循環器科医師:五条悟(後)



五条先生はそれからも私の病室を訪れて話し相手になってくれて、「内緒だよ」と言ってプリンを持ってきてくれたこともあった。私はこの入院の間だけの贅沢だと思ってその厚意に甘えていた。飽くまで好意じゃなく厚意だということを、心に留めていなくてはいけない。

この日も先生はベッド横の簡素なスツールに腰掛けて、以前楽巌寺院長の代理で学会に出席した時のことを楽しく話してくれていた。

「スーツ着るなんて学会ぐらいだからさぁ、クリーニング屋にジャケット預けっぱなしだったの。それ気付いたのが23時で『アッ詰んだ』って思ったもんね」
「それで、結局どうされたんですか?」

スーツ姿の五条先生、素敵だろうな。白衣もとっても素敵だけど。
先生が「それでねぇ」と続きを口にし始めた時、唐突に、ノックもなく病室のドアが開いた。その姿を見た瞬間に嫌な動悸がして喉がヒュッと鳴った。

「ソウマさん、心配したよ」

その男の手でガサッと音を立てたのはカサブランカの花束。好みの分かれるそのもったりとした独特な香りが漂ってきて吐きそうになった。

「ストップ。きみ、何」

五条先生がいつもは明るく優しい声を低く鋭くしてそう言って、小さくなったキャンディを噛んで棒をゴミ箱に放った。
男は私の恋人だといきなり大声を出して、その上先生に向かってお前こそ何だなんて言いがかりを付け始める。病院の中で、白衣に聴診器の人を捕まえて『何』なんて質問がおかしい。
先生は、きっと意図的に優しい表情を作って、私に向かって首を傾げて見せた。

「ミズキちゃん、まさかとは思うけどアレ、彼氏?」

アレ、と先生が指差す方を見たくもない。必死に首を振ると、先生は男に向かって「だってさ、人違いじゃない?」とカラカラ笑った。

「職場に来る取引先の営業さんです、怖くて…」
「そっか」

にこ、と先生が笑って椅子から立ち上がり、ベッドを回り込んで男の前に進み出た。
男は花束を握り潰さんばかりに力を込めている。

「キミさぁ頭悪いだろ。見舞いに百合はNGって知らねぇの?」
「うるさい!ミズキの好きな花なんだよっ!!」
「違うと思うけど。だってにおいで吐きそうになってんじゃん。それに病院で白衣捕まえて『何』は無いでしょウケる」

激昂する男とは対照的に、五条先生は飄々としている。私はというと先生の背中を見ながらおどおどするしか出来なくて、手が震えるのを胸の前で押さえ付けるように握り込んだ。先生に守られた病室で久しく忘れていた嫌な動悸が、肋骨の内側に吐き気を溜めつつある。
その時男が花束を投げ捨て先生に殴りかかって私は悲鳴すら上げられず、だけど先生は柳の葉みたいにするりと躱して男の鳩尾に膝蹴りを入れた。潰れたような呻き声、花束の上に倒れた男の背中を先生の靴が踏んだ。

「こっちがわざわざ無駄話までして逃げるチャンスあげたのに、馬鹿だねぇ。僕が『何』か聞きたいんだっけ?まず見たまんまミズキちゃんの主治医ね。あと、退院と同時に彼氏に立候補するつもり。君よりは脈アリだと思ってるよ」

私はどきどきと激しい動悸を抱えたまま事の成り行きを見ているのに必死で、先生の言葉を店内放送みたいに遠くに聞いていて、遅れて意味が頭に引っ掛かったという有様だった。
混乱しながら顔を上げると先生の笑顔と目が合って(男の背中を踏んづけたまま)、先生が「ミズキちゃん、ナースコール押してくれる?」と言った。
慌ててそのボタンを手繰り寄せてしっかり押し込むと、枕元のスピーカーから『ソウマさん、どうされました?』と伊地知さんの声。

「伊地知ィ、ゴミ袋」

先生は男の背中からいつの間にか足を下ろしていて、軽い力でボールを放るみたいな声で言った。五条先生の声を想定していなかった伊地知さんは「ヒ…ッすぐに!」の一言で通話を終え、数十秒の内に黒いゴミ袋を携えて戸口に駆け付けた。
まず部屋の状況に目を白黒させている伊地知さんに向かって、先生は床(…に倒れて起き上がれない男)を指差した。

「伊地知、コイツ出禁。受付で不審者に部屋番号漏らした馬鹿は厳重注意。その臭い花片付け」
「ハッハイ!!」



「どうぞ」と先生が差し出してくれた紙コップのココアはじんわりと温かかった。
先生と並んでソファに座ったこの場所は病棟の談話スペースではなく、職員用の休憩所なのだという。他に人はいなかった。
私はまださっきまでの出来事が忙しなく頭を駆け巡って動悸の余波を落ち着かせてくれず、ココアの水面を眺めてぼんやりとしていた。

「怖かったでしょ、ごめんね」
「……いえ、先生が…いてくれて、よかったです」
「警察にも話通してるから安心してね。一連のこと親御さんには?」

緩く首を振った。両親に心配は掛けたくなかったから。

「話して、しばらく実家に帰った方がいいよ。一人暮らしは不安でしょ?」
「…そうします」
「退院いつがいい?もうちょっと病院にいてくれるなら僕は嬉しいけど」
「…退院?」

ココアから視線を上げて先生を見ると、今度は先生の方が私から目を逸らした。
少し不思議な感じがした。退院って、患者がタイミングを決めるものだろうか?
目をぱちくりする私の隣で、五条先生は落ち着かなげに唇を軽く噛んだ。何となく、口元が無意識にロリポップキャンディを求めている仕草だと分かった。

「…ミズキちゃんね、本当は入院が必要なほど重篤じゃないの。通院投薬が妥当。心配だったからってのもあるけど、入院させたのは僕の我儘………あ、入院費用はちゃんと僕が払うから安心して」
「え、あのそれはちゃんと自分で…」
「やだ僕が払う」
「え…、え?えっと、」

わけが分からずに瞬きばかりを繰り返していると、目を逸らしていた五条先生が私を見た。午後の光が先生のこめかみから目と頬を流れて、口元の陰影を浮き上がらせている。先生はシャープなラインと寒色で出来ているのに、どこか熱を孕んでいる。その真っ青な目に私はどう見えるのだろう。

「退院の時にちゃんと言い直すから、そしたら考えてくれる?」

何を…と思ったところで、先生があの男に向けて言ったことを思い出して顔が急に発熱した。
私が何も言えないで狼狽えている間に先生のポケットで携帯が鳴り始め、先生はムスッとした顔で応答した。テキパキと指示を飛ばし「すぐ行く」と締め括って通話終了。

「邪魔されちゃった。部屋まで1人で帰れる?」

頷いた。

「それじゃあ、考えておいてね」

先生の手がまた私の頭を撫でていく。
考えるって、何を?
退院日のことか、あるいは。


翌日私は退院し、しばらく実家に身を寄せることにした。実家といっても電車で15分なので、生活はそう変わりない。
驚いたことに、退院の日に勤め先から謝罪の電話が掛かってきた。あの男が会社に来て私のことを尋ねるので、「ソウマさんならストレスが祟ってとうとう入院してしまいましたよ」と嫌味を交えて追い返してくれたというのだから責められない。

さてお返事をする場として、退院から2週間経った日、デートに誘ってもらった。そこで恐れ多くも私の了承ひとつでお付き合いが始まって、以来悟くんは忙しい合間を縫って私をとても大切にしてくれる。

学会の前日深夜にスーツのジャケットをどうしたのか、教えてもらった時にはお腹を抱えて笑ってしまった。
あと初めてのキスはいちごミルク味で「やっぱり甘いですね」と伝えたら、「何味が一番好きか教えてよ」と楽しそうに言われた。数えきれないフレーバーはまだ制覇できていない。
ただ私にはきっといちごミルク味が一番だなぁと内心では思っていて、制覇した後にそれを伝えたら悟くんがどんな顔をするか、今から楽しみなのだ。




***

以前入院している母親のお見舞いに来た娘に一目惚れし、その娘が受診してきた好機を掴むべくCT画像にイチャモンつけた五条先生のはなし。
ジャケットをどうしたのかはご自由にご想像ください。







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