禪院甚爾とシーフードドリア



トウジさんは、大きな猫さんみたいなひとだ。

最初に会ったのは私がバイト先の常連さんに絡まれて困ってた時だった。常連のおじさまの背後からいきなり手が現れてトントンと軽く肩を打ち、おじさまが振り向きかけたところで大きな拳が彼のコメカミを容赦なく殴った。倒れていくおじさまの目がぐりんと白目になるのを見た。
後から聞いた話、「ムカついて誰か殴りたくなったら喧嘩の仲裁すんのがベストだからな」というよく分からない理念に沿った行動だったらしい。いえあの、喧嘩じゃなかったんですけどね?

とにかくその時トウジさんは、唖然としている私に向かってニヤッと笑って「助けた礼にメシ食わして」と言ったのだった。それで私はトウジさんをバイト先の喫茶店に連れていき、作り慣れたシーフードドリアとコーヒーを出した。これが最初。
体格のいいトウジさんの前に出すとドリアの皿は頼りないくらい小さく見えて、量について文句を言われるだろうかと思いながら見てたけど、一口含んだトウジさんが『お、うま』みたいな顔をしたのが何だか可愛かったのを覚えている。

以来、トウジさんは私のバイト先に気まぐれに顔を出してはシーフードドリアとコーヒーを頼むようになった。
意外にも(と言うと失礼かもしれないけれど)2回目以降はお金を払ってくれたり、店の力仕事を請け負う対価としてだったり、とにかくちゃんと『お客様』をしてくれた。

お店に来るとトウジさんはいつも窓際の同じ席に座る。
木の格子で碁盤の目状に区切られたレトロな窓ガラス、私のお気に入り。その窓越しに外の淡い光を、トウジさんはいつもぼうっと眺めている。時折くぁぁっとあくびをする。持ち込んだ競馬新聞に、私の小指より短い鉛筆で何やら印をつける。
そしてたまに、ふとした時に私が目を向けると、冬の真夜中みたいに黒々とした目で私を見ている。

トウジさんは、大きな猫さんみたいなひとだ。

「ミズキ、コーヒー」
「私の名前はコーヒーじゃありません」

幼児と母親みたいな会話を経て、トウジさんはくつくつと笑った。それから、お店で使っている楚々とした形のコーヒーカップを私に差し出して、傷のある口角を吊り上げた。

「おかわり、ちょーだい」

『仕方ないから付き合ってやる』みたいな顔、本当に憎たらしい。だけど私はいつも空になったコーヒーカップに注いでしまうのだった。
気ままで、掴みどころがなくて、こちらはトウジさんのことを何も知らないのにトウジさんはこちらのことを何でもお見通しなんじゃないかと思わせる、不思議なひと。
考えてみれば、私はトウジさんの名前の漢字だって知らないままなのだ。杜氏、陶磁、冬至、湯治、きっとどれも違う。
漢字を伴わない音だけの名前は頭の奥深くには入ってきてくれなくて、だからだろうか、トウジさんはいつも、ふらっとどこかに行ったきり二度と会えなくなってしまうような気にさせる。

だけど私は、この大きな猫さんみたいな勝手な人を、嫌うことが出来ないでいる。

「ここ、口の横。ついてますよ」

だってたまにとても可愛らしいのだ。
「ア?」とトウジさんの指が口元のホワイトソースを探った。

「反対です。あー、もうちょっと右、あっ違、トウジさんから見て…」
「めんどくせ」

トウジさんは匙を投げてしまい(実際ドリアを食べていたスプーンをカランと放った)、私の方を向いた。

「取って」
「え、」
「ん」

トウジさんが口を真一文字に結んで顎を突き出すようにして、私の手を待っている。私が動けないでいると、傷のある口元がニィッと笑った。

「ほら、どーした?」
「っご自分で!どうぞ!」

だめだ。
きっと、真っ当な恋愛をしたいのならトウジさんは好きになってはいけない人だ。それくらいは、恋愛経験の乏しい私にだって分かる。

だから、トウジさんと初めて会った時に私に絡んできていた元常連のおじさまがあれからも私を目当てにお店の周りをうろついていたことだとか、それを何度もトウジさんが追い払ってくれたことをマスターから聞かされた時には、知りたくなかったと思ってしまった。

それからもトウジさんはフラッとお店に顔を出してはシーフードドリアを食べてコーヒーを飲み、窓の外を眺め、気まぐれに私を揶揄って遊んだ。私はその度に心を押さえつけて、トウジさんのだめなところ(ギャンブルだとか平日の昼間から喫茶店に入り浸ってるだとか)を頭の中で唱えた。


ただ、押し殺すと決めた恋だとしても見たくないものは見たくない。
バイトのない日、特に目的もなく買い物をしてふらふら歩いていたのが良くなかった。人混みの向こうに、女性と腕を組んで歩くトウジさんの姿を見てしまった。思わずギクリとして足を止めた途端にトウジさんの真っ黒な目がこちらを向いて、私は夢中で来た道を戻った。
適当な角を曲がってようやく息をつく。
多分、女性にはバレずにいられたはずだ。トウジさんは野生動物的な何かで私に気付いたっぽかったけど、すぐに逃げたから大丈夫。
今度お店に来たら「貸しひとつですよ」なんて冗談にしてしまえば、

「オイさっき目ぇ合ったろ。無視すんなよ」

悲鳴を上げる寸前だった。
少し走って息が乱れた上に頭も混乱中の私と違って、トウジさんは実に余裕そう。なのに不機嫌そう。

「んなっ、な、なんでこっち来ちゃうんですか!私せっかく気を遣ったのにっ!」
「ア?声掛けろよ薄情だな」
「そんなのしたら『誰よその女』ってなっちゃうじゃないですか!」
「ちょっとトージ!誰よその女ッ!」
「ほらぁ!!」

息を切らして追ってきたその女性は髪を綺麗に巻いて爪もピカピカ、一見して分かる高級品ばかりを身に着けている。控えめな言い方をするなら、トウジさんのスポンサーといった感じだ。
それなのにトウジさんは小指を耳に突っ込んで、『うるさい、面倒臭い』を表情で完璧に表現している。

とにかく私は女性の誤解を解くべく、喫茶店のアルバイトと常連客の関係だけだと必死に訴えた。自分で言ってて虚しいのは後から噛み締めればいい話だ。
それなのにトウジさんは何故かますます不機嫌な顔になっていく。話を遮って「なぁ」と言ったのは私に対してか、女性に対してか。

「お前コイツが誰なのか知りたがってたよな」

トウジさんは私の肩に太い腕を回して、腕の先にある大きな手で私の顎を掴みトウジさんの方に向かせると、ちゅっ、と、触れるだけのキスをした。
え、

「俺の本命な。今口説いてるとこだから邪魔すんなよ」
「ハァ!?冗談きっつ、こんな貧相なガキのどこがいいのよっ!!」

あ、それ、私もそう思います。

「さぁな、惚れたモンは仕方ねぇだろ。第一俺がお前とは終わりだっつったのに『それでも』って来たのはお前だろ、筋合いねぇよ」

やっぱりトウジさんは好きになっちゃダメな人だ。女の敵ってやつ、絶対。
その女性は真っ赤になってわなわなと震えだし、渾身のビンタをトウジさんにお見舞いしてからカツカツとヒールを踏み鳴らして去っていった。何となく、トウジさんはそのビンタをわざと受けたように見えた。

「ま、とりあえずメシでも行くか」
「ちょっと待ちましょう、何でそんな落ち着いてるの」
「ア?もう食ったか?」
「そうじゃなくって!」

道行く人がチラチラ私達を盗み見ていく。
私はそれに耐えかねて、とりあえず現在地から近いお気に入りのカフェにトウジさんを引き摺り込んだ。
バイト先の落ち着いた雰囲気と違って可愛らしい店内で、トウジさんはことさら浮いて見える。ただ、全席半個室みたいに区切られているのは、今この状況には有り難かった。
私とトウジさんはブレンドコーヒーだけを注文した。

「…このお店もシーフードドリアありますよ」
「お前が作ったのじゃねぇなら要らね」

事もなげに、メニューを見もせずにトウジさんは言った。単純で、勝手で、それでいて核心に触れる一言だった。

「…こんな貧相なガキのどこがいいんですか」
「ア?さっきも言ったろうが、俺が惚れたんだからそれまでだって」

惚れた、と。
いつからだろうか。どうしてだろう。何ひとつ分からない。私はさっきの女性みたいな大口のスポンサーにはなれない。トウジさんは私に何を期待するのだろう。私はそれに応えることが出来るのだろうか。

最近ずっとトウジさんに会うたびに押さえつけてきた心がぐらぐらとしている。ダメなのに嬉しくて揺れている。

「…名前、教えてください」
「ハァ?もう知ってんだろ」
「音でしか知りません。だから猫さんみたいに、私が会いたいと思った時にはフラッといなくなっちゃうような気がするの」

トウジさんはイマイチ共感はしていない顔でガリガリと後ろ首を掻き、それからテーブルの隅にあるペーパーナプキンを一枚取って、小指より短いいつもの鉛筆を走らせた。

甚爾。

「これでいいかよ」

甚爾さん、甚爾さん、甚爾さん。心の中で唱えると、頭の奥深くに染み込むような感じがする。これは失策だったかもしれない。だって逃げられなくなってしまった。
それに甚爾さんだって、さっきは街中で勝手にキスなんてしたくせに、どうして名前を書いてそんなに恥ずかしそうにするの。

「甚爾さん、かわいい」と言ってしまってから、これはあまり口に出すべきじゃなかったことに気が付いた。
「許しと取るぜ」と、2回目のキスをする糸口を与えてしまったようだから。

この大きな猫さんは、私に名前を教えてくれた。そしてこれからは、私のところだけに帰ってきたいのだという。








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