからちょっと待って』って言ったよね」
「わ"す"れ"て"っ」
「悟くん喋れてないよぉ」

ミズキはころころと笑って五条の頭を抱き締めた。彼の宝石のように美しい青い目からはまだ次々涙が溢れて止まりそうにない。

「ふふ、次のお誕生日はどの曲にしようかなぁ。悟くんリクエストある?」
「えら べ、 な"い"…っ」
「そっかぁ。練習期間ほしいから早めに考えてね」

ミズキの肩に濡れた感覚があって、五条の呼気でじんわりと温まった。五条は荒れた呼吸をどうにか制圧して、ミズキの肩から目を離した。

「ね、悟くんこっち来て」

ミズキが立ち上がって五条の手を引く。五条は大きな風船人形のように大人しく彼女の導くまま、ピアノの前の長椅子に腰掛けた。

「右手の親指をドに置いて…」

前々から五条の手の大きさを見て、小指がどこまで届くか試したかったのだという。一般的な男性で10度のところ五条の手指は13度を跨ぎ、ミズキはキャッキャとはしゃいだ。

「すごいすごい!いいなぁ、悟くんの手でピアノ弾いてみたい」
「僕はミズキちゃんの発する一文字ずつにお金払いたい尊い」
「悟くん、これ売り物じゃない、ただの会話」
「でも医薬品を上回る効果効能があるから…」
「ないよ??」

実際に五条は徹夜明けに草臥れて帰宅してミズキの出迎えを受けた時、「おかえり、お疲れさま」と言われて「今ので5kmぐらいなら走れる」と突飛な返事をしたことがある。彼女は「走らないで寝て」と冷静に返した。

やっといつもの調子を取り戻した五条に、ミズキはいくつか和音を教えたり、イヌマキの楽曲のフレーズを弾いて見せたりとピアノで遊んだ。

「棘Pが弾くのと印象違うね。優しい」
「あぁ、棘くんは縦弾きだから…えっと、鍵盤の根本まで深くコンッて叩く感じの」
「あー確かに、ミズキちゃんは横に走るね」

ミズキの指は楽しげに鍵盤を駆けていく。彼女のことを動画でしか知らなかった頃から、心地良さそうに弾き歌う人だと思っていた。
一定以上のレベルでの優劣など五条は知らないし興味も無くて、ただ彼にとってはどこまでもミズキが『推し』なのだ。
腕の触れ合う隣でミズキが楽しげに歌いピアノを弾く。五条はそれをうっとりと眺めていた。

その時明るいインターホンの音がして、2人ともがそういえば引越し業者を待っていたことを思い出してミズキが玄関へ駆けた。何ならもうちょっと遅れても良かったのに、と五条はムスッとした顔で後を追う。
ミズキの出迎えを受けた業者2人の内、大柄な方はチラチラと彼女のことを見ていて、後から現れた五条を見ると確信を得たようだった。

「あ、あのっ!イヌマキのミズキさんですよね?!すみません個人的な…お俺っすごい、ファンで!」

元ラガーマンという感じのガタイのいい男である。五条は『あーライブの時こういう感じの偶にいるなぁ』と冷静に見た。イヌマキはファン層が厚い方ではあれど、筋骨隆々の男はどうしても目立つ。そして意外に、生歌に感動してボロボロに泣いているのは若い女の子よりもこういう大男だったりするのだ。
感極まった様子で結婚を祝う言葉をくれたので、五条は男がミズキと握手するのを許してやった。

部屋の奥に招き入れて運んでもらうピアノを見せると、やはりと言うか、イヌマキファンは明らかに動揺した。

「ピアノですか……………ピアノ…、」
「はい、今日はこの1台だけ」
「ミズキちゃんのピアノに傷付けたら50倍の傷で償ってもらうから」
「あっ気にしないでください小さい頃おもちゃをぶつけた傷とかあるので」
「「付加価値でしかない」」
「なんで??」

オタクの価値基準は同族にしか理解されない。
ミズキは何だか五条が2人いるような気分になった。
そろそろ見兼ねた引越し業者のもう片方がイヌマキファンを諌めてくれ、それでようやくピアノの梱包が始まったのだった。
業者とピアノを送り出した後は窓をしっかり施錠して回り、いよいよ部屋を出る。出たところでばったり隣人と出会したのだけれど、隣人の女は五条とミズキを見ると目を丸くして口をはくはくとさせた。

「はら、ぇっイヌ…ぅ、うわ、け、結婚、ぇ、とな、となり、うっそ、え、え?!」
「うんうん先日結婚した祓本五条とイヌマキのミズキちゃんね。お隣だったみたいだけど今引き払ったとこ」

ミズキは角部屋だったので、唯一の隣人だった。ミズキは隣人を認識していたけれど相手の方は違ったようで、まともに発語できなくなっている。
それにしても、顔を隠さずにいると数時間だけでこの調子なのだから、五条がここを訪れないでおいたのは正解だったと言わざるを得ない。

隣人は五条を推しているらしく、突然の邂逅に感極まって泣き出してしまった。

「おおめでと、ございますぅぅぅっも、ずっと、悟推しのみんな、良かったねぇって、言って、だって推しと、結婚ってぇぇ」
「ありがとー」
「去年、たんじょび、ライブ、いきました!ふくおか!でもっそれからチケ、ト、負け続けてっ!」

五条はそれまでウンウンと適当に聞いていたものが、急に目を丸くして女をまじまじと見た。
ミズキの方も思い当たったようで、2人で目配せをする。

「…ライブの前日は?ここにいた?去年の、福岡の」
「え、はい」
「スゲーね、こんなことある?去年の誕生日にさ、日付変わった瞬間にミズキちゃん電話くれたの。僕前乗りで福岡だったから、電話越しに歌ってくれた」
「じゃあ、隣…え嘘」
「その時隣の部屋にいた人があの日のライブにいたんだ」

イヌマキファンがミズキのピアノを運ぶことになったり、祓本ファンがミズキの隣に住んでいたり、色々な人の動線がニアミスしたりほんの少し交わったりしている。五条もミズキも有名人という立場だからこそ今回は発覚したけれど、気付かないまま過ぎていった細い縁は他にもたくさんあるのかも知れない。
隣人は益々泣き出してしまい、しかし2人は今し方送り出したピアノを五条のマンションで荷受けしなければいけなくて時間の余裕は少ない。名残惜しいような気持ちもあったけれど丁重に礼を言って手を振って別れた。

建物を出るとミズキが五条の手を握った。
今までにミズキから外で手を繋ぐなどしたことがなく五条は一瞬目を丸くして、すぐに握り返した。

「ミズキちゃん」

彼女が五条を見上げる。

「今まで制限が多かったけど…人に見られる仕事してて良かったって、初めて思った」

五条は辺りを見回して、人の目があるかざっと探した。今日のことも、いつか誰かが『あの時見た』と話してくれることがあるかも知れない。
ミズキは前を見て「私も」と言った。

「お互いこういう仕事じゃなかったら一緒にどこでも行けたのかなって、思ったこともあるけど…」

五条の車が近くのパーキングにある。そこまでの短い距離を、手を繋いで行く。ミズキの横顔を五条が見た。
良かったと思ったのは初めてだと言ったばかりだけれど、彼女の投稿した動画がなければ存在を知ることも、自分が芸人でなければ実際に会うこともなかったのだから、やはり最初から必要なことだったのだ。
しかしもう、隠す必要は無い。

「これからは行けるよ。一緒に、どこでも。それこそこの後ピアノの荷受けして、思っきりオシャレしてザギンでシースーできるし深夜に部屋着でコンビニ行ったっていいし。どこ行きたい?」
「普段着でファミレスがいい」
「最高!」

五条がニカッと笑った。
会話の間に車まで到着していて、彼は助手席のドアをミズキに向かって開けてやった。

後にこの瞬間の写真がSNSに出回り、五条は想像したばかりの『いつか誰かが』をすぐに回収することになった上、祓本五条は愛妻家芸人としての地位を急速に確立していった。
おもちゃのぶつかった傷があるピアノは新しい居場所を与えられ、楽しげに音を弾ませている。



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