写真家:夏油傑(後)



壁は高い天井まで一面すべてガラス張りで、温室のように陽光の暖かさを室内に招き入れている。ホテルの最上階に位置するそこは比肩するビルも少なく、部屋がまるごと空に浮かんでいるように感じるほどだった。
ミズキが約束の日時にそこを訪れると夏油の名前を告げるまでもなく個室に通されて、通された先では夏油が既に待っていた。ホテルのティーラウンジという場所柄、夏油は撮影の時よりもかっちりしたシャツにジャケット、適度に細身のスラックスという装いだった。写真家というよりはむしろ、やり手の実業家という見た目である。
感じのいい老紳士がミズキに紅茶の銘柄を選ばせて退室すると、夏油はやっと口を開いた。

「…まずはありがとう、来てくれて。写真の話をダシにしたのはごめんね」
「…途中、本当に仕事のことで話があるのかと思いました」
「ラジオを聞いてくれたのかな」
「マネージャーの車で偶然」
「もう一度口説かせてほしい…いいかい?」

丁度その時ドアがノックされ、静かに紅茶が運ばれてきた。老紳士は優雅にカップに注いでミズキの前に置き、ケーキスタンドの内容を簡単に紹介して音もなくまた去った。

「紅茶とお菓子、よければどうぞ」

夏油の前にも、ミズキの選んだ銘柄の紅茶が置かれている。彼女は薄っすら湯気の立つ紅茶を口元に運んで、温かさと香りに目を細めた。

「紅茶が好きそうだと思ったんだけど、間違ってなかったみたいだね」
「…そんな話をしましたっけ?」
「私が勝手に思っただけさ。撮影の時は気を遣ってコーヒーを選んだろう。君の好きそうなものを他に知らなかったからアフタヌーンティーにした」

ミズキは夏油に気付かれない程度に小さく溜息をついた。この人はこれだからモテるのだと再確認が重なるばかりである。
彼女はケーキスタンドの最上段から、艶々としたベリーのプチケーキを取ってフォークで控えめに口に運んだ。「おいしい」と言ったのは社交辞令でも何でもなく、ただ本心だった。夏油はミズキの様子をつぶさに見つめていて、彼女の口元が笑うと安心したように喜んだ。

「ここを選んで良かったよ」
「…以前にも来られたことがあるんですか?」
「いや、俳優で五条悟っているだろう?長い付き合いでね、甘いものはあいつに聞くと外れがない」

『いるだろう』も何も、五条悟は知らない人を探す方が難しいほどの人気俳優である。ミズキにとっては、廊下で擦れ違おうものなら姿が見えなくなるまで頭を上げられないような雲の上の存在と言っていい。夏油が五条悟に何と言って店の情報を聞き出したものか、ミズキは非常に気になったけれどもひとまず追求しないことにした。
「夏油さん」とミズキが言って華奢なフォークを置くと、夏油は僅かに緊張を高めて彼女の言葉を待った。

「『口説かせてほしい』について、お返事をしないままでした。今日私がここに来たのは、口説いてもらうためではありません」
「…、そっか」
「失礼なことを言ったお詫びと…私でよければ、お付き合い、してくださいますか?」

振られる構えだった夏油は一拍置いて「え」と声を漏らした。いつも余裕そうに弧を描いている口元がポカンと半開きになっている。

「えっと…………、えっと、聞き間違い?」
「間違いの方がいいですか?」
「や、喜んで……なんだけど、え?私告白を上手くやり直せた気はしてないんだけど」
「夏油さんもしかして、何か誤解をされてます?」

夏油は力の抜けた表情のまま、ミズキの言う誤解の心当たりを探した。

「前回は…会えなくなる前にと焦って食事に誘ってしまったから、女誑しの噂があるくせに口説き方が雑だって思われたものだと…」

それで夏油が公共の電波まで使ってリトライの申し入れをしてアフタヌーンティーに臨んだと思うと、ミズキはすれ違いぶりに可笑しくなってしまった。確かに『幻滅』発言について彼女は何ら理由を話さなかったし、夏油の解釈は突拍子もないものではない。「私は」と言いながら、ミズキは堪えきれずに笑ってしまった。

「撮影中夏油さんがとっても紳士的だったから、ふふ、女誑しなんてただの噂だって、見直してたんです。だけど最後に口説くようなことをなさるから、いつもこんな風に女性を引っ掛けるんだって思って」
「それで、幻滅?」
「でももう取り消しました」

夏油は与えられた一連の情報をゆっくり咀嚼して腹に落ち着けると、「は」と溜息とも笑い声とも取れる音を発してずるずると椅子の背に凭れ沈んだ。

「…格好悪いね、私」
「夏油さんは素敵ですよ」
「服装がラフすぎたかと思ったんだ」
「今日のかっちりしたのも良いですけど、撮影の時の方が似合ってました」
「髪が鬱陶しいって言われたら切るつもりだった」
「乾かすのが大変そうとは思いますけど、髪型も似合ってます」
「『幻滅』は結構…うん、刺さったよ」
「それは本当に、言い過ぎでした。ごめんなさい。あの時は夏油さんがいつもこんな風に色んな女性を口説いてきたんだ…って思って、嫌だったんです、とっても」

夏油は後ろ首を背凭れに預けて天を仰いでいたところから顔を戻して、驚きをもってまじまじとミズキを見た。

「それはつまり、嫉妬してくれたって…思ってもいいかい」

ミズキは気まずさから目を逸らし、冷め始めた紅茶に口を付けた。砂浜であの時嫉妬をしていたという事実を突き付けられると、既にしっかり夏油に惚れていたかのようで恥ずかしくなってしまう。気持ちを整理してみれば、事実その通りなのだけれど。
夏油はその大きな手のひらを額に当てた。

「…参ったな、今、どうしようもなく君とキスしたい」

ミズキは少し考えてから席を立ち、テーブルを回って夏油の傍に立った。大柄な彼が座面の高い椅子に座っているので、立っているミズキと頭の高さがあまり変わらない。ミズキは少し身を屈めて、驚いた表情の夏油の唇に小さくキスをした。幼い女の子と愛犬が交わす挨拶のような、可愛らしいキスだった。
終えて離れていこうとしたミズキの頬を夏油の手が捕まえて、今度は彼の方から唇を合わせた。ミズキの可愛らしいキスとは違って彼のは随分欲深である。お互いの好意が疎通して間もないことを弁えて、無遠慮に口内を荒らすようなことはなかったけれど、どうにも明るい陽の差す時間帯には似つかわしくないキスだった。夏油の肩に置いたミズキの手が強張り、唇を離すと夏油は口紅の感触を指で拭った。

「…えっち」
「うん、ごめんね」

ミズキのじとりと睨む顔を夏油は嬉しそうに見ていて、椅子から立ち上がるとぎゅうぎゅうと力いっぱい抱き締めて、甘い香りのする髪を自身の胸板に押し付けた。出来るだけその香りを自分に移そうとするみたいに。

「夢みたいだ…どうにかなってしまいそう」

恍惚とした溜息を頭上に聞いて、ミズキも夏油の腕の中で目を細めた。

「…夏油さんって意外と初心です?」
「言ったろう、意外と恋愛経験少なめだって」

それは勿論、都内だけで恋人が50人という噂に比べたら、誰だって恋愛経験少なめということになる。ミズキは心の中だけで夏油の揚げ足を取って遊んで、少し笑った。すぐそばにある彼の心臓の忙しないのが接した部分から感じられ、それ即ち彼の証言が嘘でない証拠だった。
あんなキスをするくせに、どうやら緊張はするらしい。

その時夏油のポケットから着信音が鳴り響き、ミズキは驚いて肩を跳ねさせた。しばらく経っても音が止まず、夏油は「ごめんね」と小さく断って端末を取り出し、ディスプレイの名前を確認すると不機嫌に顔を歪めた。五条悟と見えて、ミズキは息を飲んだ。

「もしもし、今取り込み中なんだけど」
「お前ミズキちゃん誘ったの今日じゃなかったっけ?イチャついてた?」
「お陰様でね。じゃあもう切るぞ」
「僕のお陰様だろ、まぁ待てって」

夏油の首元に額を預けるようにしているので、ミズキにも電話越しの声がはっきり聞き取れた。五条悟が自分の名前を発したことは、彼女にとってにわかには信じ難い事件である。

「お前が僕に店紹介しろなんて初めてじゃん。そんだけ必死なんだって思って2時間笑ったね」
「……そんなに暇なら仕事しな、売れっ子俳優」
「今のはミズキちゃんにも聞かれてる間だね。丁度いーや、ミズキちゃーんおーい聞こえるー?五条悟って分かるー?」
「はっはいっ!よく存じてます!」
「あっ返事しなくていいから!」
「え、ごめんなさい」

電話口の五条がゲラゲラと笑った。

「あー楽しっ!まぁ実って良かったね」
「…それはどうも。今度上白糖5kg届けるよ」
「蟻かっての。あっそーだ今度僕ドラマ決まってんだけど相手役にミズキちゃん指名していい?レディコミ原作のイチャラブえちちな深夜ドラマ」
「ふざけるな舌引っこ抜くぞ」

夏油は端末を耳から離すとそのまま電源を長押しした。また聞こえている五条の大笑いが途中で途切れ、夏油の指がスワイプすると完全に沈黙した。深々と溜息。

「…すまない、昔からああいう奴なんだ」
「どこまで本気かは別として、実はいい人っていう感じですね」
「ただの悪ガキだよ」

ミズキはくすくすと笑った。五条に向かって怒る夏油がどこか楽しそうだったから。楽しそうと思われていることを知らない夏油は「やれやれ」と溜息を吐いて、額を親指で掻いた。
それから2人は五条推薦のアフタヌーンティーを堪能し(尤も、夏油はもっぱら美味しそうに食べるミズキを眺めていた)、時間をずらして店を出ることにした。
扉を開ける手前でミズキが夏油を振り返った。

「そういえば夏油さん、ひとつお願いが」
「何だい?今後一切女性の写真は撮らないって約束しようか?」
「急に締め付けが強過ぎますね?夏油さんのお仕事に口出ししませんよ」
「そっかぁ…」

190cm近い大男がシュンとしている。ミズキは「何でちょっと残念そうなんですか」と笑った。

「コテージで撮った小鳥の写真って残ってますか?」
「あるよ。送ろうか」
「お願いします。綺麗な写真だからアイコンにします」
「いいね、それ」

夏油はすぐにスマホを手に取ろうとして電源を落としたことを思い出し、ここで電源を入れ直して何かしらの邪魔が入るのを嫌った。「見送ったらすぐに送るよ」とミズキの背中に手を添えて、最後にもう一度覗き込むようにしてキスをした。

夏油の言う「見送ったらすぐ」は本当にすぐで、ミズキが化粧室でリップを直している間に写真が送られてきた。エレベーターで地階まで降りてタクシーの中でいくらかメッセージをやり取りしている内に夏油のアイコンが変わり、よく見るとそれはミズキが夏油のカメラで撮ったあのピンボケ写真だった。

夜になって電話をした時、ミズキは何故そんな失敗写真を残してあるのか照れ隠しに問うてみた。
問われた夏油は満足げに笑って、声には出ていなかったけれど彼の笑ったことは電話越しにミズキに伝わった。

「この写真を見るとね、重たそうにカメラを持つ手だとか私を見上げる顔を思い出して幸せになるんだ。だから私にとってはすごくいい写真なんだよ」
「……、…こんなピンボケ写真使って、お仕事の評判が落ちちゃっても知りませんからね」
「照れたね、可愛い。周りの評判なんて好きにさせておくさ」

付き合い始めて間もないながら、ミズキは夏油がどんな表情でいるのか鮮明に思い浮かべることが出来た。切長の目を細めて、気ままな神様か猫のようにゆったりと笑っているに違いない。
夏油はソファに凭れて、ミズキの思い浮かべた通りの表情を浮かべていた。

「ところで来週のどこかで食事に行けそうな日はあるかい?昼でも夜でも、君の好きなものを知りたい」
「来週だと…水曜日のお昼と金曜日の20時以降だったら。だけど今度は夏油さんの好きなものにしてください、私も知りたいから」
「ハーーー…好き可愛い良い子すぎる…」
「あっあと火曜日の夜に五条さんから『ドラマの打ち合わせしよ』って食事に誘われたんですけど行っていいですか?」
「うん絶対ダメ。私が話をつけるからミズキは聞かなかったことにするんだよ」




***
恐らくこの男、ガンガン匂わせしてスルッと世間公認の席に落ち着く。







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