フォーメーションB:赤い糸と嘘(夏油傑)
ミズキには困り事があった。長年拗れた末に最近やっと恋人になった夏油傑という男について。
尤も、夏油がミズキに危害を加えることは決してないし、態度も柔らかい。むしろ彼女が申し訳なくなるほどの尽くしっぷりで、少しの段差にも手を貸し彼女の視線や表情から希望を汲み取り、素人目にも分かる高級品を記念日でもない日に贈る、という具合。
これはもはや介護か接待の域なのでは?とミズキは友人の家入硝子に本気で相談したことがある。その時硝子は笑って「取れるだけ取れ」と返しただけだったけれども。
問題は(尽くし方の度が過ぎていることを除けば、)彼女以外への態度である。
「だって普通にね、補助監督とか他の術師と挨拶も会話もするでしょ?乙骨くん相手なら一回モメたみたいだし分からなくもな……いや先生が生徒と喧嘩しちゃだめだ」
「あはは」
「硝子ちゃんこれは真面目な話です」
ミズキはぺしぺしと机を叩いた。
夏油は長年の片想いが実って以来、自分の恋人に他の輩が近付くことがとにかく我慢ならないようで、ミズキがただの事務連絡や世間話をしている時にもいつの間にか背後に立って相手に睨みを投げるようになってしまった。
愛しい恋人が再三注意してものらりくらりで聞き入れようとしない。その内に話を逸らされ甘い眼差しと言葉で煙に巻かれ…この辺りの経緯は人に相談すると惚気になってしまうのでミズキは硝子にも話していないけれども。
「どうにかしないといつか死人が出ちゃう…特級術師の睨みって人が死ぬ…」
「実体験から?」
「そうねマジでいつか殺されると思ってた」
夏油にとっては『大好きで見つめていた』、ミズキにとっては『嫌われて睨まれていた』という残念な擦れ違いは長かった。そのせいで、誤解が解けた今になってもミズキは夏油に睨まれる同僚たちの気持ちがひしひしと分かるのである。怖いよね、ごめん、分かる、と彼女は常に思っている。
「硝子ちゃん、何かいい方法ない?夏油さんがとりあえず一旦冷静になる何か」
「ダメだろ。冷静な状態で既に嫉妬してる」
「じゃあ嫉妬どころじゃなくなる何か」
「エロい幻覚でも見せてやれ」
「それをイメージする私の身にもなって…」
生得術式で比較的自由になるとはいえ、幻覚をそれなりの解像度に仕上げるには明確なビジョンが必要になる。真昼間に同僚たちの前でそんなことが出来るかという話である。
硝子はカラカラと笑った。夏油の悪行については最悪ミズキが「やめないと別れる」とか言えば立ち所に解決するという確信が、硝子にはある。
ミズキは周囲への申し訳なさと恥ずかしさを抱え、それでも夏油に対して強く出る度胸もない(何しろ彼女にとっても長い片想いであったし、誤解が解けたとはいえ夏油の睨みへの苦手意識は薄ら残っている)微妙な感情に思い悩んで、また医務室の机に伏せたのだった。
ミズキが硝子に相談をして有効な助言を得られなかった日から数日、ミズキは非常に困っていた。
よりによって夏油とデートの待ち合わせをしている時にナンパに遭ってしまったのである。非術師を嫌っている節のある夏油がこの現場に合流してしまえば、最悪流血沙汰になるかもしれない。
ミズキは自身をナンパしてきた男の身をものすごく案じた。
「あの…逃げてください、本当危ないので、お願い」
心からの助言である。
ミズキは自分の不運を呪いたくなった。待ち合わせ前に私用を済ませようとしたことも、その私用が思ったより早く終わって微妙に時間を持て余したことも、悔やんでも後の祭りである。
ナンパの男はミズキの善意による勧告を受け入れず、あまつさえ彼女の焦り様からDV彼氏を想像して自分が懲らしめてやるとまで言い出してしまった。このままだと懲らしめられるのはこの男の方である。
「あ、心配してくれてる?大丈夫だよ俺格闘技やってるから」
喧嘩を売るなら相手を見てからにした方がいい。この場合における相手というのは非術師がどれだけ武装したところで敵わない男なのだから。
その時ミズキの右肩から鎖骨の前を通って反対側の肩へ、黒い上着の腕が回った。
「それは頼もしいね。1分立っていられたら褒めてあげよう」
アッ詰んだ、とミズキは思った。
恐る恐る顔を上げると、いっそ清々しいほどニッコリ笑った夏油と目が合った。これは付き合ってから分かったことだけれど、夏油は睨むより笑っている時の方が怒りの度合いが高い。
「遅くなってごめんね、次から必ず私が迎えにいくようにするから」
眉尻を下げて申し訳なさそうにミズキに微笑んでから、夏油は目の前の男にもう一度作り笑顔を向けた。
ちなみに現時点で待ち合わせの時刻の20分前である。
「さて、格闘技って言ってたけど具体的に何かな。競技は君に合わせるし私は片手で構わないよ」
一聴すると競技だとかハンディキャップだとか公平な話をしているけれども、今から始まるのは控えめに言って一方的な私刑である。現に男は夏油の体格や雰囲気に気圧されて、本能的にさっさと戦意喪失している。
ミズキは段々と腹の立つ思いがしてきた。忠告を聞き入れなかったナンパ男しかり、非術師にまで嫉妬心を見せる夏油しかり。夏油とこの男では途方もない実力差というか、最早生物としての強度が違うというのに、本気で噛み付こうとする奴があるか。特級術師が私怨で動いたらそれは最早テロである。
ミズキは夏油の腕に囲われた中で振り返って、彼の服を軽く摘み、静かに見上げた。夏油は表情を緩めて甘い視線を返す。煙に巻くいつもの手法、これに流されてはいけないのだ。
「すーくん、めっ」
数秒の沈黙、夏油は目を丸くしていて、それからトマトジュースでもぶちまけたように赤面した。
「ぇ、ちょ、……な、」
「いい子にして。乱暴するなら一緒にお出掛けしませんよ」
「はい」
もしも夏油傑が犬だったならきっと腹を上にして寝転んでいた。
特級術師が完全降伏した瞬間であった。
後日、ここ最近夏油の嫉妬が(少なくとも表面上)大人しくなったことに気付いた硝子は、ミズキに理由を尋ねて完全降伏の経緯を知り、それはもう咽せるほど笑った。
「す…っ………、ハハッす、く…っ」
「そんな笑う?確かに自分でも強めに出ちゃったなぁって思うけど」
不特定多数の通る自販機前で立ち話をしているせいで、通り行く面々がひっきりなしに硝子の笑うのを珍しげに見ていく。
そこへ、人物を判別出来るギリギリの遠距離から夏油と乙骨が歩いてくるのが見えた。よせばいいのに無意味にピリついた空気で睨み合って歩いていて、ミズキの存在に気付くと競って駆け寄ってきた。僅差で乙骨が勝ったのは、夏油が学生相手に大人気ない振舞いをしてミズキに叱られる可能性を危惧したことが大きい。
「ミズキさんこんにちは。この後任務ですか?」
「乙骨くんこんにちは」
次の任務まで15分ほどだと告げたところで夏油の手が乙骨の頭を鷲掴んだ。
「君はさっさと報告書でも作りに行ったらどうだい」
乙骨は夏油の大きな手を強く払い退けて、子犬のような笑顔でミズキを覗き込む。
「尊敬する先輩に挨拶したって構わないでしょ、ね?ミズキさん」
「乙骨の勝ち、完封、コールド試合」
「硝子には聞いてないよ」
「ミズキ、お前のとこのすーくんが乱暴してくるんだが」
乙骨が目を訝しげに、口を『す…?』という形にして、硝子と夏油を交互に見た。今度は硝子からごく簡単に完全降伏の話があって、乙骨は顎先を触りながらそれを聞いていた。
「…すーくん、ですか。それで、ミズキさんが『めっ』って…」
「乙骨、冷静に叙述するのやめてくれ腹が捩れる」
「いいなぁ…」という乙骨の呟きは声量の割に存在感を持ってその場に落ちた。硝子がプッと吹き出すのと同時に夏油が額に青筋を立てて乙骨の肩を掴む。
「乙骨…第三演習場においで。稽古をつけてあげよう」
「遠慮します夏油先生。僕、報告書を作らなきゃいけないので」
夏油と乙骨は表面上ふたりとも笑顔だけれども、ミズキが見たところによると乙骨も笑っている時の方が怒りの度合いが高いタイプ。
ミズキが夏油に歩み寄って腕に触れると夏油の表情が緩んだ。彼女が術式で夏油に何かの幻覚を見せたらしいことを悟った乙骨がまた内心羨んでいる間に術式の効果時間は終わった。終わった途端、夏油の手が機敏にミズキを捕まえて瞬く間に肩に担ぎ上げた。そのままスタスタと歩き出す。
「え、ぇちょ…っ夏油さん!?」
「うん?」
「どこ行っ…や、私この後、」
「任務だよね。私が同行するからそのままデートしよう」
「私情のかたまり!あっ乙骨くんごめんね!」
「お騒がせして、」とミズキが夏油の肩越しに言おうとした途中で、肩に担がれていたところから横抱きに変わった。乙骨と硝子からはバタバタとまだ抵抗しているミズキの脚が夏油の後ろ姿から横に突き出たのが見えるだけになってしまった。それもすぐに遠ざかってしまう。
水を打ったように静かになった場で、硝子が「…あれだ、」と呟いた。
「飼い犬に手を噛まれたってやつ」
「ミズキさんの犬なら僕もなりたいですけど」
「お前も懲りないね」