狩りの手解き
※子ども登場、個性台詞ありです。
※モブありです。
理人は物心つく前から母親のことが特別好きだった。いつも優しくて、理人の幼い話をうんうんと聞き、手を繋ぎ、頭を撫でてくれる。
加えて、理人は頭の中に固く閉ざされた記憶の箱のようなものを自覚していて、彼はその中にこそ、自分が母親のことを大好きな理由が大切に仕舞われているような気がしている。箱の中身は本人にも分からない。彼は無理にその秘密を暴こうとは思わなかった。ただ彼は母親のことが大好きで、あらゆるものから守るのだと固く決心しているのだった。
学年が上がって理人のクラスを受け持つようになった丹仁という教師はそんな理人の逆鱗に、触れるどころか体当たりするような男だった。
所用で学校を訪れたミズキを一目見た瞬間あからさまに恋に落ち、以来何かと理人を利用してミズキを学校に呼ぼうとする。またある時は理人に「お母さんは家ではどんな様子かな」と倒錯した質問を投げたこともある。(ちなみに理人は「それ先生からこう聞かれたって色んな人に言っていいですか」と極めて冷静に完封した)
授業参観のお知らせを配布された時、理人はその印刷物を即座に握り潰した。大切なミズキをわざわざ気持ちの悪い男の目に晒したいわけがない。そうして静かに授業参観が過ぎ去るのを待つ構えだったものが、父親にバレて少々事情が変わってきた。父親も授業参観に来るというから、理人は少し、むず痒いような思いがした。
「…父さん、今日本当に来んの?一応言っとくけど、理由があっても教師をなぐったらお母さんと伊地知さんが困るんだよ」
「お前僕のことを癇癪持ちの5歳児とでも思ってんの?殴んねぇよ」
朝、洗面所で鏡を前に並んで立ち、歯ブラシ片手に理人は言った。
五条は子どもよりも随分高い位置で歯を磨く手を一旦止めて、その大きな手で理人の髪をくしゃくしゃと混ぜた。
「マジで行くから楽しみにしてなって。あとねぇ理人くん、殴るだけがオトシマエじゃないさ」
鏡越しに、五条は手の下の顰めっ面にニヤッと笑い掛けた。
この父親が出るという時点で、理人は今回母に危険が及ぶ心配はないと安心している。ミズキを守るという点において五条以上に信頼出来る人間はいないのだから。後はもう、日頃反発しつつも内心では大好きな父親が学校に来ることに浮き足立つ思いが半分、『オトシマエ』のやり過ぎで周囲の大人が困る心配が半分。
五条の手が退いた後、理人はわざとムスッとした顔で、掻き混ぜられた髪を適当に直して歯ブラシを口に入れた。
授業参観というと、教師はなるべく保護者の存在に触れず子どもらの普段通りの姿を引き出すよう努めるものだと理人は思っている。実際、昨年担任だった女性教員はそうしていた。
ところが丹仁という男、始業のチャイムが鳴っているのに教室後方の出入り口に立って徐々に集まる保護者に一々愛想を振り撒いている。その目的が理人には手に取るように分かった。ミズキを待っているのである。
そこへとうとうミズキが現れて、丹仁は目を輝かせて詰め寄った。
「五条さん!お待ちしてましたよ!」
そう言ってミズキの手を取ろうとしたのを、後ろから伸びてきた大きな手が逆に掴んだ。
「どーもハジメマシテ」
ニコ、と目隠しもサングラスもなく美貌をフル活用した五条がミズキの頭上から顔を出した。丹仁との握手にはほんのり不穏な程度に力が込められている。
丹仁が五条の上背の高さや極端な美貌に呆けて口をはくはくさせていると、五条はより笑みを深くした。
「僕の奥さんのことをいつも特別気に掛けてくれてるらしいね。ところで授業っていつ始める予定?」
『僕の奥さん』のところで五条はわざわざ上体を屈めてミズキの髪に頬を寄せ、抱いた肩を引き寄せた。
五条の声は良く通るし、それでなくても周囲はこの遣り取りに注目している。子ども達だって丹仁の振る舞いがどこかおかしいことくらい分かる。その中で自分がひどく滑稽だということをさすがに察し、丹仁は五条の手から逃れていそいそと教壇へ戻ったのだった。
授業を始めてから丹仁は冷や汗が止まらなかった。教室後方に立つ五条はサングラスをかけているけれども、握手の時に見たあの青い目が虎視眈々と致命的な血管に刃先を引っ掛けてきているような気がしてならないのだ。
丹仁は非術師ながらその感覚は間違っておらず、実際のところ五条はミズキにすらバレないように器用に呪力を忍ばせて、致命傷寸前の感覚を丹仁に与えていた。
しかし丹仁が吃りがちになり不自然な沈黙が増え、それが五条の仕業だとミズキが察するのに状況証拠は充分だった。彼女が振り向いて夫の服を軽く引くと、五条は優しい笑顔を返してやる。
ミズキはいつも柔らかなその目元を厳しく吊り上げて夫を睨み上げた。『何かしてるでしょ、やめて』という表情の妻に五条はへらっと笑って、悪戯のバレた子どものようにそそくさと呪力を引き上げたのだった。丹仁の動揺は結局授業が終わるまで治まらなかったけれど。
理人は涼しい顔で丹仁を眺めながら、ひとつ学習をした。なるほど、『こう』やればいいのか、と。
授業が終わると生徒も保護者と一緒に帰宅する運びになっていた。理人が荷物をまとめて両親の元へ行くと、五条は廊下に出て妻子の背中をそっと押した。
「2人ともちょっと先行ってて。理人、ミズキのこと守れる?」
「当然」
舐めんな、という具合に理人は顎を突き出すような仕草をした。五条は笑って「OK任せたよ」と歩いていってしまって、引き止めようとしたミズキは理人に手を引かれて五条の背中を見送ることになった。
『ちょっと』というのは振り幅のある言葉だけれども、今回の五条の『ちょっと』はものの数分のことだった。
理人とミズキが駐車場の自家用車に着いてから程なくして五条は追い付き、運転席に座った。彼は上機嫌に「おやつでも買って帰ろうか」と車を出す。
「悟さん、先生と何の話を?」
「まぁ世間話だよ」
ルームミラーの五条は飄々と笑っている。
五条が何をしたのかまでは分からないけれど、見た所学校に警報が鳴り響いているわけでもないし、血相を変えた校長や理事長が走ってくるということも無いのだから、一応五条なりに『穏便』を心掛けたのだろうと思うしかない。それにミズキは、五条の行った『対処』をひっくり返して丹仁を守ろうとも思わない。児童の保護者に色目を使う教師に息子を任せたいはずもないし、そもそも気持ちが悪いと思っていたのは事実であるし。
「ねぇお母さん、おやつ何がいい?」
「理人は何がいいの?」
「お母さんが食べたいのがいい」
色男の使う切り返しである。五条が笑った。
「ほらぁミズキ、こうなったら素直に食べたいもの言うのがマナーでしょ?っても既に行きつけのケーキ屋と和菓子屋の方面に向かってまーすどっち行く?」
言われてみれば知った道筋を車が辿っている。ミズキは運転席の背中と隣の理人を順に見て、その甘やかしを受け入れることにした。
後日、理人が意気揚々と学校からの配布物を、ソファに座る両親の前に置いた。内容は丹仁からの退職の挨拶で、家業を継ぐ旨と年度途中の退任で迷惑を掛けることへの謝罪、後は『在任中には皆様の温かいご支援をいただき…』というような定型文だった。
ミズキが紙を手に取って目を通していると、途中で五条がスッと抜き取って適当に握り潰した。
「理人、これゴミ箱」
「はい」
普段なら五条は妻子にゴミを押し付けたりしないし、あったとしても理人だって『自分で行けば』と突っ撥ねるところだけれど、こんな時だけ阿吽の呼吸を見せる父子である。
「読まなくていいよミズキ、どうせ嘘と定型文なんだし」
「そうだよお母さん」
不要物をゴミ箱に突っ込んできた理人が、弾むようにミズキの隣に座った。
理人はミズキの肩に引っ付きたくて、母の肩を抱く父親の腕を邪魔に思い、退かそうとして敗北、腹いせに抓った。「アハハッいたーい」と全く痛そうでない声で返された。
「理人」
「ん、何お母さん」
直前まで半眼で眉間には皺が寄っていたのが、パチリと切り替えたように純真な目でミズキに向いた。そのこめかみにミズキは優しいキスをする。
「ありがとう。次の先生は、ちゃんと理人のことを見てくれる先生だといいね」
ミズキの目が眩しそうに細まるのを見、温かく柔らかい手に撫でられると、理人は頭の中で箱の蓋が緩むような気分になることがある。
蓋と一緒に涙腺も緩みそうになって、それで理人は、あの教師が生徒をろくに見ないことが不満だったのではないと言い損なった。
「ちょっとミズキ、僕には?ねぇ僕には?」
雰囲気台無しもいいところである。
理人と歳近い兄弟のように駄々を捏ね始めた五条にミズキが礼を言って、同じようにこめかみに唇を寄せると、大人気なくも五条はミズキの頬に手を添えて正面からキスを始めた。しかも、結構濃厚なやつを、ミズキの抵抗などものともせず。
理人はゆらりとソファを立つと五条の前に詰め、父親の脛を渾身の力で蹴ったのだった。
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ネタポストより『理人くんの授業参観のお話』
モブ教師は担任の丹仁(たんにん)先生です。漢方薬みたいな名前。
お母さん大好きな息子と大人気ないお父さんのサンドイッチでございます。
リクエストありがとうございました!