12.残念ながら



勘弁してくれというのが夏油の偽らざる本音であった。何かというと、知人女性Aについて。

以前に彼女にしつこくせがまれて悟を紹介した…つまり夏油は彼女の処理を悟に投げたことがあるのだけれど、それが良くなかった。母胎の中から最愛の人を決めていた五条悟は、夏油の知人女性Aを最愛の人の名前で呼んで女性としてのプライドを粉砕し、俗っぽい言い方をすればヤリ捨てたのだ。
無理強いされて友人を紹介したのに後で有り余る呪詛を吐き散らかされたことは、夏油にとって指折りの苦い思い出だった。
それなのに、その女性Aは窓を多く輩出している家の出ということもあって悪縁は中々切れてくれず、ついには就職先が何と呪術高専に衛生用品を納入している業者と知った時には神を恨んだ。信じてないけど。
さらに悪いことに、夏油が高専の教師に就任してからというもの、女性Aは今度は夏油に色目を使うようになった。そのおぞましい事実に気付いた夏油の感想が『勘弁してくれ』だったという訳である。
イヤ君って過去の記憶は2時間分ぐらいしかメモリ容量無いタイプ?それとも覚えてて言ってる?ごめんちょっと世界観が分からないかなー…、というオーバーキルな言葉をオブラートに包んで食事の誘いを断った夏油に対して彼女は「昔のことなら大丈夫よ」と通じているのか怪しい笑顔で返した。
急募:通訳。





夏油は今日も今日とてゲンナリしていた。後輩の伊地知から五条のことで泣きつかれたのである。
聞けば、特級案件の報告書が適当だったため看過されず、書き直しを食らったのだそうだ。等級の低い件なら見過ごされた可能性もあるけれども、とにかく悟は再提出を言い渡されてヘソを曲げてしまい、再提出及び日頃溜め込んだ他の書類仕事も片付けるまでは帰宅禁止とされてさらに拗れた。
聞いただけで、それ自体が伊地知の手には余る特級案件である。夏油だってゲンナリもする。

「あの…さらに申し上げ難いのですが…」
「……聞くだけ聞こうかな」
「いつもの女性が夏油さんをお探しです…」

ピクリと夏油の目元が痙攣した。
今日は厄日である。

度重なる不幸と理不尽に夏油の中で何かが切れて、同時に、駄々をこねる特級術師とウザ絡みの女を一度に処理する強硬策が思い浮かんだ。危ない橋だが渡る他ない、こんな迷惑を度々被せられては。
ゆらりと薄ら笑いを浮かべた夏油に、伊地知がさらに顔色を悪くした。

「伊地知」
「ハッハイッ!」
「私、少し外すから。業者の女性は1時間後に執務室に寄越して」
「はぁ、ですが執務室には五条さんが…」
「いいから、頼んだよ」

伊地知の釈然としない返事を背後に聞きながら、夏油は校舎を出たのだった。





「ア゛ーマッッッジでやってらんねー冗談じゃない帰りたい帰ってミズキに癒されたい吸いたい!!」

成人男性の盛大な駄々である。
諦めて真面目に取り組めば多少遅くなっても夜には帰れるだろうに、悟は完全にヘソを曲げて時間を浪費していた。彼の報告書に対する上層部のケチの付け方も意地の悪いものだったけれども、それにしたって一応大人なんですから仕事しましょうよ…とは伊地知は勿論口には出さない。

夏油はまだかと伊地知が2分刻みで時計を見ていたその時、執務室のドアがノックされ、続いて夏油が現れた。布に覆われた何か大きなものを両腕で抱えていて、良く見ればそれは寝袋に入ったヒトのようであった。
それを目にした瞬間に悟は立ち上がって、背後で椅子が倒れけたたましい音が響いたのも耳に入らないという様子。すぐに夏油に詰め寄った。

「傑ッ!何のつもりだ、何で!」

夏油の腕の中でもぞもぞと布が動き、ミズキが顔を出した。

「悟…職場に来ちゃってごめんね。悟が大変そうだから励ましてって傑くんが言ってくれたの」

夏油が身体を屈めて寝袋の足を床に下ろしてやると、ジジジ…と長いジッパーが下がって悟が普段自宅で見慣れたミズキの姿が現れた。寝袋にくるまって夏油に抱えられていた時には大きい荷物に見えていたものが、長身の2人に挟まれると途端に心配になるほど小さく見える。
悟は何と声を発するべきか決めかねて、ただぽつりとミズキの名前を呼び、確かめるように彼女の髪に指を滑らせた。

「悟、お仕事頑張って。終わったら一緒に帰ろ?書類の内容は見ちゃだめって言われてるから、見ないようにしながら私もここでお仕事するね」

「いい?」と首を傾げるようにしてミズキが悟の手に擦り寄ると、彼は先程までとはチャンネルを切り替えたように穏やかな微笑みを浮かべて頷いて見せた。

「すぐ終わらせるよ。僕もミズキと帰りたい」
「ふふ、実はね、悟がお仕事してるところってあんまり見られないから少し嬉しかったの」

ふわふわとした笑顔に何かの感情が高まった悟はミズキを抱き締めて、つい先程伊地知に吐き散らした『癒されたい吸いたい』を自ら実行したのだった。

そこへ再びドアがノックされて、スーツに身を包んだ女が顔を覗かせた。
伊地知は夏油の指示とはいえ部屋の中に溢れる機密情報を案じて『本当にいいんですか?』という視線を夏油に送り、寝袋を畳んでいる夏油は曖昧な笑い方でそれを受け流した。
女は執務室へ身体を滑り込ませると、一瞬だけ悟に視線を向けた後すぐに口角を上げて夏油へ擦り寄った。初めて夏油から呼ばれたことを嬉しそうに話し、相変わらず媚びた目で彼を見上げている。
夏油は悟の表情や態度から、彼が女のことをこれっぽっちも覚えていないことを察していて、さてどう転ぶかとスリルに目を細めた。

「ミズキはこっち座って、僕の視界にずっと入っててね」

ニコニコと機嫌良く、椅子を引いてミズキを座らせる悟の口から出た名前に、案の定女は反応した。かつて他の女の名前で呼ばれてヤリ捨てられた屈辱を、この粘着質な女が忘れている筈はないという夏油の読みが当たった形である。
「ちょっと」と女が発した声の鋭さに悟が眉を顰め、本能的に女とミズキの間を割くように一歩踏み込んだ。

「はっ!そういうこと?それがあの…ッ」

言葉の途中で糊付けされたように女の唇は上下が張り付いてしまい、開けられない口の中で顎がカクカクと抵抗を試みては失敗した。
悟は穏やかな笑顔でミズキを振り返った。

「ねぇミズキ、ココア作ってよ。いいでしょ?お願ぁい」
「う、うん…?」
「伊地知ィ、給湯室に案内して」

伊地知と、不安そうにしながらもミズキが退室すると、悟は見えない何かに口を塞がれていた女に向かって人差し指を横一閃に振った。途端に海面から顔を出したように必死に呼吸をする女を前に
、悟はゆったりと椅子に腰掛けた。

「で、傑コレなに?」
「君がミズキの名前で呼んでヤリ捨てた相手」
「あーそゆこと?あっぶね、高専を更地にするとこだったじゃん」
「ちょっとッ!今の何よ!あとやっぱりさっきの女がミズキなのね!?」
「大体さぁ、高専にミズキを連れてくるってどーいうつもり?危ないだろ」
「だから寝袋に入ってもらってここまで来たんじゃないか。顔を隠すのと防寒対策でね」
「無視すんなッ!!聞け!!」
「そういや何で非術師が高専に入れてんの?」
「彼女、衛生用品の業者なんだよ。トイレットペーパーとか洗剤とか医務室のガーゼとかゴム手袋とか、必要なんだから仕方ないだろう?業者替えが難しいのは悟だって知ってるだろ」

椅子にだらりと凭れて脚を組み、いかにも面倒という顔をしていた悟が、ピンと名案が浮かんだとばかりに顔を輝かせた。
笑顔を向けられた女は、あまりの美しさに一瞬怒りを忘れた。

「アンタんとこさ、コンドームの取り扱いある?仕事終わったらすぐ帰ってミズキに会いたいのにドラスト寄るのが地味にストレスなんだよね。高専で受け取れたら最高」

女はあまりの発言に一瞬内容を理解出来ないでいて、意味がのろのろと腑に落ちると半狂乱ともいうべき激高を見せた。髪を振り乱し口角泡を飛ばして怒鳴り散らしている内、女の肩に濁色のゼリーのような塊がムクムクと盛り上がり始めた。やがてそれに細い切れ込みが走ったかと思うとパックリと開き、現れたのは生々しい目と歪な歯が並んだ口、ガラスを引っ掻くような甲高い鳴き声を上げた。蠅頭であった。
その瞬間、未登録の呪霊を感知してアラートが響き渡る中、悟と夏油がニィッと笑った。

「呪霊だな」
「呪霊だね」
「残念ながら祓除対象だなぁ」
「致し方ないね。高専の敷地内で呪霊を発生させるなんて、テロと見做すしかないね」

ニッコリと笑った2人を前にして、今度は女も自身の生み出した蠅頭と似たような悲鳴を上げた。





給湯室から戻ってきたミズキは敵意剥き出しだった女がいなくなっていることを見ると、少しホッとしたようだった。悟の前にココアのマグカップを置きながら、おずおずと「…さっきの女の人は?」と尋ねた。

「さっきの?用事が済んだみたいで帰ってったよ」
「…そうなの」
「どうしたの?喋り方キツいから怖かった?」
「さっきの人…悟のこと好きなんじゃないかなって思って…」

夏油は舌を巻いた。ほわほわと平和で穏やかな印象が先行するけれども、意外なところで鋭いのはやはり悟の血縁というべきか。
悟が「んなわけないよー」とカラカラ笑った。

「だってさっきの人、傑の彼女だもん」
「え…っそうなの?傑くんごめんね、変なこと言っちゃって…」
「……………ウン、構わないよ」

ふざけるなよ今度僻地の任務押し付けてやるからな、と腹の中で決心した夏油を責められる者はいまい。

それから悟は別人のように真面目に事務仕事に取り組んだ。夏油が悟の様子を写真に撮って硝子へ送ると『絵の上手い人間がいるんだな、ほぼ写真じゃないか』と帰ってきたほどである。
改めてミズキも画角に入った写真を送ったところ、短く『納得』とあり、直後に『五条に仕事押し付けるなら今だぞ』とあった。違いない。

「傑も溜まってる仕事があったら僕に回していいよ、ついでに片付けるから」

結局1時間もしない内に再提出の報告書も溜めていた仕事もキッチリ片付けて、憎たらしいほど美しい笑顔で悟は言った。硝子からのメッセージ通り仕事の押し付け時というものだけれど、それをすれば普段を知らないミズキには怠慢な夏油と面倒を被る悟という構図に写るのが当然である。癪である。
結果、夏油は悟にだけ見えるように眉を顰めて「いい、私は仕事を溜めたりしないからね」と遠回しに嫌味を言うのが精々だった。

「じゃ、最後にコレ傑も噛んでる案件だから署名だけちょーだい」

そう言って悟がピラッと差し出したのは、つい先刻の蠅頭発生に関する報告書だった。よくもまぁここまで、さも適切な対処であったかのようにでっち上げられるものだと感心しながら文面にさっと目を通し、夏油は書類の下部、悟の名前の下に署名した。それを悟に返却すると彼は他の書類と角を揃えてトントンと纏め、大きな机の隅で細々と仕事をしていた伊地知に親切に差し出した。

「ハイ、伊地知も残業させちゃって悪かったね。間違いはないと思うけど不備があったら連絡ちょーだい」
「………ハッ、ハイ」
「アハ、なに吃ってんのウケる。伊地知も早く上がんなよ。じゃ、僕とミズキは帰りまーす」

ニカッと爽やかに笑うと悟はミズキを片腕で抱え上げ、長い脚を窓枠に掛けて夜の空へ抜け出した。彼の腕の中からミズキが慌てて夏油や伊地知に挨拶をする途中でその声は途切れてしまった。文字通りトんで帰ったらしい。
嵐が去ったようにシンと静まった部屋の中で、伊地知は悟から手渡された書類の束を上から数枚確認して、やおら夏油を振り返ると彼の足元に膝をついて咽び泣いた。

「夏油さん…さっきの方、高専に常駐していただくことは出来ませんか…ッ!!」
「うーん、難しい、かな」

かなり危ない橋になるしね、とは言わない。




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