19.綺麗



ミズキは高揚した気持ちで帰宅した。

今日はいつもより少し足を伸ばして遠いところまで買い物に出て、行った先で雑踏の中に呪霊の姿を見たのだ。黄褐色で、ごぼごぼと歪に膨らんで、出目金のように眼球が飛び出ていて、とにかく醜悪な見た目をしていた。しかし彼女の高揚は、呪霊を目撃した危機感からくるものではない。

五条の本家も悟の用意したマンションも一帯丸ごと結界に守られているし、マンションの方に至っては結界の外すら悟が蝿頭の1匹も許さず常に掃除しているので、ミズキは今まで4級以上の呪霊を見たことが無かった。
それが今日、雑踏を行く人の背中にその醜悪が取り縋っているのを見て彼女は思わず「あっ」と声を上げた。それと同時に隣から「あっ」と声が上がり、見ると隣の若い男も驚いた様子でミズキを見たところだった。目配せで同じものを見たらしいことを確認出来た2人はコクコクと頷き合った。
男は、窓だといった。
彼はミズキを喫茶店に誘い、目撃した呪霊について答え合わせをした。

「ミズキさんは窓に登録されないんですか?」
「…あまり、家から出ることがないものですから。考えたこともありませんでした」

ミズキにとって呪霊が見えるということは、『術式も持たない』だとか『何の役にも立たない』という罵りの枕詞として登場するものであって、それ自体に有用性を見出す発想は無かったのである。
ミズキは悟の名前は一応伏せて、弟が呪術師をしていることを男に告げた。それで、幼い頃から常に比較されてきたことも。
男は困ったように笑った。

「術式を持った人なんてほんの一握りで雲の上の存在なのに、比較されちゃ堪らないですよ。世界の大半は見えない人間ばかりで、僕や貴女だって充分少数派だと思いますけど」
「…そうでしょうか」
「そうですよ」

男は喫茶店の薄いテーブルに身を乗り出した。

「このままじゃ勿体無い、ミズキさんも窓に登録すればいいのに」
「わ、私が…?」
「呪術師のサポートの補助監督、の更にサポートみたいな立ち位置ですけどね。一緒にやりませんか」

男は語気を強くし息巻いて、テーブルの端にそっと佇んでいたミズキの手に自らの手を重ねた。彼女が驚いて手を引くとハッとして距離をあけ、「すみません、つい熱くなって」と降参のポーズのように手のひらを見せた。

結局その場では返事を曖昧にして、ミズキは帰宅した。鞄を置き手を洗ってソファに座ってもまだ、心がふわふわと漂っているような気分がした。
窓になるという選択肢を、考えたこともなかった。自分が呪術界において何かの役割を担えるという意識がまるで無かったから。
ミズキは火照った頬に手を当てた。高揚していた。悟の役に立てるかも知れないと思うと、居ても立っても居られない。
ただ大好きな弟の顔を思い浮かべた時、ミズキは自分の中の高揚が少しだけしゅんと萎むような気がした。心配性な悟は、彼女が呪術界に近寄ることを喜ばないかも知れない。また心配を掛けるかも…と思うとミズキは揺らいだ。

それで、その日悟が帰宅してからも、ミズキは窓の話はしなかった。

「…ミズキ、今日はどうしてた?」

藪から棒に悟が聞くので、ミズキは一瞬肩を跳ねさせた。振り向いて見た悟の顔は至って平常通りに見え、ミズキも必死に動揺を隠した。

「、少しね、いつもより遠くまで行ったの。紅茶の専門店に行ってみたくて」
「そっか。困ったことはなかった?」
「なにも、ないよ…?」

悟はもう一度「そっか」と笑って、ミズキの手を取った。すりすりと優しく撫で、温めるように握った。
それきり悟が詮索しないので、ミズキはひとまず胸を撫で下ろしたのだった。

それから加速度的に、困ったことになった。
まずは翌日の午前中に窓の男からメッセージが入った。あれから心は決まったか、と。まだ迷いのあったミズキが正直にそのことを告げると、一応は「そうですか」と返ってきたものの、そこから延々説得が始まってしまった。その説得が徐々に脱線して窓や呪霊の話から離れ、とにかくもう一度会おうとしきりに誘うようになった。
ミズキは始めこそ丁寧に対応していたものの途中で違和感に気付き、最終的には勇気を出してきっぱりと断った。

(大変なことなのでゆっくり考えたいですし、今後のことは弟に相談します。きっかけをいただいたことは感謝していますが、今回のことでこれ以上お会いすることはありません)

本気で窓になろうと思うなら、この男よりも悟に相談すべきなのだ。
ところが男は引き下がらなかった。尋常でない量のメッセージに恐ろしくなりつつも、ブロックすると逆上するのではとそれも恐ろしかった。
いっそのこと電源を切ってしまいたかったけれど、そうなると悟の連絡に気付かなかった時に心配を掛けてしまう。

動揺して対処に迷っている間に玄関の方から物音がし始め、本当に悟の声が「ただいまー」と響いた。ミズキは更に混乱した。もしかして鳴り続けているスマホにいつの間にか悟からの連絡が混ざっていた?悟は仕事の合間にこうやって家に立ち寄ることがある。それよりも今は電源を落として、でももうーーー、と思っている内に悟がリビングを覗いた。

「ちょっと時間出来たから帰ってきちゃった」
「お、おかえり、悟」
「…それ着信中?出なくていーの?」

悟がカクンと首を傾げた。
ミズキは半端な位置にスマホを持ったまま動けずにいる。悟はつかつかと彼女に歩み寄って、着信の画面を覗き込んだ。

「…仕事関係の人とか?」

ミズキは首を振った。

「ミズキ、困ってる?」

小さく頷いた。

「貸して」

悟はミズキから鳴り続ける端末を受け取り、通話をタップして耳に当てた。

「はいドーモ。……『誰』はこっちのセリフなんだけど?僕のミズキに何の用?可哀想に困っちゃってんじゃん。……あーはいはい、僕はねぇ、普通に考えりゃ分かんだろ。もう二度と連絡寄越すな。まぁ通話終わったらブロックすんだけどさ、じゃーねー」

通話口からは相手がまだ何か言っている音が漏れていたけれど、悟は容赦なく通話を切断してそのまま手際良くブロックを設定した。

「ん、これで静かになったよ。…つーか通知件数キショいね、怖かったでしょ」

にっこり笑って端末を差し出す悟の手を素通りして、ミズキは彼の胸に抱き着いた。悟は擦り寄ってきた頭を愛しく撫でつつ、大人しくなったスマホをダイニングテーブルに置いた。
それからミズキをソファに誘導して事の顛末を聞くと、複雑そうな顔で眉を寄せた。
「窓、かぁ」と味を確かめるように彼は言った。

「…意志は尊重したいけど、ミズキが窓として動くなら僕が一緒じゃなきゃ絶対嫌だ。窓だって安全な仕事じゃないんだよ…目が合った瞬間襲ってくる呪霊もいるし、何の前情報も術式も持たずにそんなのに接近すんだからさ」

ソファに並んで座り、悟はミズキを抱き寄せて首元を柔い髪に擽ぐられている。艶の輪が浮かぶ黒髪に彼はキスをして、肩を抱く手は手近な髪を一房掬って撫でた。

「本当はね、ミズキが紙の端で指切るのだって嫌なんだよ僕は。絶対何も怪我しないふわっふわの部屋にいて僕に『おかえり』とか『おやすみ』って言ってくれんのが安心で理想なの」
「悟…ごめんね、私…」
「ミズキは頑張り屋さんだからさ、呪霊見付けようとして薄暗い路地覗いたりしそうなんだよなぁ…」
「それは、…ぅぅ…」
「絶対ダメ、呪霊じゃなくても変質者がいたらどーすんの!」

悟はミズキの髪を遊んでいた手をパッと離して、彼女をぎゅうぎゅう抱き締めると大袈裟に頬擦りをした。少し芝居がかった声色と仕草にミズキがくすくすと笑った。

「笑うとこじゃねーよ、僕の死活問題」
「私やっぱり窓になるのは辞めるね。自分の身も守れないのに、人に迷惑かけちゃう」
「そ?まぁ…僕としてはその方が安心だけどさ」

頬擦りで少し乱れたミズキの髪に悟が手櫛を通すと、しっとりと美しい黒髪はすぐに元通り艶々と光り始める。
ミズキがはたと気付いて悟の首元から顔を上げた。

「そういえばせっかく休憩中なのにごめんね。お茶淹れるから」
「お茶はいいから抱っこされてて。30分ぐらい待ちになったから、時間いっぱいミズキとキスしよーって帰ってきたんだし」
「ふふっなにそれ」

ミズキは笑って、悟の胸を押していた手を彼の首に回した。
そうして、彼の唇が顔中に降り注ぐのを受け入れ、最後に唇同士が合わさるとしばらくふにふにと愛らしく啄み合って、次第に深く舌を絡めた。


「そんじゃ夕飯までには帰るから」と靴を履いた悟は至極にこやかだった。ミズキから最後にキスをもらって更に笑顔で玄関を出て、パタンと扉が閉じた途端に電源を落としたように表情を消した。
彼は歩きながらスマホを操作して、それから耳に当てた。

「伊地知、お前今高専?さっき位置情報送っといたから、その店の半径5km以内で昨日呪霊の報告上げた窓の情報、僕に送れ」

悟は特に急げとは言わなかったけれど、声色からしてこれは緊急案件だと伊地知には分かった。詮索は自身の為にならないことも。それで彼は手のひらに汗を滲ませながら、「分かりました」とだけ言うに留めた。


男は頭を掻き毟った。
繋がりが絶たれてしまった。彼女は自分の運命の相手だというのに。
あの雑踏の中で自分と彼女の2人にしか見えないものを共有したのだから、これが運命でなくて何だというのかーーーと、男は思っていた。彼女に今別の男がいたとしても関係ない、目を覚まさせてやるのが自分の務めだとも。

現状唯一の連絡手段を絶たれてしまったことは残念だったけれど、まだ手はある。彼女は弟が呪術師をしていると言っていたから、呪術高専に問い合わせて五条という術師を訪ねればいい。将来義理の弟になる相手に会っておくのもいいと彼は思った。
補助監督としか接したことのない窓の中には、五条悟を知らない人間も多い。

その時、男の部屋のインターホンが鳴った。
男が扉に近付き、鍵を開け、ドアチェーンは掛けたまま扉を薄く開けると、呪術高専から書留だという。チェーンを外した。
するとその瞬間に男は自分の右手に微かな違和感を持った。すぐにその違和感は熱いという感覚に変わる。右手が熱い。見ると、手首から先がきっぱりと消え失せていた。
一拍置いてそのことに気付いた男が戸惑う声を上げかかったところへ男性の大きな手が男の口を塞いだ。

「はいドーモ」

口を塞ぐ手はほとんど男の顔の下半分を鷲掴みにしていて、その荒々しさとは釣り合わない明るい笑顔で悟が入室した。
男の目から痛みによる涙が次々に流れて悟の指を濡らし、その生温かい感触に彼は目元を歪めた。

「離すけど大声出すな、約束出来る?」

男が必死に頷いたのを確認すると悟はパッと手を離して不快な水分を払った。
ようやく解放された男の口は激痛に耐えるために荒い呼吸を繰り返しながら、「な、な…」と疑問文未満の断片を零した。
何が起こったのか、何故こんなことをするのか、お前は何だ、何が目的だ、色々な意味を兼ねた「な」だった。

「あーもしかして何で右手を切ったのかって聞きたい?それはね、お前の利き手だからだよ」
「は…っ?ぇ、な」
「ミズキの手に触った。数時間、ミズキの綺麗な手に僕以外の残穢が付いてたなんて許すわけねぇだろ」

男は強烈な痛みと混乱の最中にあって、目の前の悟が先程まで自分から訪ねようとしていた相手だということにまだ気付かないでいた。
悟は場違いに明るくニッコリと笑った。

「だからさ、その手だけは絶対僕が切り落とすって決めてたんだぁ。あ、もしかして左手だった?左手もいっとく?」

男はガチガチと奥歯を鳴らしながら必死に首を振った。それから唐突に、今目の前にいるこの白髪の男が、数時間前に電話で話したあの男と同一人物だと気が付いた。『はいドーモ』、声も抑揚も同じだった。

「お、おまっおま、え、電話、電話の、」
「あっ気付いた?おめでとー。可哀想にミズキがストーカーに怯えてたから僕が掃除に来たわけ」
「あああっちから!擦り寄っ、てきた、!け警察っ」

そこまで言った時点で悟の手が再び男の口を塞いだ。悟の顔からは表情が完全に抜け落ち、今度は手の中で男の骨が軋んでその内に折れる音が頭蓋に響いた。

「それ誰の話?少なくともミズキじゃないね。あ、そっかコイツか」

男はもう悟の話をまともに聞くことは出来ない状態だったけれど、悟がぬいぐるみのように掲げて見せた『コイツ』のことは視認した。黄褐色で、ごぼごぼと歪に膨らんで、出目金のように眼球が飛び出ていて、とにかく醜悪な見た目。男がミズキと会った日に目撃したあの呪霊だった。呪霊はガラスを掻くような不快な鳴き声を上げた。
口と思しき裂け目が開くと無数の鋭い歯が何列も並んでいた。それが、男の見た最後。



悟の「ただいま」の声にミズキがリビングから顔を覗かせて、いつもならばそのまま抱き合って「おかえり」ということになるのだけれど、今回は悟が待ったをかけた。

「今日は汚れちゃってるからさ、先にシャワーしてくるよ」
「そうなの?お疲れさま。ご飯の準備してるね」
「いい匂い。すぐ行くから」
「ゆっくりでいいよ」
「ヤダすぐ行く」

ミズキはくすくすと笑って「じゃあ急いで準備するね」とキッチンへ戻っていった。

シャワーを済ませてきた悟は足取りも軽くミズキに近寄って、こまごまと動く彼女を後ろから抱き込んで頬を寄せた。それからミズキの手をちらと確認してさらに満足げに口角を上げる。

「ハーいい匂い癒し」
「うん、美味しく出来たと思うの」
「ご飯もだけどミズキのことね」

ミズキはくるくると笑って半分振り向き、「悟もいい匂い」と彼にこめかみを預けるようにした。
その親密な挨拶が済んで夕食の皿が手渡されると、彼は器用にあれこれ持って食卓へ運んでいく。

「そういえばさ、ミズキが言ってた紅茶の店、僕も連れてってよ。明日午前休み取ったから」
「本当に?嬉しい、一緒に行きたかったの!」

ダイニングチェアに腰を下ろしながら悟が言うと、ミズキはパッと顔を輝かせた。そして昨日試飲した何が美味しかっただとか2階がカフェになっているだとかを、楽しげに悟に教えてくれる。
悟は目を細めてそれを聞きながら、テーブルの向かいに座ったミズキの手を取って引き寄せ、小さな指先に恭しくキスをした。

「悟、どうしたの?」
「キスしたくなっただけ。もう綺麗にしたから大丈夫だよ」
「? 私そんなの気にしないよ?」

きょとんと首を傾げて見せるミズキに、悟は彼女の手を愛しげに撫でてまた笑いかけた。
そして、「僕が綺麗にしたからね」と、繰り返した。



***

『綺麗にした』の意味
・ストーカーを粛清した
・男に触った手はちゃんと洗った
・ミズキの手に着いた残穢を上書きした
・明日行く店の周辺環境を整えた
全部です。



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