恵に会いに行く話 後
伏黒恵という少年は禪院家相伝の術式を受け継いでいる。禪院家に売られる予定だったものを、五条が父親から『好きにしろ』と託された…もとい、投げ渡されたのだという。
少年とその義姉の住む埼玉へ向かう車の揺れに身を任せながら、五条は今から会う伏黒恵という少年のことを、あれこれミズキに話して聞かせた。
「少し意外です」
「ん?何が?」
「私が一緒に来るのを喜んでないみたいだったから、あんまり教えてくれないだろうと思ってました」
「ミズキと禪院の接点を間接的でも増やすのは正直乗り気じゃないよ。でも恵が継いでるのは先代の無下限使いと相討ちにまでなった術式だからさ、仲良くしてたら将来ミズキのいい護衛になるかもって開き直った」
「呆れた、小学1年生の子に守ってもらおうなんて思いません」
「優先順位の話ね。それだけ見込みのある術師だってこと」
確かに、強い術師の条件は術式と確かな基礎とセンスであって、年齢ではない。五条が見込むほどのポテンシャルで正しい鍛錬を積めば、ミズキは簡単に追い抜かれてしまう。
ミズキは少し下唇を噛んで、ついっと窓の外へ顔を背けた。
「…分かってます。私は私に出来ることをするために来たの」
「可愛いけどホラ怒らないで?僕にはミズキの安全が一番、強くて賢い仲間集めが二番目、そんだけ。それにさ、正直来てくれて助かってんの。恵ちゃんったら反抗期拗らせてまともに口きいてくんないんだもん」
ミズキは口元を引き結んでいたのも忘れて、五条に向かって首を傾げた。反抗期というと普通はもっと大きな子を想像するけれど、突然親が蒸発してしまったと聞くし心を閉ざしているのだろうか。
「親御さんがいなくなってショックだから?」
「んーん、負けん気強そうなタイプだから発破掛けてみようと思って初対面で煽り倒したら拗ねちゃった」
ミズキはしばらく言葉が出なかった。長い沈黙の後でようやく口から出た一言は「呆れた」だった。ルームミラーに映る補助監督の目が完全に同意していた。
そうして初対面した伏黒恵は、とても大人びた少年だった。そうならざるを得ない境遇だったというのもあるだろうけれども、似た生い立ちの末に彼の義姉となった津美紀は驚くほど無邪気だった。
五条が「僕の奥さん」と紹介したミズキのことを津美紀は目を輝かせて見つめ、恵は『嘘に決まってる』という感じの半眼で見た。
確かにこれは、五条の言うことをほとんどが嘘と思っている様子である。実際には言い方が大概不適切なだけで一応事実ではあるのだけれど。
それでミズキは自己紹介をした後、指輪を見せて結婚が嘘でないことを言い添えたのだった。津美紀はさらに目を輝かせ、恵は今度は『正気か?』みたいな顔をした。
「うん、悟さんと私のことは今はまぁ良くってね(「良くないよ!?」の割り込みを黙殺)。私は家事の仕方とかご飯のこととか、病院のかかり方とか、生活に必要なことを伝えに来たの」
これについては、姉弟とも異存は無いらしかった。
突然両親から取り残されてもしばらく姉弟で助け合って生活してきたというのだから感心するけれども、やはりゴミ箱にはコンビニ弁当の容器や冷凍食品の包装が多いし、着ている服も皺だらけだ。
「まずはお布団を干そうか。いつも2人が寝てる部屋に入ってもいいかな?」
「いいよ、こっち!」
津美紀がミズキの手を引いて奥の部屋へ連れていって、恵は不本意そうにそれに続いた。
シーツを剥がして洗濯し、湿気を含んでいた布団を日当たりのいい窓に引っ掛け、部屋の隅にわだかまっていた服を畳んで片付けて掃除をした。
そうしている内に昼時が近くなって、冷蔵庫を見ると少々心許ない内容だった。
「津美紀ちゃん」
「はいっ!」
「悟お兄さんと一緒にお米を研いでご飯を炊いてください」
「はーい!」
「恵くん」
「…ハイ」
「近くのスーパーまで私を連れていってくれますか?」
「…ハイ」
恵の態度は当初よりも随分軟化して、ミズキに対しては半眼になったり舌打ちをするようなことはなかった。そもそもこんな聡明な子を拗れさせるとは、五条が初対面で何を言ったのか気に掛かるところである。それについては帰りの車の議題としてピン留めされたのだった。
アパートを出てスーパーまでの道を歩いていると、ミズキの左手を盗み見た恵が「何で…」と探り探りに切り出した。
「…あの男とケッコンしてるから、仕方なく来たんですか」
「悟さんに命令されて来たのかってこと?違うよ」
ミズキは恵の怜悧な眼差しに向かってにこりと微笑んで、少しだけ歩くのを遅くした。
この子は今、義姉の前では言えないことを話そうとしていると感じた。
「あー…、五条さん?は、いや同じ苗字か」
「そうだね、ミズキって呼んでほしいな」
「…ミズキさん、は…それなら同情で来たのか。親に売られて、助けられた代償に将来働いて返すなんて結局奴隷だろ」
「同情なんてしてないよ」
ミズキは立ち止まって、恵の前に膝をついた。
黒々として硬そうな髪、鋭く聡い目元、ミズキが幼い頃に見た禪院家の男の面影が、朧気ながら確かにあるように感じた。
「色んなことを知ってる今の私が恵くんと同じ立場になったらきっと同じ決断をする。だけど、恵くんの歳でそれが出来た自信はないの、情けないけどね。だから私は恵くんのことを心から尊敬する」
それはミズキの、混じり気のない本心だった。嘘を含んでいないことは恵にも伝わったようで、彼の目から薄い膜が取り払われるように警戒心が和らいだことが、ミズキには見て取れた。
「だけどね、恵くん」
「はい」
「恵くんが将来やっぱり呪術師なんてなりたくないって思ったら、私が一緒にお願いしてあげる」
ミズキが膝の砂を払いながら立ち上がる間、恵は彼女の言葉に面食らって目をぱちくりとさせていた。出会ってからの数時間で、一番年齢相応の表情だった。
「…でもそれは、」
「よしっスーパー行こ!恵くん何が好き?」
「…生姜」
「大人だねぇ。じゃぁ嫌いなものはある?」
「パプリカ」
「えっ可愛い…あ、ごめんね怒らないで」
カラカラと笑いながら歩くのを再開して、ミズキが手を握ると恵はそれを許した。
スーパーで生姜焼きの材料を一通り調達した帰り道、ミズキはふと足を止めた。廃工場という感じの傷んだ建物から呪霊の気配が漏れ出ている。瞬時に術式を展開して探ると級数は精々3、弱い気配の割に隠れていないということは、こちらを狙い誘っている。恵は気付いていないようだった。ミズキは笑って「恵くん」と呼び止めた。
「ごめんね、買い忘れがあったから先に帰っててくれるかな?すぐ戻るから」
「はい」
「荷物をお願いしてもいい?ごめんねちょっと重いけど」
「大丈夫です」
手を振って、荷物の反対側へ重心の傾いた後ろ姿が角を曲がっていくのを見届けてから、ミズキは立ち入り禁止のチェーンを跨いだ。帳を下ろした。そして太腿のホルスターから呪具を抜き取った。
ミズキと別れた恵は根拠のない胸騒ぎを覚えて、アパートの階段を駆け上がった。自宅のドアを乱暴に開けると中から津美紀の呑気な声で「おかえりー」とあって、続いて白い頭が覗いた。
「五条さんッ」
「…恵、ミズキは?」
「何かある、店に戻るって言ってたけど」
「2人とも戸締まりして待ってろ」
五条は通りがけに恵の頭に大きな手を置いて、ついでに室内へ送るように押してドアを開けた。恵が前のめりに崩れた体勢を戻して振り向いた時には五条は既におらず、ボロアパートの階段は音が響くはずなのに何も聞こえなかった。
結局五条は10分もしない内に帰ってきて、その時には出ていった時の真剣な表情は消え失せていつものヘラヘラとした笑顔に戻っていた。ただ、彼は着ていたはずの上着を脱いでいて、その後ろにミズキの姿は無かった。
「ごめんね。僕ら急用で帰らなきゃいけなくなっちゃったからさ、今日は出前取ってね。また来るよ」
半端に開けた玄関の扉から覗くようにしてそれだけ言って、備え付けの靴箱の上に万札を1枚置いて、五条は本当に帰っていった。
姉弟はぽかんとしたままそれを見送って、レシピを検索しながら生姜焼きに初挑戦して成功とも失敗とも言えないような出来のものを食べた。
夜になってミズキに着信があり、彼女がディスプレイを確認すると今日登録したばかりの恵からだった。応答。
「ミズキさん怪我した?」
挨拶も無しに恵は言った。常より早い口調だと知り合ったばかりのミズキにも分かった。彼女が答えに迷っていると恵は「スーパーの帰りに別れたとこの廃工場、血の痕があった」と重ねた。
「…恵くん、ああいう場所に入っちゃだめだよ」
「ミズキさんは入った」
「…不安にさせちゃってごめんね、でも大丈夫だよ。学校にはすごい先輩がいてね、怪我をすぐに治してくれちゃうの」
あの廃工場に巣食っていた呪霊は、小さな核が鼠に擬態して潜み、標的にはハリボテの身体だけが姿を見せるタイプだった。そのことを把握したミズキは致命傷を避けつつ鼠退治に集中して、結果的にいくつか手傷を負った。術師としては正しい選択だったと彼女は主張したけれども五条にとっては違って、初手で五条を呼ばなかったことについて帰りの車でミズキは散々叱られたのだった。
「生姜焼き作る約束だったのにごめんね」
「…それなら津美紀と調べて作った」
「すごい!お料理の出来る子って素敵」
「おだてても何も出ない」
「本当だよ」
「そうそう、休みの朝にフレンチトースト作っただけでミズキ喜んでくれるもんね」
突然通話に割り込んだ五条の声に、恵はムッと眉を寄せた。ミズキの焦った声が「ちょっ、何して」と小さく入ったので、あの不審者ミズキさんに何してんだと恵は訝しんだ。具体的に言うと、通話の始まる前からずっとベッドの上で背後からミズキを抱き込んでいて、手が動いたと思ったら服の裾から侵入して薄い腹を撫で始めたのである。
ミズキが次の週末にまた会いに行く約束をして通話を終えると、沈黙した端末を五条がベッドの隅へ放り投げた。
「悟さん」
「…」
「悟さん」
「…んー」
ぎゅうぎゅうと痛いほど五条はミズキを抱き締めて、体格差からほとんど覆い隠してしまうほどだった。ミズキは唯一自由になる腕を伸ばして、背後から自分を抱き込んでいる五条の白い髪をやわやわと撫でた。
「ほら見て、私生きてます」
「僕結果論嫌い」
「ごめんなさい、ありがとう助けてくれて」
「電話で呼ぶだけで良かった、そうすりゃ無駄な怪我もしなかった」
「うん」
「ミズキが怪我すんのがコエーの、自分が怪我するより嫌なの」
「うん」
「分かってよ、頼むよ」
「悟さん、キスしたいな私」
「それ言ったら説教終わると思ってんだろ…するけど」
五条の腕がやっと緩むと、ミズキは彼に向き直って唇を柔く触れ合わせた。ちゅ、ちゅ、と可愛らしい音を立てて五条の顔に何度もキスをしていって、ある時ミズキはそれを中断して五条を睨んだ。
「…悟さん、私おしりを怪我した覚えはないんですけど」
「そーだっけ?まぁとにかく可愛い尻だよな。僕のお気に入り」
「お気に入りっていくつあるの」
「ミズキの身体のパーツと同じ数」
五条の大きな手が尻を撫でるのを、ミズキは黙認することにした。今日は自分が悪い。
それで彼にキスするのを再開して、その内に巧みな舌に主導権を奪われ、手にはいつの間にか服を乱されブラのホックも外され、それで改めて五条を睨んだ時には手遅れであった。
後日五条が単独で伏黒姉弟に会いに行った折、恵から「呪術のやり方を教えてほしい」と請われたことを、ミズキは五条から知らされることになる。
ただ、五条ひとりだと分かった瞬間に恵が軽く舌打ちをするようになったことも。