フォーメーションB:フローレスの水槽(五条悟)



※フローレスの水槽番外編【日曜日のひるね】に登場した息子がいます。



3ヶ月前に同じ場所で見かけて心底惚れ込み、それからずっと探していたのだと言われても、困るの一言に尽きる。ミズキの心境はまさにそれだった。目の前の(初対面の)男が熱っぽい目で前のめりに迫ってくることに、若干の恐怖すら感じている。

「あの…お気持ちはありがたいですけど私は既婚者ですし、今日は夫と息子と来てますので」

ミズキは指輪が見えるように手を傾けた。これで片付くと思っての仕草だったけれども、現実にはそのように転ばなかった。
野薔薇曰く『奇跡の美貌』で、実際のところ澄んだ目やふんわりと滑らかな頬や艶やかな髪は、20代前半の頃からあまり変わっていない。

「僕は気にしません!必ず幸せにします!」
「はぁ…」

だから不倫・駆け落ちしてください、とでも言いたいのだろうか。幸せとは何であるか。ミズキはまた困った。
その時ミズキと男の間に黒髪の頭が割り込んで、直後、男が背中を丸めて濁った声を上げた。

「オイお前、誰に話し掛けたと思ってる」
「理人」

理人が男の脛を強かに蹴ったのだった。
理人は愛らしい笑顔でくるりと振り向くと「お母さん大丈夫?すぐ済むからね」と言った。
それからその笑顔を取り消して男を見る。理人の容貌の中で唯一ミズキに似ている目元が、こんな時にはキッとつり上がって父親と瓜二つになるーーーつまり、髪と目の黒い(そして幼い)五条悟そのものである。
理人は脛を庇って蹲る男の前にしゃがみ込んだ。母親に聞こえない音量で「雑魚が見てんじゃねぇよ」、加えて父親譲りの呪力量で相手を威嚇した。

「やめて」

ミズキが理人の肩に手を置いた。
親として当然に子供を不審者から遠ざけなければならないし、今回はその不審者がそろそろ泡を吹いて倒れそうという事情もある。
その時、理人の頭に大きな手が乗った。

「理人下がれ」

五条が、息子の頭をぐっと押さえるようにして理人の隣にしゃがみ込む。男に向けてニッコリ笑った。

「お兄さんごめんねーウチの子口が悪くってさぁ」

それからその笑顔をすっかり引っ込めて、無表情で男の顔を覗き込んだ。極めて美しい造形をした顔が何の表情も浮かべず至近距離で凝視してくることの圧に耐えられず、5秒後男は曖昧に首を縦に振った。肯定の意味でなく、ただその仕草の間五条の視線から逃れることを目的として。
五条がまたニッコリ笑った。

「ねぇ、僕の奥さん可愛いでしょ?遊んでもらいたくなるよね。気持ちは分かるよ」
「は、はい…」
「ウチでもね、順番待ち渋滞してんの。1番が僕で次がこの小さいの」

隣から呆れ顔の理人が「子供に順番ゆずれ」と吐き捨てた。

「君も並びたい?僕の奥さんに運命感じちゃうのは勝手だけど、相応の覚悟と実力がないと思ったような結果は得られないかもね」

ゆっくりと首を傾げられて、男に残されたのは逃げの一択だった。ほとんど転がるようにして男が逃げていくと、五条がゆったりと立ち上がってミズキの肩を抱き寄せた。

「1人にしてごめんね。触られたりしてない?」

ミズキが表情を緩めて首を振ったところで、理人が今度は父親の脛を蹴っ飛ばそうとして失敗した。到達していないその感触に理人はムッと眉を寄せる。

「『ごめんね』じゃない、何でお母さんを1人にしてんだ」
「だってぇ本家から面倒臭い電話かかってきたんだもーん無視ったら鬼電くるやつ」
「電源切っちまえ」
「あっ今度やるわそれ」
「2人とも変なところで合意しないで」

不適切な部分で馬の合う父子にミズキは苦笑した。それから、理人の頬を撫でてあまり他人に突っ掛かるのは良くないと教えてやる。
理人が喜ぶのと反論するので迷っている内に、また五条のポケットから着信音が上がった。彼が苦い顔でディスプレイを確認すると伊地知の名前があって、五条は隠しもせず舌打ちをした。

「伊地知ィ…久しぶりの夫婦のデート邪魔する気分はどう?」

電話の向こうで伊地知が平謝りしていることが、ミズキや理人にも容易に想像できる。気の毒なあまり、『夫婦のデート』という部分を訂正することを理人は幼いながらに遠慮した。
休日の五条に電話が入るということは何らかの緊急案件で、余程の事態ということになる。五条が理人の言う『電源切っちまえ』を実行しなかったのは、五条家からの連絡と違い自分が電源を切ればミズキに回るからである。
ひとしきり事情を聞いた五条は電話を切って深々と溜息を吐いた。

「まーた仕事任務面倒事…僕には奥さんとデートする権利ないっての?泣くよ?」
「残念ですけど…行ってきて?ご飯作って待ってますから」
「ご飯もありがたいけど…」

ミズキの肩を抱いていた大きな手がするすると腰に降り、華奢な身体を引き寄せた。五条は上体を屈めて妻の耳元に口を寄せ、声を低くする。

「僕、夫婦の時間が欲しいなぁ…?」
「っも…子供の前でっ」
「僕はいいけどお母さん、そろそろ日車先生に言おうよ」
「お前さぁムード壊すなよ弟か妹作ってやるから」

理人はシラけた視線で父親を刺した。
そうしている内に五条に再度の連絡が入り、伊地知が近くまで迎えの車で来ているという。ミズキがどことなく緊張して夫の袖に白い手を添えた。

「…気を付けて。怪我しないで帰ってくださいね」
「大丈夫だよ、僕最強だから」

五条が安心させるように笑ってやって彼女の目尻にキスをしても、今度は子供の前だとか往来だとかを理由に咎められることはなかった。理人は母親のひた隠す不安と緊張を隣から静かに見ていて、ある時「僕も行く」と声を上げた。

「僕が祓う」

ミズキが目を丸くする傍ら、五条は愉快そうに目を細めた。

「お、いーね。今回数が多いらしいし勝負する?」
「望むとこだ」

理人の意見は飛び出したそばから採用され綺麗にまとまった格好で、ミズキが慌てて止めるも父も子も聞こうとしない。
理人が母親の手を取った。

「お母さん、僕父さんより強くなるよ。お母さんが安心して待てるように」

ミズキは自分を真っ直ぐに見ている理人を見つめ返した。いつの間にか高さがあまり変わらなくなっていて、頼もしささえ感じるようになった。父親よりも、五条悟よりも強くなるというのがどれだけ大それた宣言であるのか、理人は本当には理解していないかもしれない。しかし彼の目は本気だったし、これまで母親との約束を違えたことはない。
五条が楽しそうに笑った。

「とんでもない約束しちゃったね。死ぬほどキツいけどやる?」
「やるよ」

その時通りの向こうに伊地知と車を発見して、理人は1人でさっさと行って後部座席に乗り込んでしまった。伊地知が『いいんでしょうか?』という顔で五条と車を交互に見ている。

「あいつ、本当にやるかもね」
「悟さんより強く…ですか?」
「ミズキとの約束は理人にとって一番大きい縛りだよ。腹括ってるしポテンシャルもある」
「あら、それじゃあ私子供と駆け落ちすることになるんですか?」

ミズキが揶揄うように笑うと、五条は一瞬何のことか思いを巡らせて、ついさっき自分がナンパ男に言った内容を思い出した。覚悟と実力、確かにそういう話をした。

「どこに行こうかな。夢の国のパークホテルに泊まっちゃったりして」
「まぁ僕が生きてる内は?抜かせませんからぁ?チビは実家にでも預けてミズキは僕とミ○コスタセックスだね」
「真昼の往来で何言うんですかもう」

ミズキが呆れて笑った。
理人が車から顔を出して早く来いと父親を急かしている。
五条も笑って、ミズキを連れて車へ一歩踏み出す。

五条一家にとってありふれた、比較的穏やかな午後のことである。







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