4.見るなの禁
青年が庭師の見習いになったのは高校を2年で中退した直後だった。現在20歳過ぎで一番の下っ端で、お客の庭木に鋏を入れさせてはもらえないけれども、先輩や親方の足元の片付けをしながら鋏捌きを見る日々だった。
お客には様々な人がいて、中には偏屈だったり語気の荒いのもいた。ただその中でも、今日から2日間の予定で入っているお客はとても不思議だった。話したがりの老人のように作業の背後に居座るわけではない。むしろ逆で、作業の開始と終了の報告に行く時以外は顔も見せない。それでいて常に見張られているような気配は感じるし、屋敷はやたらと静かだし、何より不思議なのは、離れの部屋とその向こうの庭には絶対に近付かないようにと条件を付けられていることだった。
立派な門に掛けられた表札には、五条とある。いかにも旧家・名家って感じだなぁと青年は思った。
離れとその庭に近付くべからず、なんて昔話みたいな条件だけれど、庶民と違う家には違うシキタリみたいなものでもあるのだろうと青年は納得していた。
1日目の作業が無事に終わり、親方が家人へ報告に行っている間、青年はその日剪定した庭木を見て回っていた。ぐるりと庭を回ったところで、大きな植木鉢に植わった木に行き当たった。何でもこの鉢の木は、接近禁止の離れの向こうに置いてあったものを、剪定のためにわざわざ使用人が運んできたものらしい。徹底してんなぁ…と青年は感嘆した。
自分たちが帰った後で使用人がまた元の場所に戻すのだろうか。今日見かけた使用人といったら女性ばかり(しかも着物)だったけれど、女性には重すぎやしないか?運んでおいた方が親切じゃないか…と青年は植木鉢を抱えた。
正直、所謂『見るなの禁』に興味を持ってしまったことは否めない。昔話に登場するそれは、破られるのがセオリーだ。
青年は自分の腰回りの倍ほどもありそうな鉢を抱えて離れの建屋を回り込むと、日当たりの良さそうな場所へ降ろした。軽く辺りを見回すも、これといって見られて困るようなものは見当たらない。
まさか鶴が機織りをしていると思っていたわけではないけれど、青年は少々落胆した。
と、その時、からからと軽い音を立てて窓が開き、中から女性が顔を出した。濡れたように艶やかな黒髪、肌は日に焼けたこともないほど白く、小ぶりな果実を思わせるような愛らしい唇をしていて、目は小動物のようにきらきらとしていた。青年が見たこともないほど、美しい女性だった。
彼女は、惚けたように立ち尽くして自分を見ている青年の存在に気が付くと、「きゃっ」と小さく悲鳴を上げて窓の中へ引っ込んでしまった。
「すっすんません!庭木の剪定に来た○○造園っス!」
青年が慌てて声を上げると、窓からまたそろそろと彼女が顔を覗かせた。よく見ると歳の頃は10代後半といったところ、女性と少女の間に遊んでいるような、何にせよ美しい生き物だった。
「お庭さん…?」
「はい、そっス」
青年の最大の失敗を敢えてあげるとしたら、この時点で引き返さなかったこと、あるいは、離れに近付いてはいけないという禁止事項が彼女を隠すためのものだと気付かなかったことである。
残念ながら青年はそれを忘れてしまうほど、生まれて初めて見る美しい少女に心を奪われていた。
彼女はぱちぱちと大きな目を瞬かせて、青年の手や服があちこち葉の切れっ端や土で汚れていることや、首から下がったタオルの端に造園業者の名前が入っていることを認め、青年の言葉を信じたようだった。
「ごめんなさい私、びっくりしてしちゃって」
「仕方ないっス…いや、ハハ」
青年は土に汚れた手で首の後ろを擦った。背中にさりさりと砂の落ちる感触で一瞬後悔したけれど、少女から目を離せなくてあまり気にならなかった。少女が「あっ」と声を上げた。
「あのね、そこに石楠花の木があるでしょう?」
見ると、腰高の石楠花の木が、やはり鉢に植っていた。花の季節を外れているから枝には葉しかないけれど、庭木としてポピュラーなもので青年にもそれが石楠花だと分かったのだった。
「随分大きくなってきたから、大きな鉢に植え替えてもらったの。そうしたら葉っぱがたくさん落ちちゃったのね。時期が良くなかったのかな、どうしたら元気になる?」
「はぁ…植え替えの時期としちゃあ悪くないと思います。ストレスで葉が落ちるのもよくある話なんで、元気な葉も残ってるし気にするほどでもないと思いますよ。何かやるとしたらまぁ、肥料…あのホームセンターとかに売ってる白い小石みたいなの、分かります?あれぐらいっスかねぇ」
ふむふむと小さく頷きながら聞いていた少女は、総評として心配無用との意見を貰えたことに安堵したようで、ぱっと笑った。青年はすっかり舞い上がってしまって、自分が今『見るなの禁』を破っている最中だということをまるで忘れてしまっていた。
だから笑顔の彼女が「さとる」と言った時も、一瞬何のことか分からなかった。気付けば、巨大な氷嚢を背中に乗せられたかのように寒気と重圧を同時に感じて、青年は縮み上がった。至近距離、背後に、恐ろしいほど美しい白髪の青年が立っていた。
「剪定業者さん?ココは頼んでないはずだけど」
にこ、と悟の口元は笑顔の形に見えるけれども、目元はサングラスに遮られて表情を窺い知ることは出来なかった。
青年は震え声で、禁止事項に触れたことを詫びた。
悟の方は、青年の謝罪は自分への返事だろうに興味もなければ聞く気もないといった様子で、すたすたと少女の覗く窓へ歩み寄った。
悟の静かで冷たい威圧は器用に青年だけに向けられているから、窓辺の少女は春のように笑っている。
「あのね悟、お庭さんがね、あの石楠花は大丈夫って。元気になるって」
「ふぅん、良かったね。ミズキはあの木気に入ってたもんな」
日本人離れした長身の悟は、窓の外に立っても少し見上げるだけでミズキと視線を合わせることが出来た。彼はミズキの髪に指を通すように差し入れて、後頭部を引き寄せるようにして彼女を屈ませ、挨拶のように自然にキスをした。ミズキの方も当たり前にそれを受け入れている。
「ミズキ、僕ケーキ買ってきたからさ、見て選んでおいでよ。台所に置いてあるから」
「ほんとに?ありがとう。悟はもう選んだ?」
「僕のも選んでよ。ミズキも一緒に食べるでしょ?」
恐ろしく美しい青年と夢のように美しい少女が微笑み合う様は、傍観者の足を地面に縫い付ける力を持っていた。
庭師の青年は膝が震えそうなほど恐ろしいのにその光景から目を逸らすことが出来ないまま、ただ立ち尽くしていた。
ミズキが青年に軽く会釈をしてから窓の中に引っ込んで足音が遠ざかるまで、悟は優しい微笑みを絶やさなかった。しかしミズキの気配が充分に遠ざかったところで、雨粒をワイプしたように無表情になって青年を見たのだった。
「さとるー?」
ミズキが元の窓から身を乗り出して見ても、庭に悟の姿は無かった。庭師の青年も帰ったようで、庭はがらんとしていた。
「僕はこっち」
「わっ」
突然背後から肩を抱かれ耳元に声が落ちてきて、ミズキは肩を跳ねさせた。
吐息の擽ったささえ感じた耳を押さえて振り向くと、悪戯を成功させた悟の笑顔があった。ミズキが「もう」と言うと、彼は一層嬉しそうに笑った。
「お庭さんは帰っちゃったの?」
悟の顔がぴくりと笑顔の形のまま固まった。
「…帰ったよ。もしかしてまだ話したかった?」
「ううん、もっとちゃんとお礼言ったら良かったと思って」
「僕からもお礼したしイイだろ?…それよりさ、僕といるのに他の男を気にしてんのって、嫌だな」
悟が少しシュンとした表情を作ると、ミズキは一瞬ぽかんと目を丸くしてからすぐにクスクスと笑って、高い位置にある悟の首に抱き着いた。
「やきもちしちゃったの?可愛い」
「可愛いのはミズキでしょ…まったくさ、男がミズキを見たってだけでもむかつく」
「悟、キスして、一緒にケーキ食べて」
ミズキが背伸びをして悟の口端にキスをすると、彼はそのキスが離れていくところを捕まえて、ふわふわと唇を押し当てた。柔らかなキスから徐々に噛み付くような深さになり、湿った音が静かな部屋に響くようになっていった。
何度も何度も悟だけを繰り返し教え込まれたミズキは、彼の舌の愛撫を従順に受け入れて応えるようになっている。
ミズキとキスをしていると悟はいつも脳髄がじんわりと痺れるような感覚がして、それは、疲れ果てて頭が糖分を欲しているところにチョコレートを摂取した時の感覚に似ている。
「…まぁ、細胞が欲してるってことだよな」
「さとる…?キス、おしまい…?」
「まさか」
ふたりがケーキに手を付ける頃には使用人の淹れた紅茶はすっかり冷めてしまっていて、悟が人を呼んで淹れ直させたのだった。
悟は昔話について、子どもの頃から納得していないことがある。
見るなの禁を破ると鶴が去ってしまうとか美しい夢から覚めてしまうというのが昔話の文法だけれど、それではぬるいだろうと常々思うのだ。不相応に美しいものを与えられたくせに愚かにも縛りを破って、それでフラットな状態に戻るだけだなんて、そんなことが罷り通るなら苦労はない。
翌日、庭師の青年は2日目の作業には現れなかった。理由は青年が酷く怯え取り乱していたためで、しかし彼の支離滅裂な説明を信じる者はひとりもいなかった。
あの白い男は化け物だ、あの男は指一本を軽く動かしただけで人を殺せるのだと、真っ青になって歯をガチガチ鳴らしながら、青年は何度も繰り返したのだという。