乙骨くんの先輩
※五条さんが六眼片方と領域展開をロストして高専の学長になってます。
「先輩、お久しぶりです。お変わりないみたいで安心しました」
「あのね乙骨くん、昨日の今日で久しぶりとは普通言わないの。あとどうして乙骨くんがここにいるのかな」
ここ、とミズキの言うのは山梨県の山奥にぽつねんと佇む古い神社を指す。彼女の現在地および任地。
乙骨はにこにこにこにこ、それはもう舞い散る花が見えそうなほどの笑顔で愛刀の袋を肩に掛け直した。
「先輩が単独任務だなんて僕心配で…こんな山奥で怪我でもしたら、すぐ治療できないじゃないですか」
「妥当な等級の任務だから気を付けて当たれば大丈夫です。あとどうしてここにいるのか、動機は分かったけど経緯は隠したね」
「………偶然この近くで僕も任務が、」
「嘘つきな子は嫌い」
「五条先生に先輩のスケジュールを横流ししてもらってます隣県で任務があったのは本当です急いで来ました」
「よろしい。まぁよろしくないけど」
五条さんめ、とミズキは内心で恨み言を言っておいた。本人に直接抗議するような無駄はやらない。どうせ「可愛い教え子の恋を応援したかったんだもん」とか三十路らしからぬベビーフェイスで言われるのが関の山である。
乙骨は、ミズキが好きらしい。
2学年上のミズキが在学していた頃から挨拶か口癖のように告白が続いている。
ミズキはひとまず現状を諦めることにした。
「…まぁ、来ちゃったものは仕方ないね。乙骨くん帳お願い」
「はい」
「憂太はミズキに『はい』って言う時が一番幸せそうなんだよねぇ」とは五条の所感だけれども、異論を唱える者はいない。
乙骨が帳を下ろし2人が神社に立ち入ってから祓除完了までおよそ3分。呪霊は乙骨の刀で真っ二つになって切り口から崩れて散った。
都内まで移動した頃にはとうに日が暮れていて、2人ともその日の任務は終わり、ミズキは駅を背に立ち止まって乙骨を呼んだ。
「乙骨くん、何食べたい?」
「えっ」
「肩代わりさせちゃったし、好きなもの食べていいよ」
不本意ではあるけれどもミズキの任務を乙骨が片付けたのは事実である。乙骨はあからさまに目を輝かせた。
「嬉しいです、先輩とご飯…!先輩は和食派ですよね?」
「私じゃなくて。乙骨くん何が好きなの」
「先輩が好きです」
「お疲れ解散」
「あ待って決めます、今決めます!」
乙骨は腕を組んでうんうん唸って、滅多にない機会だから雰囲気のいい店にだとか、しかし高級店ではミズキに悪いだとか真面目に悩んで、最終的にただの好物を口にした。
塩キャベツ、と、ごま油。
なんで??とミズキは戸惑って、その日初めて乙骨の前で笑った。
所変わって居酒屋の個室である。
未成年を居酒屋に連れて入るのはほんのり良心が咎めないでもなかったけれど、お通しの定番塩キャベツを所望されたのだから仕方がなかった。後は、乙骨の荷物を個室でない場所に置くのが憚られた結果である。以前真希とファミレスに入った時、隣の席の小さな女の子がソファに立って真希の薙刀に手を伸ばした出来事をミズキは忘れない。
「先輩、お酒は飲まないんですか?」
ひとまずの注文を終えメニュー表を立てながら乙骨が尋ねた。
ミズキは卒業後そのまま高専所属の呪術師になった身で、乙骨とは2歳差で飲酒の許される境界線を挟んでいる。
「飲まないよ」とミズキは言った。自分が楽しむために来た食事ではなく乙骨への礼の場なのだから。
「お酒は嫌いですか?」
「嫌いじゃないよ。強くもないけど困るほど下戸でもない」
「それなら飲んでくれたらいいのに」
「乙骨くんが気にすることじゃないよ」
「僕が見たいんです」
やばい、と咄嗟にミズキは思った。
乙骨の目がミズキを見ている。
「ミズキさんの酔ったところ、僕が見たい」
テーブルの上で触れそうだった手をミズキはサッと引いた。
「…先輩はちょっと外します。乙骨くんここで待機」
「はい」
乙骨は(少なくとも表面上)笑顔だった。
ミズキはとりあえず化粧室に避難、鏡に向かって大きく息を吐いた。店内はガヤガヤと音で満ちている。
乙骨と自分のクールダウンに充分な時間を置いてからミズキは化粧室を出た。一瞬、個室に戻らず会計をして店を出るという策が頭を過ったけれども、それではさすがに乙骨が気の毒だし失礼すぎる。そもそも咄嗟のことで鞄は席に置いてきてしまっているし。
「お姉さん、スゲー美人だね」
戻ったら第一声なんと言ったものか。そういえば席を立つ時に「お料理きたら先に食べてて」と言っておくべきだった。乙骨は律儀に待っていそうな気がする。
「ねぇ聞いてる?」
そもそもこれは礼になるのだろうか。目当ての品はお通しで済んでしまったし、塩キャベツなんて一人前が高くても数百円、特級術師を動かすには到底足りない。
「ねぇってば」
突然腕を掴まれて初めてミズキは誰かの言葉が自分に向けられていたことを知る。驚いて見たのだけれど知らない男で、ミズキは「すみません、どうされました?」と首を傾げた。男はそれをイヤミと解釈したらしく、ミズキの腕を強く握り込んだ。
その男の手首を別の手が掴んだ。
「何をしてる」
乙骨だった。
「その人は僕の大切な女性だ。汚い手で触るなら償わせ方は僕が決める」
ぎぃ、と蝶番の軋むような音がする。ただそれは蝶番ではなく骨が軋む音だとミズキには分かった。乙骨の目が据わっていて、男の方は既に歯をガチガチ鳴らして怯えている。手首の尋常でない痛み、あとは呪力が感知できなくても本能的に生命の危機を察知しているらしい。
ミズキは乙骨の手に触れた。
「乙骨くん、手を離して。部屋に戻ろうね」
「はい」
乙骨はするりと呪力を引っ込めてミズキに笑顔を向けた。
個室に戻ってみるとやはり、手付かずの料理が並んでいた。乙骨はミズキの椅子を引く。『そこまでしなくていい』と彼女はその時々で言ってきたけれども、最近は何も言わなくなった。『僕がやりたくてやってるんです』というフレーズを20回以上聞いた辺りで諦めたのである。
「ごめん、『先に食べてて』って言えば良かったね」
彼女なりに雰囲気を切り替えようとして明るい声色で発した一言だった。しかし、珍しく乙骨が返事をしない。動きもしない。乙骨はミズキの椅子の傍らに立ったまま、極めて無表情で彼女を見下ろしていた。
「見せてください」
「え?」
「触られたところ」
やばい、の再来である。しかも今回は椅子に座った至近距離に立たれていて逃げを打てない。乙骨の手がミズキの黒服のボタンに掛かり、袖を捲って見せる程度を想定していたミズキは焦った。
「ちょっ待とう乙骨くん!痛くない、服の上から掴まれただけ!」
「傷になったり先輩の服の下に触ってたらあの程度じゃ済まないですよ」
4人席、ミズキの隣の椅子を引いて乙骨は腰を下ろした。彼の筋張った手は上着の少ないボタンをすぐに外し終え、中のブラウスの小さなボタンもぷつぷつと外していく。
ミズキは乙骨を止めるのを諦めた。これはもう、確認させて納得してもらうしかない。
乙骨はボタンを外し終えるとミズキの服に手を差し入れてするりと左肩を露わにさせた。
掴まれたところがほんのり赤くなっている。ミズキの上腕を検分した乙骨はニコリと笑った。
「…先輩、僕ちょっと席を外しますね」
「ダメに決まってんでしょそこ座りなさい。あと刀から手を離しなさい」
放っておくと確実に死人が出る。粗暴だったとはいえ腕を掴んだ程度で命を摘まれてはあの男もさすがに気の毒である。
乙骨は叱られた犬のように肩を落とし、それからミズキの着衣を乱してしまったことを思い出してボタンをひとつずつ留め始めた。つい先程まで目を据わらせて殺気立っていたというのに、同じ肌を見て今度は赤面しながら。
「先輩す、すみません僕、頭に血が上って…」
「少し落ち着いた?」
「別の理由でドキドキはしてます」
「あぁ…そう」
ミズキは首を反らして乙骨が首元のボタンを留めるのに協力した。
「あの、先輩」と乙骨が切り出す。
「反転術式、させ、てほしくて…」
「え、しなくていいよ。傷にすらなってないし」
「…で、すよね…でももし、そのえっと、」
煮え切らない様子で目を泳がせる乙骨をミズキは不思議に思っていて、その内にふとある可能性に思い当たる。
「…乙骨くん、キスしたいの?」
ボタンを留め終えそうだった手がギクリと震え、乙骨がスイッチを切ったように黙った。ど真ん中図星であるらしい。
ひとまずミズキは処遇を保留して、乙骨に食事を促した。居酒屋の騒がしさが壁越しに漏れ聞こえてくるけれども、変に緊張した空気になってしまって2人とも黙々とただ食べた。
食事を終え、会計をし、店を出てタクシーを拾う。乙骨は最後までミズキを自宅に送ると抵抗していたけれど、後部座席のドアが開いて運転手とミズキの両方が乙骨の行動を待つ状況に至ってやっと諦めたようだった。
「乙骨くん」
「はい」
頭を屈めて後部座席へ長身を潜り込ませたところをミズキが呼び、乙骨は素直に顔を上げた。
その唇のすぐ隣へ、キスをひとつ。
「お疲れさま。今日はありがとね」
「、……ぇ、あ、」
後部座席のドアを閉めてミズキは立ち去った。
そして翌日から彼女は徹底的に、乙骨を避けた。
「憂太からここんとこ1日平均5回ぐらいミズキの所在聞かれんだけど?なんで避けてんの?」
五条の呼び出しに渋々応じてみれば、やはり乙骨の話だった。ミズキがスケジュール横流しを以後やめるよう要求したのを、意外にも五条は守ったらしいと間接的に証明されたのだった。
この日も、乙骨は昨日から海外出張に出ているからと聞いてやっとミズキが呼び出しに応じた形である。
「あれだけ熱烈に求愛続けてんだしさぁ、そろそろキスのひとつでもしてやったら?前も言ったじゃん」
「それをやった結果こうなったわけですけど」
「え待ってその話詳しく」
五条がグッと身を乗り出して目を輝かせた。目隠しをしていても、その下の碧眼が好奇心と野次馬根性でキラキラしているのがありありと分かる。
ミズキは任務を肩代わりさせてしまった礼に乙骨と食事をしたところから、一連の出来事を掻い摘んで説明した。居酒屋に入った、ナンパされた、乙骨の非術師殺しを防いだ、タクシーに乗せキスしてサヨナラ、以後無視。
「待って後半急に分かんない。タクシーのとこから」
「まぁ人それぞれですから」
「面倒臭くなんないで!分からせようとしてよぉ」
「おかか」
「狗巻君はここにいません!」
ペシペシと五条の手が執務机を叩く。
ミズキは窓の外に目を遣って、どうにか逃げおおせる道はないものかとぼんやり考えたけれども、いかなる道も見つからなかった。目の前の男は片方の六眼と領域展開を失って尚、現代最強の呪術師である。
「…乙骨くんは五条家を継ぐんでしょう。そんな立場ある人の妻なんて私には務まりませんし、妾や愛人なんて御免ですし」
「えウソ僕のせいな感じ?笑えね」
「折本さんにも悪いですし。指輪してるんだから乙骨くんは既婚者枠でしょ」
「あー良かった憂太のせいだ。でもさぁ折本里香本人はもう成仏してて、あのリカは式神みたいなもんじゃない?指輪は呪具」
「五条さんが薬指に呪具嵌めた恋人作ってから言ってもらっていいですか」
「つまり拗ねちゃってるわけだ。可愛いとこあんね」
五条が頬杖の上でニヤニヤと笑った。
ミズキは反論したいのは山々だったけれどグッと呑み込む。どうせありとあらゆる方面から天才的に揚げ足を取ってくるに決まっているのだ。
「リカの立ち位置を明確にしないままミズキに求愛してた憂太に責があるのは否定しないよ。でも憂太を避ける動機はそれで分かったけど、ミズキの気持ちは隠したままだ」
ミズキは押し黙った。
「『私が好きなら指輪捨てろ』ぐらい言ってやんなよ。それで憂太が渋ったらブン殴って終わり、後腐れなーし」
五条が手をヒラヒラと振って見せる。それを『退室してよし』と意図的に誤読し、ミズキは適当な挨拶を残して学長室のドアに手を掛けた。
扉を開けた先には白い壁が立っていた。
「先輩」
乙骨憂太である。
ミズキは振り返って五条を睨んだ。
「だって可愛い教え子の恋を応援したかったんだもん」
三十路とは思えぬベビーフェイス、ある意味、読み通りだった。
乙骨はミズキの手を引いて黙々と歩いた。痛みは無いけれど隙も無い。絶対に、何があったとしても、1oたりとも緩めるものかという決意のようなものを感じるほどだった。校舎を出、石畳を歩き、階段を下り、その先に寮があることは卒業生のミズキも知っている。乙骨の部屋に放り込まれた時、ミズキは覚悟を決めて口を固く引き結んだ。
「すみませんでした!」
入室するや否や乙骨は腰を折って深く頭を下げ、ミズキは引き結んでいた口をポカンと開けた。てっきり責められるものと思っていたから、拍子抜けもいいところである。
「他の女の子からもらった指輪を持ち続けてる男なんて、嫌ですよね…情けないんですけどさっき初めて気付いて、僕、本当に」
「え、っと、乙骨く、」
「この指輪は里香ちゃんのお墓に返してきます!五条家の家督も辞退します!一人前の呪術師になって先輩を養えるぐらい「乙骨くん、『待て』!」
従順な犬のように背筋をしゃんと伸ばして、乙骨は黙った。一方のミズキは溜息。
「あのね乙骨くん、1人で勝手に決めていいことじゃないでしょう?術式に関わることなんだし五条先生…じゃないな、五条家の人たちに相談して。それに辞退って言うけど、御三家の当主だよ?進学の推薦とわけが違うの」
「嫌です」
「嫌って…」
「だってこのままじゃ、僕は先輩のものにしてもらえない」
乙骨を宥めるためにミズキが彼に向けていた手のひらを、乙骨が片方取って頬を寄せた。彼の方が随分上背があるはずなのに、どこか子犬めいた目で見上げられたようにミズキは感じた。
「先輩、好きです。どうして僕にキスしてくれたんですか?どうしたらまたキスしてくれますか?」
ミズキはこの部屋に入った時とは別の意味で腹を決めた。これはもう、拒めない。
彼女は乙骨の頬にある手で彼を引き寄せて、自身は少し踵を浮かして、彼にキスをした。今度は唇に。
柔らかに触れ合わせるだけ、離れて、もう一度。穏やかなキスだった。それを終えてミズキは離れようとしたのだが、乙骨がそれを許さなかった。ミズキの頬と腰を捕えて強く引き寄せ、噛み付くようにキスをしながら部屋を横切りベッドに至る。乙骨はミズキのことをそっと押し倒して深く深く舌を絡め、彼女が抵抗の仕草を見せていることには薄々気が付いていたけれど、どうにも自制することが出来ないでキスを続けた。
「んーっ…おっ、……っこ、まっ」
「…ん……」
ある時ミズキは強硬手段を取ることにして、乙骨の舌を強く噛んだ。ザクッと痛々しい音がして乙骨がやっと唇を離す。彼は舌を出して赤く血が滲んでいるのを見ると、幸せそうに笑った。
「先輩に噛んでもらったの、初めてです」
「もう…馬鹿、言ってないで…退いて」
ミズキの息は乱れ、頬が上気している。見たことのない表情で睨まれると乙骨は堪らない気持ちになって、もう一度覆い被さると傷のある舌先で彼女の唇をなぞる。唇に鮮血の赤が引かれた。
「すごく、すごく綺麗です、ミズキさん…」
「乙骨くん落ち着いて、まず傷を治しなさい」
「嫌です、ずっと取っておきたい。僕の血でお化粧した先輩にキスしていいですか?」
「電話鳴ってる」
「後でいいです」
「いい加減な子は嫌い」
補助監督からの着信だった。乙骨には任務が控えているという。スマホを耳に当てる乙骨が見たこともないほどムクレているので、ミズキは思わず笑った。しかし電話を耳に当てたままの乙骨が目を丸くして彼女を見ると、ミズキはそそくさと表情を引き締めてしまった。
通話を終えた乙骨は、ディスプレイ右肩の時刻表示を睨んで溜息を吐いた。
「………任務が入りました」
「そう。都内?」
「はい」
「今日中に帰れそう?」
「運が良ければ…」
「じゃあ、日付が変わるまでは待っててあげる」
「え?」
「キスの続き、したくないの?」
「したいです」と乙骨は言ったらしかったけれども、動揺しすぎてよく分からない言葉になっていた。
乙骨はワタワタと支度をして、最後に、自分のベッドに座るミズキのところへ戻り跪いた。
「…先輩、僕行ってきます」
「うん、気を付けて」
「待っててくれますか?いなくならないで」
「待ってるから行ってらっしゃい」
「好きです。本当は行きたくないです」
乙骨がミズキの膝に額を押し当てるようにして消沈し、彼女は優しく目を細めて彼の頭を撫でてやった。その表情を、乙骨は見ていないけれど。
「私も好き」
「、えっ?!」
「はいはい元気ね、行ってらっしゃい」
乙骨が飛び起きるとミズキはもういつものフラットな表情に戻っていて、彼の背中をポンポンと叩いて促した。乙骨は鞘袋の肩紐を握り締めて、先程初めて受け取った好意的な言葉を反芻するように身体を震わせた。「行ってきます!」と宣言して部屋を飛び出す。
かと思えば慌ただしく戻ってきて机の上に何かを置くとまた出ていった。
指輪をチェーンに通したネックレスだった。
乙骨の足音が遠ざかっていく。階段を下り終えた。
ミズキは上着を脱いで、乙骨の匂いのするベッドに倒れ込んだ。
「好きだよ」
彼が戻ってきたら、どう伝えよう。