21.ゆびきりとドーナツホール



静かで薄暗く、黴臭い。
その部屋に悟はもう何年も足を踏み入れていなかったので、目を開けてしばらくはそこが五条本家の呪具保管庫だと思い至らなかった。
その上、彼は自らの意思でそこに踏み入ったのではなかった。直前まで高専にいたと記憶している。それが瞬きの間に、何年も訪れていない部屋に立っていたのだから、すぐには認識が追い付かないのも無理はない。

悟はぐるりと部屋を見回した。多種多様な呪具が厳重に呪符で封印されていたり、抜き身で転がっていたり、彼の記憶にある部屋の光景と変わりない。しかし悟は違和感を持った。どこか違う、何かが違う。
彼の頭が瞬時にいくつもの可能性を想定して否定した。何者かの術式による幻覚…六眼は異常を感知していない、強制転移の類…トリガーになるものが無かった、薬品による意識の混濁…毒物なら無下限が弾く、という風に。
悟は部屋を出ることにした。日頃本家に寄り付かない彼であるから、使用人に見付かると面倒とは思ったけれども(何しろミズキのいない五条本家など悟にとって蛇の巣窟と同義である)保管庫に篭ったところで進展は望めない。案の定すぐに人に見付かって、しかし彼の想定とは違う事態になり、悟は離れに急行した。

「ミズキ!」

急に襖を開けられたミズキは小さく悲鳴を上げ、それから震える目で悟を見上げて恐々と切り出した。「お兄ちゃん、だれ…?」と。
彼女は今、どう見ても5歳前後の姿である。

保管庫から出た悟は使用人に鋭く呼び止められ、何者かと詰問を受けた。それで「当主の顔も覚えてないわけ?」と不機嫌に返したところから、今回の不思議な状態が明らかになったというわけである。悟の感じた違和感の正体、今彼が立っているのは、彼とミズキが5歳だった頃の五条本家だった。

悟はミズキの前にしゃがんで視線を合わせ、サングラスを外して微笑みかけた。

「悟だよ、わかる?」
「? 悟はこんなにおっきくないよ…?」
「多分ね、5歳の僕がちょっとイタズラしてて大人の僕と入れ替わっちゃったみたい」

ミズキが幼い目をぱちくりとさせた。悟の青い目をじぃっと見つめていて、その内に、半信半疑ながら弟と同じ目だと気付いたようだった。
悟は彼女に大きな手のひらを向けて見せた。

「僕だよ」

ミズキの小さな手がおずおずと近寄って、手のひらが合わさった。彼女が指をいっぱいに伸ばしても悟の手のひらから出ないほど大きさは違うし、その大きな手のひらは固くさらりと乾いた大人の手である。それでも、慣れ親しんだ弟の呪力に触れたミズキは嬉しそうに笑った。

「さとるだ」

幼く柔い笑顔に接した悟は大いに胸を詰まらせて、涙を堪えるように口元を歪に震わせた。「か…っ」とだけ彼の口から漏れ出るとミズキが「か?」と鸚鵡返しにして首を傾げた。

「…わいいなぁぁ天使すぎる僕の宝物マジで可愛すぎて目ぇ溶けそう!」
「!?と、溶けちゃだめっ!」

ミズキの幼い手がペタッと悟の目元を押さえた。零れそうな水を堰き止めんとするようにして。悟の大袈裟な比喩を本気にして心配してくれる幼さと健気が、彼には愛らしかった。
悟は綻ぶように笑って、本当に目が溶けるわけではないと訂正を入れ、小さな小さな姉を抱き上げて散歩に誘った。彼の背後からは使用人たちが追い付いて口々に姉弟を引き離そうとしたけれども、悟は歯牙にも掛けないでニコニコと上機嫌にミズキを抱いたまま部屋を出てしまう。
片やゆくゆく五条家の家督を継ぐ悟と片や存在そのものを伏せておきたい出来損ないのミズキ、そのふたりを引き離そうと日頃から躍起になっている使用人達は、自らの努力がまるで無駄になるらしいことを、大人になった悟の姿から図らずも見せつけられる結果になったのである。






悟はミズキを連れ出してから身に着けるもの一式を手早く買い漁った。手持ちのクレジットカードが未来日付であることが悔やまれる。そうでなければ、彼は向こう10年分の衣服や靴を季節毎に届けるよう店に依頼してみようと本気で思ったところである。
あまり上質でない浴衣を着せられていたミズキはすっかり様変わりして、一見して裕福な家の子供と分かる洋服に包まれていた。
しかし彼女は不安そうに辺りを見回すことを、邸を出て以来ずっと辞めないでいる。

「ミズキ、お外は怖い?僕がいるから大丈夫だよ」

ミズキは首を振った。

「こわくない。けど私といたら、悟が悪口いわれちゃうの」
「そんなわけねぇだろ」

悟は幼い子供のために心掛けてきた優しい声色を一瞬忘れ、ミズキを抱く腕にも思わず力がこもった。日頃家の連中が何を言ってミズキを薄暗い部屋に閉じ込めているのか容易に想像がつく。
悟は意識的に表情と声のトーンを整えて、ミズキに優しく微笑みかけた。

「そんなの嘘だよ。僕はミズキと一緒なのが一番幸せなんだから、これから誰に何を言われても僕を信じて」
「…わかった」
「いいこ」

悟の大きな手がミズキの頭を撫でてやると、彼女は弟の手の下でふくふくと笑った。
幼い頃から、悟はミズキを逐一差別する使用人達を威嚇して牽制して自分と同じ扱いをするように言い聞かせてきた。表面上はそれで取り繕われていたけれども、大人になった今ありありと分かる。『同じ』であったはずがないのだ。

悟は自分に作用している呪力を確かめた。もうあまり長い時間、この時代には留まっていられそうにない。
彼は手近にあったドーナツ屋に入ってミズキに選ばせた。彼女は目を輝かせて、ピンク色のチョコレートのかかったドーナツを選んで、宝物のように両手で大切に持って、悟が促すまで食べようとしなかった。
公園のベンチに座らせるとミズキはやっと小さな口でドーナツを齧った。ネズミが齧ったような格好だった。

「おいしい?」
「うん!」
「食べ終わったら帰ろうね」

悟が何気なく発した言葉にミズキはしゅんと俯いてしまって、彼は悪手を悔いた。しかし自分が元の時代に戻る前にミズキを本家の結界の内側へ送り届ける必要がある。蛇の巣窟でも現状ミズキにとって安全な住処はあそこしかないのだから。

「…悟にあげる」

ミズキが大切に持っていたドーナツを悟に差し出し、彼はぐっと息を詰めて歯噛みした。
悟は努めて優しく微笑み、首を横に振った。

「ありがとう、でもミズキに食べてほしいな」
「…私、悟といっしょがいい…っ」
「僕もだよ。…ねぇ、いいこと教えてあげようか」

ミズキは小さく鼻を啜って「なぁに」と言った。
悟はミズキの前にしゃがんで視線を合わせ、視線を結ぶ直線上にドーナツを持ってきた。ドーナツホール越しにミズキが目を瞬かせている。

「ドーナツには魔法があるんだよ。この穴の向こうにはいつも僕がいて、ひとつ食べる度ミズキは僕に近付く」
「たくさん食べたら、悟のところにいける?」
「僕が迎えにくるよ」

「約束する」と言って、悟は小指を差し出した。ミズキはドーナツを片手にして小さな小指を悟の指に絡ませた。
泣くまいとしている。5歳の子が、大人に気遣って。悟はミズキを膝に抱いて、彼女が小さな口でドーナツをすっかり食べてしまうまでずっと髪を撫でていた。


ミズキを抱いた悟が戻ると使用人達は一斉に頭を下げ、要望を聞き出そうと質問を浴びせ掛けた。
その大人達の剣幕にミズキが怯え悟の首にきゅっと抱き着くので、彼は冷えた目で使用人達を見下ろす。「静かにしてもらえる?」というのが、使用人達の聞き出すことの出来たただひとつの要望であった。
ミズキを床に下ろし、膝をついてまた正面から抱き締めた。

「ミズキ」
「…」
「離れたくないね」

小さな頭が悟の肩口でこくんと頷く。

「僕も離れたくない。本当は一緒に連れていきたいよ」

きゅぅっとミズキの手が悟の服を握った。

「でも僕と入れ替わりに5歳の僕が戻ってくるんだ。戻ってきてミズキがいなかったら、あいつ多分死んじゃうよ」
「、だめっ!」
「でしょ?だからさ、5歳の僕のこと頼むよ」
「うん、わかった…」
「いい子、さすが僕のミズキだね。僕との約束言える?」

ミズキは悟の首に抱き着いていた腕を緩めて、彼の顔を正面からじっと見つめた。青い目が優しく促すのに応えて、大きな弟との約束を復唱していく。

「悟をしんじる」
「うん」
「5さいの悟とずっといっしょにいる」
「うん」
「ドーナツには『まほう』がある」
「カンペキ!」

悟が歯を見せて笑い、大きな手のひらを構えると、ミズキは小さく柔い手でそれにタッチした。彼は触れた手を引いて再びミズキを抱き締め、自らの存在が少しでも彼女に残るようにと包み込む。それから、腕を緩めてミズキに正面から微笑みかけると、丸く愛らしい額にキスをした。
遠巻きに見ていた使用人達は喜ばしくない空気を醸し出した。

「ね、僕いいこと考えたんだよ。ミズキが悲しくならないように、お手伝いさんにもお願いしようと思ってさ」

ミズキは目をぱちくりとさせた。悟が彼女の幼く細い身体をくるりと使用人達の方に向かせ、背後から肩に手を置いた。
彼の青い眼差しを受けた使用人達はにわかにたじろぎ、サッと左右に目配せして責任を押し付け合う。
心底冷えていながら燃えるように爛々とした目が、対象を1人に絞った。悟の記憶では比較的長く屋敷に仕えていた、その1人である。

「ほら、小指出して」
「わっわたくしですか、」
「そーだよ」

悟はミズキの髪に頬を寄せてニコリと綺麗に笑み、小指を立てて前に差し出した。
左右の同僚から背中を押された女が恐々と震える指を差し出すと、鉤型になった悟の小指が女の指を捕らえた。

「僕の言う通り復唱して」
「は、い…」

悟は美しい笑顔を固めたままで淀みなく女に復唱させた。誠意をもってミズキに接し、決して傷付けず、また傷付けさせない旨を。
その間ミズキは女の顔を見ていて、この人はお腹が痛いのかなと心配していた。
復唱が終わったところで、悟がまた笑みを深くして無邪気なメロディをなぞり始める。

「指切りげんまん」

青い目が女と、女の背後に立つ使用人のひとりひとりに、縛りを縫い付けていく。

「嘘吐いたら針千本飲ます」

使用人達は同じものを想像していた。手の形をした青い火がするりと隙間を抜けるように皮膚を裂いて、その奥に隠れた心臓を撫で、致命的な血管に指を掛けるところを。

「指切った」

女の顔はもはや土気色と言っていいほどに血の気が引いていて、歌い終えた悟が「ハハ、もう終わってんだから離していーよ」と言って繋いだ小指を揺すっても、女の小指は硬直してしまって反対の手でこじ開けなければ離すことが出来ないほどだった。
女と手を離すと、悟は優しく寂しげな表情でミズキに向き合った。

「じゃあミズキ、僕はそろそろ時間切れだね。お手伝いさんと僕が『約束』したこと、5歳の僕が見ればすぐに分かるはずだから」
「うん」
「愛してるよ、僕の可愛いミズキ」

言い終えて悟の手がミズキの髪を撫でようとした、その触れる前に、彼はふっと消えてしまった。霧が散ったように何も残らず。
寂しさにミズキが目を潤ませているとすぐに慌ただしい足音が駆けてきて襖を開けた。5歳の悟だった。
彼はミズキが目を潤ませていることについて使用人達を問い質し、慌てたミズキから事の顛末を説明されて使用人達を一通り見回すと、ニタッと笑ったのだった。


一方、元いた呪術高専に戻った悟は、幼いミズキの髪を撫でそこなった手を虚しく垂らした。すぐにミズキのいないことに耐えかねて彼は手近な窓を開け、自宅付近まで飛ぶ。
いつになく慌ただしく駆け込んできた弟を、大人になったミズキが驚きつつも笑顔で出迎えた。

「悟おかえり。お仕事きゅうっ」

『休憩なの?』と言おうとした後半は、駆け込んだ勢いそのまま抱き締めにきた悟の胸板に遮られてしまった。もぞもぞと喋る隙間を確保して、ミズキは「どうしたの」と笑った。

「何でもない、幸せすぎて目ぇ溶けそうなだけ」

泣くのを我慢してドーナツを頬張った女の子、蛇の巣窟から連れ出した最愛のひと。それがいま誰の邪魔も入らない幸せな部屋で笑ってくれている。
ミズキが悟の腕の中から手を伸ばしてそっとサングラスを外した。外したそれを持った手は彼の背中側に垂らして、左と右の瞼に一度ずつ、優しいキスをした。傷付いたところを癒すようにして。

「溶けちゃだめだよ。私、悟の綺麗な目が本当に本当に大好きなんだから」

ミズキのキスを受けるために身を屈めた体勢からそのまま、悟は彼女を連れて床に座り込んだ。屈まなくても近くなった唇に悟は何度もキスをした。
ミズキは嬉しそうにそれを受け入れて笑った。

「悟あのね、ん、ちょっとだけ、んぅ、時間ある?」
「んーあるよ、いくらでも」
「ん…ドーナツ買ってきたところだったの。コーヒー淹れるね」

悟は驚いてテーブルの上を見た。取手付きの紙箱、言われてみれば微かに甘い匂いが漂っている。

「悟知ってる?ドーナツには魔法があるのよ」

秘密を共有するように、ミズキがふくふくと笑った。悟は目を丸くして彼女の顔を見ていて、あぁ、あの小さな女の子は約束を守り抜いてくれたのだと、泣きそうな気分になった。
彼はもう一度ミズキを抱き締めて、つい先程あるいは15年前に撫でそこなった柔い髪を、何度も何度も撫でたのだった。



***

ネタポストより『祓本悟か繭の悟に「可愛すぎて目が溶けちゃう」と言われて慌てた夢主が「溶けちゃダメ!」と悟の目に手をやってさらに悦ばせるみたいなの』。
ネタ提供ありがとうございました!

※この世界線では五条家はずっと東京です※




prevnext


×
「#幼馴染」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -