写真家:夏油傑(前)



夏油傑は若くして名の通った写真家である。彼に依頼したい人間は数多いるので、まともにコンタクトを取ることすら難しいのだとミズキのマネージャーは豪語した。それを思えば、写真集の話を持ってきたマネージャーがほとんど発狂しそうだったことにも頷ける。
対するミズキは正直乗り気ではなかった。夏油という男に会ったこともないけれど、彼自身が俳優になるべきと言われる男前なのは知っているし、写真を撮った女優全員抱いたという噂があることも知っている。
これはつまり枕営業しろということだろうか…と思うと、ミズキは気が重かった。

撮影の日程は3日間、海辺のコテージを貸し切りで行われる。
現場に現れた夏油は人好きのする笑みを浮かべていて、なるほど美丈夫を絵に描いたような男だった。ゆったりとした開襟シャツに黒のサルエルパンツ、長い黒髪をハーフアップの団子に纏めている。体格も相まって見様によってはガラが悪く写りそうなものが、柔和で涼しい表情が物騒を中和している。「よろしくね」という声は柔らかく、差し出された手は大きくて温かかった。

「写真集は初めて?」
「はい」
「それじゃあまずは緊張を解くところからだね。写真のことはひとまず意識しないで、少し私と話してようか」

夏油は重そうなカメラをテーブルに置いた。レフ板や照明器具を構えているスタッフを振り返って「水道とコンロは使えるよね?」と言いながら、早くも薬缶に水を溜め始める。

「コーヒーと紅茶ならどっちが好きかな?」

ミズキは可愛らしいキッチンをさっと見回して夏油の隣に立ち、コーヒー豆の瓶を開けた。「コーヒーにしましょう」と言いながらペーパーフィルターの端を折る。
夏油は少しの間手を止めてミズキを見ていて、彼女がスタッフの頭数を数えようとしているのを笑って止めた。

「スタッフ全員分淹れるにはコップが足りないね」
「あ、紙コップか何か…」

それでスタッフの面々が慌てて、自分たちのコーヒーは必要ないからとそれぞれのペットボトルを取り出した。それに、夏油が薬缶に注いだ水はそもそも2人分の量である。

シンプルな佇まいのマグカップにコーヒーを注いでダイニングテーブルに着くと、開け放った窓から海の匂いを含んだ風が吹き込んだ。
夏油は働く気のなさそうな様子で、ゆったりと座ってコーヒーを飲んでいる。

「いい日だね」
「…そうですね、気持ちのいい日です」
「好きな音楽はある?スピーカーあるからスマホから流せるよ」

ミズキはあまり気乗りしなかったけれど、マネージャーが嬉々として彼女のスマホを持ってきた。そうなると何かしら選ばざるを得ない。ミズキは自分の趣味だとか内面を夏油に晒すことについて、まだ小さな抵抗を覚えていた。
夏油の出してきたスピーカーにスマホを繋いで、ミズキの耳に馴染んだ音楽が流れ始めた。

「いい趣味だね。私も好きだな」
「…どうも」
「私のことを警戒してるね。まぁ、良くない噂が流れてるのは自覚してるから仕方ないけど」

夏油は、大して気に留めていない様子で言った。居心地の悪くなったのはミズキの方で、彼女は手元のコーヒーに視線を落とした。

「写真は撮る側と写る側の共同作業だから、信頼…は難しいかな、信用してもらえるように頑張るよ。あと一応良くない噂はほとんど嘘だって弁解しておきたいな」
「…ほとんど?」
「おっと墓穴」

夏油が明るく笑って見せて、ミズキもそれにつられて小さく笑った。それから夏油に対して警戒心を持っていたことを素直に詫びた。
コーヒーを飲み終えるとメイク担当者がミズキの口紅を手早く直し、それで撮影が始まるのかと思いきや夏油はまだ動かない。彼は口の前に人差し指を立てて、ミズキに窓の方を見るように目配せした。見ると開けた窓に小鳥がきて、室内を覗いていた。小さくシャッターの音が響いて、夏油がミズキを手招きした。

「…わ、綺麗」

たった今撮ったばかりの写真をディスプレイに見て、ミズキは思わず息を詰めた。小鳥のつぶらな瞳や柔らかそうな羽毛、背景を含めた美しい構図、陰影、簡単に無造作に撮った様子だったのにその写真は完成されていて美しかった。

「撮ってみる?」
「え…でも、」
「撮る側の気持ちになってみるのもいいかもよ」

少し迷った末にミズキが頷くと、夏油は背後から彼女を抱き込むようにしてカメラを掲げ、手を添えて正しく持たせた。カメラはずっしりと重い。

「構図はひとまず私のと同じでいいかな…ここを回してフォーカス、そう、こっちが明るさの調整」
「ピント合わない…え、うそ私何か変なことしちゃいました?」
「はは、大丈夫だよ。少し戻して…そうそう、シャッターがここ」
「…、あ…っ逃げちゃった」

シャッターを押す直前に小鳥は飛び立ってしまって、結局カメラには夏油の撮ったものと同じ画角から小鳥が消え、少々ピンボケした失敗作だけが残された。
ミズキが情けなさに肩を落とし、その肩を夏油が軽く叩いた。

「緊張しすぎ、かな。被写体に伝わるんだよ」
「難しすぎです…私が鳥なら夏油さんのシャッターは待てるけど私のは待てません」
「そう?光栄だね」

夏油は笑って、それから徐々に雑談のような撮影のような緩やかな時間が始まった。ミズキにとっては雑談の分量が多く、何気なく過ごしているところをいつの間にか切り取られているという感覚だった。
夏油は話題が豊富で聞き上手、気さくでありつつ紳士的だった。撮影の中でベッドに寝転んだミズキに夏油が跨がる場面もあったけれど、その時にもいやらしい雰囲気はまるで感じさせなかった。それでいて彼は息をするように自然にミズキを褒めた。
ミズキは夏油にまつわる噂について、認識を改めつつあった。彼は気遣いの出来る人で女性を気分良くさせることに長け、それでいて下心を感じさせない。加えて有名な写真家でこの男前ときたら、女性が放っておかないだろう。彼が女誑しというよりも、ただモテるという印象に変わっていた。
3日間の撮影は満足な結果を伴ってつつがなく終わり、初めは乗り気でなかったミズキも夏油に撮ってもらえて良かったと思っていた。

コテージの撤収作業が進む中、夏油がミズキを海辺に散歩に誘い、既にすっかり警戒を解いていた彼女は素直に彼について海岸へ出た。
陽の傾き始めた時間帯、少し冷え始めた風が髪を揺らしていく。
写真がいい出来だっただとか被写体がいいから撮り易かっただとか、内容を見れば社交辞令にしか思えないものが夏油の口から出ると本心のように自然に響く。ミズキはそれを『これだからモテるんだろうなぁ』と微笑ましく聞いていて、続いて出た夏油の言葉を思わず聞き返した。夏油は一度言ったそのままを繰り返した。

「…良ければ、今度食事でもと思うんだけど」

彼女は愕然とした。
こんな口説くようなことを、夏油がするとは思っていなかったのだ。この3日間で浮上していた夏油への印象が一瞬で覆って地に落ちた。
夏油を放っておかないのは女性たちの方で、彼は気さくで紳士なだけ…と好意的に捉えていたことが馬鹿馬鹿しく思えてしまった。

「…行きません」
「、そっか…」
「幻滅します」

いつもこうやって紳士的に振る舞って警戒を解かせてから最後に口説いてきたのかと問い質してやりたかったけれど、それを飲み込んでミズキは足早にその砂浜を去った。


それから、夏油から連絡が来ることはなかった。プライベートの連絡先は伝えていなかったし、写真集に関する仕事は終わっているから当然だった。
マネージャーの運転する車に身を任せながら彼女はぼんやりと流れゆく街灯を眺めていた。写真集の発売が近いから記念イベントの予定が云々…とマネージャーが口にして、ミズキは夏油のことを思い出した。
彼に好意を抱いていたのかもしれない。そうであればこそ、夏油が仕事の度にこうして女性を口説いてきたらしいことに腹を立てたのだろうから。しかし後の祭りである。『幻滅』は軽くない。

その時、カーラジオのパーソナリティが明るい声で「本日は写真家の夏油傑さんにお越しいただきました」と告げた。運転席のマネージャーは「噂をすればですねぇ」と。
ミズキからしてみれば触れられたくない部分ではあったけれど、ラジオを消すように言うのも憚られて結果無言を選択した。
ラジオ番組は夏油の仕事の内容に軽く触れると、早々に夏油のプライベートや女性関係の話題に移っていく。ミズキには益々嬉しくない。早く自宅に着いてくれないだろうかと思ったところで距離は縮まない。

「夏油さんといえば業界屈指のモテ男ですけれども、今までお付き合いされた中で忘れられない女性っていらっしゃいますか?現在進行形の惚気でもいいですよ」
「言うほど人数は多くないですよ。皆さん私のことで色々妄想してくれるんですけどね、写真撮った女優全員抱いたとか、私の恋人が都内だけで50人いるとか…そんなわけないでしょ?」
「実際夏油さんならあるかなって」
「こらこら。こんな噂のせいで先日失恋したばっかりですよ。まったく慰謝料はどこに請求すればいいんだか」
「え嘘それ言っていいやつですか?詳しく伺いましょう、お酒飲みます?」
「はは、素面で話せますよ。うーん…仕事柄相手をよく観察するので、見たくない部分まで見えちゃうことがよくあるんです。だから被写体はまず恋愛対象にしたくないんですけど、1人だけ本当にずっと見てたいと思う人がいて。私こう見えて恋愛経験少なめなので…おい笑うな、じゃない…焦って口説いたら『幻滅する』って言われました」
「『幻滅』は強烈ですねぇ…でも、え、その人被写体なんですよね!?じゃあ女優さん?最近のことって言ったら絞れちゃう気がするんですけど!」
「相手の迷惑になったら益々幻滅されるので黙秘ですね。でも本気で…このラジオを偶然でも何でもいいから聴いてて、もう一回口説くチャンスをくれないかなって期待してます」

カーラジオから夏油の軽い笑い声が響いた。運転席のマネージャーが何か言っているのは、ミズキには耳に水が詰まったように遠く聞こえた。
その内に車はミズキの自宅前につけて、彼女はぼんやりしたまま部屋に入った。
何かの聞き間違いか、夢か、あるいは夏油の冗談か。つい先程ラジオから流れてきた言葉が頭の中をふわふわと漂っていて、いつまでも意識に染み込んでいかない。
そもそも自分のこととも限らないし、とミズキは思った。夏油の被写体はいくらでもいる。しかし彼に幻滅を告げた被写体がどれだけいるだろう。
それならば、でも、やっぱり、と接続詞がくるくる踊るばかりで結論が出ない。

ミズキは夏油の公式サイトをスマホで検索した。仕事の依頼のメールフォームがある。マネージャーがまともにコンタクトを取ることすら困難と言っていた窓口がこれだろう。
彼女は数十分に渡り迷いに迷った挙句、綴った文章を結局ほとんど消して、ただ短く次のように送った。

(『幻滅』は取り消します。失礼なことを言って申し訳ありませんでした)

件名は空欄、名乗りもしない。夏油は恐らくこのメールを悪戯と思って削除するだろう。その方がいいとミズキは思った。
しかし翌日顔を合わせたマネージャーが、ミズキのその予想を裏切ることになる。

「昨日夏油さんから連絡があって、写真のことでどうしても直接会話させてほしいそうですよ。僕のスマホ使います?」

ミズキが戸惑いながらも自分の番号を夏油に伝えて構わない旨を伝えると、その日の夜には夏油から電話がかかってきて直接会う約束を取り付けられた。ラジオで『もう一回口説くチャンスを』と言っていた割に極めて淡々とした調子で会話が為され、口説こうとする気配など微塵も無い。
ただ彼女のスケジュールに夏油の名前が載った、それだけだった。








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