古書店店主:伏黒恵



※伏黒恵25歳くらい


いつもの道の傍にあるその店はいつもシャッターを下ろしていて、店内の様子を窺うことが出来ない。だからミズキは長らく営業していないのだと思っていた。
灰色のシャッターの上には主張の弱い看板も一応あって、【伏黒古書店】とある。ただそれも、本当に一応設置してあるだけという雰囲気で、あまり積極的に集客しようという気概は醸し出していない。古本屋さんなら入りたかったのに、といつもミズキは残念に思っていた。

その日彼女は週末を満喫すべく、買い物の算段を立てて歩いていた。いつもの道を行き、視界の端の違和感にふと立ち止まる。振り向くと、古書店のシャッターが開いていた。
白兎の消えた穴を見るような気持ちでミズキが店を覗き込むと、本棚の奥から男性の話し声が聞こえた。
新品ばかりの書店とは違う、人の手を経た古い紙の匂いがかすかに漂っている。
ミズキが一歩店に踏み入ると、店の奥で為されていた会話は切り上げる雰囲気に傾いていって、すぐに「それではまた」と締め括られた。邪魔してしまっただろうかとミズキが気を揉んでいるところへ、会話の片方、七海が現れた。彼のゴーグルのようなサングラスにアイボリーのスーツという目を引く出立ちは、面識のないミズキを少々驚かせた。七海は彼女に軽く会釈をして去っていった。店の奥にはもう1人分の気配が残っていて、軽く椅子を引く音がした。

店の中はほぼ完全に静かになった。山奥の、人に知られていない湖みたいに。本が日焼けしないように、店内はほんのり薄暗くなっている。
ミズキは棚に並ぶ背表紙を端から順に眺めていて、ある時「あっ」と声を上げた。

「…どうかしましたか」

本棚の奥から店主の伏黒が顔を出すと、ミズキは七海の時よりも驚いた。古書店の店主というと壮年の男性だろうと思っていたものが、現れた彼はどう見ても精々20代半ばだった。

「うるさくしてごめんなさい、あの…この本、買えるんですよね?」
「そりゃ店なんで。気に入ったのがあればどうぞ」

商品に不都合があったのではないと確認した伏黒はさっさと店の奥へ引っ込んでいった。
この店の看板に似て素っ気なくて商売っ気もない、とミズキは少し可笑しくなった。

ミズキが目当ての本をレジカウンターに置くと、伏黒は自身の読んでいた本を閉じて傍に置いた。

「…これ、シリーズの3巻しかウチには無いですけどいいっすか」

手首を返して本の表紙・裏表紙・背表紙を確認しながら伏黒が言った。ミズキは興奮気味に頷いた。

「他の巻は実家に全部あるんです。3巻だけ、人に貸したっきり無くなっちゃったって聞いてて」

絶版になったシリーズもの、拝める日がくるとは思っていなかった。しかも、欠けていた3巻だけが見付かるとは。
伏黒が確認を終えた本をミズキに差し出した。

「おいくらですか?」
「別にいい」
「え…でも、」
「その無くなった3巻かもしれないだろ」

ミズキはしばらくぽかんとして伏黒を見ていた。彼の方は既に自分の本を開き直していて、大したことは言っていないというような態度。
念願叶って手に入った本を鞄に大切に仕舞って、ミズキは彼に礼を述べた。

「あの、また来てもいいですか?」

伏黒は本から一瞬目を上げて、すぐに戻した。

「…店なんで、開いてりゃご自由に」

店を出たミズキが振り返ると、伏黒はやはり変わらず本を読んでいた。ミズキは彼の印象を編集した。『素っ気なくて商売っ気がない』から、『素っ気なくて商売っ気がないけど、意外にロマンチスト』に。

それからミズキは何度も伏黒の店に通った。不思議と以前よりもシャッターの上がっている日が増えて、しかし彼女以外の客が入っているのは見たことがなかった。
2度目の来店で既に伏黒の方もミズキの顔を覚えていて、挨拶をすると「あぁアンタか」と言った。3度目の時にはミズキが店内を見て回っているとコーヒーの匂いが漂ってきて、「コーヒー飲むなら」と彼が言うので頷くと柴犬の描かれたマグカップに注がれて差し出された。4度目にはレジカウンターの傍にミズキの座る椅子が設けられ、自然と雑談もするようになった。
こうなるともう、常連客というよりも知人・友人に近い。


その日は突発的な残業に見舞われて、随分遅い時間にミズキは歩いていた。車両は少なく、歩行者はほぼいない。どこか遠くで犬の鳴く声がした。

ミズキはふと歩みを緩めた。自分の足音の後ろに、別の音がついてきている気がする。神経を尖らせると確かにいる。足を速めた。
肩に掛けた鞄の持ち手をギュッと握り込んでミズキは必死に足を動かした。どんどん速くなってほとんど走るようになって、それでも気配はついてくる。行手のあの角を曲がれば通い慣れた伏黒の古書店がある、という位置まで来た。やっと水面から顔を出す気分で角を曲がった瞬間、シャッターの降りたのを見てミズキは泣きそうになった。そうだ、こんな深夜に開いているわけがない。とにかく最寄りのコンビニにでも駆け込んで警察に電話を…と思ったところで、背後から重く鈍い音がした。穀物の詰まった麻袋を地面に落としたような音だった。

「暴れたら折る」

ミズキが振り向くと暗がりに黒い塊が見えた。良く見ると塊はすべて真っ黒ではなく比較的色の明るい部分があって、それは男の横顔であるらしかった。男の傍には刃の出たバタフライナイフが転がっている。男の上に何か乗っている…と思っていると、その何かが動いて暗がりから顔を上げた。伏黒だった。

「伏黒、さん…?」

ミズキの半信半疑の声に伏黒は返事をせずに、ムスッと顔を顰めた。

「こんな時間に1人で歩くな」
「ご、ごめん、なさい…残業で」

ミズキが身を竦ませると伏黒は長い溜息を吐いてから落ちていたナイフを回収して立ち上がり、尻に敷いていた男の脇腹を蹴って仰向けに転がした。伏黒の「おい」に対して男は呻き声で返事をした。

「運転免許証とスマホ」
「……な、に…」
「出せっつってんだよ。持ってんだろ」

大声ではないし語気も強くない。それでも逆らってはいけない雰囲気だけはひしひしと伝わった。
男は痛む箇所を庇いながらやりにくそうにゴソゴソとポケットを漁って、言われた通りのものを伏黒に差し出した。
伏黒はそれを懐に仕舞うと、男に向かって「失せろ」と吐き捨てた。にわかに男が慌てる。免許証の写真を撮るだとか、電話番号を控える程度の措置を想定していたのである。物品の返却を願う男に対して、伏黒は面倒臭そうに首を傾けた。
「例えばこの人が」と彼はミズキを視線で指した。

「10年後20年後、暗い道を歩く時にふと今日のことを思い出したとして、その恐怖をお前どうやって償うつもりだ?俺の目の届くところで悪さした自分を恨むんだな」

路上に座り込んでいる男は、立ち上がれないようだった。警察に通報された方が遥かにマシ、伏黒はそのことを良く承知している。
その時ミズキが伏黒の腕を引いた。
そこからミズキに何度も首を振られ、必死の説得を受け、最終的に伏黒は男に免許証とスマホを返してやることになった。


「…ったく何でアンタがゲス野郎の肩持つんだか」

伏黒の溜息は深い。何しろ、助けたはずの女性が最後には男と一緒になって頭を下げてくるのだから、罪悪感と正義の所在が完全に迷子であった。

「だって伏黒さんが逆恨みされても嫌だし、『ああいうもの』を持っておくのって、気分のいいものじゃないでしょう?」
「俺の心配してる場合か」

伏黒があの男を取り押さえなければミズキがどんな目に遭っていたか、それは彼女だって分からないわけではない。緊張の緩み始めた今になって、手足と呼吸が震え始める。

「それは本当に、ありがとうございます。伏黒さんがいてくれなかったら、きっと…」
「…いい、言うな。悪かった」

ミズキは震える手を擦り合わせた。
伏黒にとっても、ミズキに恐怖を与えることは本意ではない。彼はそこから黙々とミズキを自宅まで送り届けることに専念して、すぐに彼女のアパートの玄関にまで至った。伏黒が周囲に鋭い視線を滑らせて異常や不審の気配がないか検分していると、三和土に入ったミズキが振り返って改めて頭を下げた。

「伏黒さん、今日は本当にありがとうございました」
「別にいい。俺が行ったらすぐ鍵とチェーン掛けろ、いいな。あとスマホ出せ」
「えっスマホないのはちょっと困る…」
「誰が没収するかっ!」

伏黒は犬が吠えるように怒ってから決まり悪そうに目を伏せ、「何かありゃ呼べってことだ」と言って自分の連絡先を表示して見せた。

ミズキは自分の端末に表示された伏黒の名前を、少し擽ったい気持ちで見た。伏黒の方も登録を終えるとスマホをポケットに落とし、ミズキの顔色を確認した。

「…じゃ、俺は行くからな。繰り返すけどすぐ鍵」
「分かってます。オオカミの手とガラガラ声だったらドアは開けません」
「セキュリティが緩すぎんだよそれ」
「大丈夫、伏黒さんの手と声は覚えました」

ミズキは気丈に笑って見せた。
正直なところ、伏黒のおかげで未遂に終わったとはいえしばらく暗闇や背後の気配は恐ろしいだろう。それでも、単なる知人の親切にこれ以上甘えるわけにはいかない。
ところが伏黒は眉間に皺を寄せ、後ろ首に手を当てて深々と溜息を吐いた。

「…アンタ、俺が単なる知り合いの心配して深夜の帰り道気にしたり家まで送って連絡先渡すような善人に見えてんなら、オオカミに飲まれても文句言えねぇぞ」
「え、」
「じゃあな」

言うだけ言うと伏黒は本当にドアを閉めてしまった。玄関の内側でミズキが呆然と立っていると外からコンと軽くドアが打たれ、伏黒の声が「鍵」と言った。ミズキは慌てて鍵を掛け、ほとんど聞こえない伏黒の足音が去るのを聞き届けた。
それから、スマホに迎えたばかりの伏黒の連絡先に、しばらくの間じぃっと見入っていた。



後日、久しぶりに伏黒の古書店を訪れた七海は、レジカウンターの周りで各々の本を読む伏黒とミズキを見て、サングラスの下で目を瞬かせた。
伏黒が本を閉じて七海に挨拶をすると、ミズキは席を立って軽い会釈を残して書架の方へ歩いていった。
七海は彼女に見覚えがあった。以前にこの店ですれ違ったことを彼は覚えていた。あの頃を境に、伏黒が店を開ける頻度が増したように感じる。
七海はふっと笑った。

「念願叶ってというところですか」

伏黒は決まり悪そうに目を泳がせて、小さく「…まぁ」とだけ返した。
今日の夜は、絶版になった連作ものの3巻を口実に、家を訪ねることになっている。




***

ネタポストに『真面目・誠実な男性が夢主ちゃんに対して送り狼になっちゃうお話』といただいたんですが、これでは『真面目・誠実な狼が夢主ちゃんを家まで送り届ける話』ですね。反省。

なくてもいい裏設定でこの伏黒くんは呪術師の副業として趣味で古本屋をやっています。職業パロの意味無くなっちゃった。







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