微睡

「いいかい、伊地知君。僕ら補助監督には伝家の宝刀がある。五条特級術師に対してのみ効力を発揮する特別な宝刀だよ。乱用はダメだ、犠牲が大きいからね。だけど五条特級術師絡みでどうしても困ったことになった時には思い出すといい、必ず君を助けてくれる」

これは補助監督への転向を決めた伊地知に、高専卒業生で既に補助監督として働いている先輩が最初に教えてくれたことだった。
先輩の話には従順に頷きつつも、伊地知は『そんな便利なものなんてあるもんか』という思いを消しきれないでいた。生来素直な伊地知が先輩の言葉に反感を持ってしまったのは、入学以来彼が五条から受けた扱いに起因するところが大きい。
『あの』五条悟が本気で臍を曲げてしまったらそれはもうこの世の終わりみたいなもので、それを綺麗に解決してくれる奇跡のような手段など、伊地知には想像出来なかったのである。

ところが伊地知はこの日、その伝家の宝刀の柄に初めて手を掛けていた。

「無理ヤダぜぇーーーったいヤダ、何が何でも今日は帰るし明日も休む。あのさぁ僕の休み何日ぶりか知ってる?58日よ?お前良心ないの?テメェが58連勤してから言えよ。とにかく僕は行かない。呪いだって今日明日で急に動かねーよ1級以上なら特に。どーしても祓ってほしいなら僕の前まて連れて来ればぁ?」

伊地知の思うこの世の終わりが迫っている。
五条は長い脚で後部座席から運転席を好き放題に蹴りまくっていた。彼の労働条件が過酷だというのは伊地知も否定しないけれども、気を抜くと泡を吹いてしまいそうな剣呑な空気を浴びせられては堪ったものではない。
伊地知は「司令部に掛け合ってみます…!」と車から逃げ出してひとまず五条から距離を取った。
それから律儀にも一度は本当に司令部に電話をかけて五条特級術師の休暇を嘆願したのだけれど、にべもなく却下されて沈んだ。

そうして彼は伝家の宝刀に手を掛けたというわけである。
その伝家の宝刀を11桁の番号で呼び出しながら、伊地知は神に祈った。お助けください、どうぞお助けください、と。軽やかな声で「はい」と応答があった。

「っも、もしもし!伊地知と申しますがっ!!」
「あぁ、伊地知くん?どうしたのそんなに慌てて」

つまり宝刀とは妻のことである。
伊地知はミズキと面識が浅い。そもそも高専は上級生になるほど任務で不在がちになるし、特に彼女には『いやらしい目で見ると五条悟の報復がある』との噂があって、伊地知は積極的に話し掛けてこなかった。ただ神秘的に美しいという初対面の印象だけが強く残っていて、そのことも近寄り難さに拍車をかけていた。
電話から聞こえるミズキの声は優しく柔らかく、伊地知は何だか泣きそうになった。

「…そっか、困らせちゃってごめんね。私からも説得するから、10分経ったら車に戻ってみてくれるかな?」

事の経緯を聞いたミズキの言葉に、伊地知は心底感謝した。そして本当に地面に伏して礼拝した。





「…伊地知?それとも夜蛾さんかな」と電話に応答するなり五条は言った。出張を渋っているこのタイミングでミズキから電話が入る理由は、考えなくても分かる。

「伊地知くんが半泣きでしたよ。後輩には優しくしなくちゃ」
「奴らが僕に優しくないんだよ。今日は16日ぶりにミズキに会える予定だったのをアッサリ変えやがって」
「出張ですか?」
「そ、青森に1泊だってさ。それが終わったら元の予定に戻ってまた連勤の始まり。酷すぎじゃない?ミズキが欠乏して瀕死なんだよこっちは」
「私も会いたいですよ。けど私の方も急な出張が入っちゃったんです」
「ハァァァ?漆黒すぎて笑えてくんだけど、もうふたりでバックレようよマジで」
「それも楽しそうですね。でも偶然、実は私も青森に1泊です。補助監督に転向を決めた後輩の実地指導なんですよ。その子は出張初めてなんですって。さっき会話したんですけど、帯同する術師さんがお疲れでイライラしちゃってて、困ってました」

五条ははたと黙って、車窓の外を見た。遠目に伊地知が不安そうにこちらの様子を伺っている。
は、と五条の口から小さく笑いが漏れた。

「…ミズキの出張ってさ、後輩補助監督の指導だけ?術師のケアはしないの?」
「もちろんしますよ。イライラしちゃうくらい忙しいんですから、お疲れのままだと任務にも響きますもんね」
「その術師羨ましいな。どんなケアを用意してくの?」

今度はミズキが「んー…」と迷うように少し沈黙した。ごそごそと手を動かす音が漏れ聞こえている。

「今ね、自宅に戻ったところなので荷造りしてるんです。この前買った新しい下着を荷物に入れようか迷ってます」
「それ是非入れて。他は何も持たなくていい」
「悟さんは出張行けそうですか?」
「頑張っちゃおうかな」

それから2言3言交わして通話を終えると、五条は端末をポケットに仕舞ってくつくつと笑った。窓を開けて片腕を出し、怯えながらこちらを窺っている伊地知を手招きで呼び戻した。
揺れも音も立てないようにそろそろと運転席に戻る伊地知に対しては、少し脅し過ぎたかと反省しないでもない。

「伊地知」
「ハッハイッ!!」
「空港の前に僕んち寄って」
「は、はぁ…?」
「出張行くんでしょ。ほら急ぐ」

伝家の宝刀すげぇ。
伊地知の感動は深い。

五条の自宅からミズキが合流して伊地知も彼女の同行を知り、そこから羽田・航空便・青森ときてレンタカーを借りた。伊地知にとっては五条の機嫌を立て直してくれただけで五体投地で感謝する案件だったのだけれど、旅費精算の申請方法や領収書の取り方など優しい指導が入って伊地知は本当にちょっと泣いた。

討伐予定の呪霊は特級に片足突っ込んだような1級と2級が数体、出張の工程としては3時間で見積もられていたけれども、現場に至ってから2分少々で五条は帳を上げて帰ってきた。

「ほら何ボサッとしてんの、今日の宿行くよ」

五条に軽く額を弾かれてじんじんと痛むのを手で押さえながら、伊地知は慌てて運転席に滑り込む。予約しているビジネスホテルの住所をカーナビに入力していると、後ろから五条の待ったが掛かった。伊地知の左肩に五条のスマホか差し出され、受け取ってみれば機械音声が既に道案内を開始している。県道沿いに6km直進、その後国道に合流します。

「宿なら僕が変えたから。そこ行って」

正直急げば東京に帰れる時間だったけれど、伊地知が口に出すはずもない。彼は力無く「ハイ」とだけ答えて車を発進させた。

そして宿。

ナビに導かれた先で「…月野リゾートは経費で落ちますか?」と伊地知が尋ねて、ミズキは「落ちません」と答えた。

「もーそんなの僕が払うんだから気にしなくていーの!ほらミズキ早く!温泉入って美味しいご飯食べて思う存分イチャイチャするよ!」
「あっ伊地知くん経費で落ちない宿泊の処理はまた、」

「明日伝えるから」という言葉の末尾は五条に連れ去られてフロアの奥へ吸い込まれていった。
伊地知は人生初の高級リゾートのエントランスフロアで、喪服のような漆黒のスーツに周囲とのギャップを感じつつ、呆然と立ち尽くした。しかしやがてそれにも慣れて、自費では恐らく一生宿泊しない豪奢な部屋へ入っていったのだった。

翌朝伊地知はホテルの廊下を歩いていて、行手に五条の後ろ姿を発見した。何か布団のような白く大きなものを抱えた五条に、伊地知は駆け寄って挨拶をした。五条も振り返ってにこやかに挨拶を返した。

「五条さん、シーツですか?従業員の方を呼びましょうか」
「あーいいのいいの、僕が自分で断ったから」
「? はぁ…?」

それもそうか、というところだった。この高級リゾートで客がシーツを抱えて廊下を歩く事態を、従業員たちが看過するはずがないのだ。客自身の強い要望でなければ。
しかし事情は分かっても理由は不明なまま、伊地知はまた歩き出した五条をぼんやり見送ろうとしていた。そこへ五条が「あ、」と声を上げて振り向き、伊地知は肩をビクつかせた。

「お前今日はもう適当に帰っていいよ。僕とミズキはもう一泊してくから、明日の任務調整だけお願い」
「ぇ、えっ!?ですがあの、任務が…」
「58連勤後の休日返上で出張対応してんだから明日1日ぐらいどうにかなるでしょ。ミズキも今日は起きらんないから動かすの可哀想だしさ」
「えっ、体調でも悪くされましたか!?」
「お前さぁモテないでしょ、野暮だね」

五条にくすりと笑われて、伊地知は一拍遅れで事情を理解した。
シーツ、従業員を断って自分で、もう一泊、動けない、五条の妻への溺愛ぶりは有名である、そういえば五条は今日やたらと肌艶がいい。
瞬時に湯気の出そうなほど赤面した伊地知を「男の赤面って需要ねー」とカラカラ笑いながら五条は去っていった。


五条が部屋に戻るとミズキはまだシーツにくるまって眠っていた。
その剥き出しの肩に布団を引き上げてやると彼女は薄らと目を開けて、「おかえりなさい」と少し掠れた声で言った。

「ただいま。朝ご飯もうじき来るけど食べられる?」
「たまごやき…食べたいです、甘いの」
「あるよ。あと林檎も」
「すてきな朝ごはん」

五条はベッドの縁に座るとミズキの髪を撫で、彼女は心地良さそうに目を細めた。

「横になったままでいいからね。一口ずつ運んであげる」
「起きて座るくらいできますよ」
「それじゃご飯くるまでもっかい抱いていい?」
「おかしいですね文脈が」

ミズキがくすくすと笑うと五条も笑い始め、ミズキの耳元や首を擽るように指先で遊んだ。それが過ぎるとミズキは軽く布団を持ち上げて五条の入る空間を作り、「悟さん」と夫を呼んだ。

「きてください」
「あれ、えっちダメなんじゃなかったの?」
「えっちなのじゃないです」
「なぁんだ残念。まいっか、お邪魔しまーす」

へらっと笑って、五条はミズキの体温に馴染んだ布団に潜り込んだ。いつも通りにミズキを抱き込もうとした彼は、ミズキの手に促されて普段とは逆、彼女の肩口が目の前にくる高さに落ち着くことになった。優しい手が五条の髪を撫でる。

「悟さんもちゃんとおやすみして。昨日、ちょっと本当に疲れてたでしょ」
「あー…疲れってか、苛ついてたかな。16日ぶりに会えると思ってたのに出張ってんだからさ」

眠気に包まれているミズキは体温が高い。
明け方まで五条に抱かれていた彼女はふわふわと眠気のほとりを行きつ戻りつしている。

「疲れてるからイライラしちゃうんですよ」
「違うね、ミズキが足りないとイライラしちゃうの僕は」
「いいこ、いいこ。がんばり屋さん…でも、がんばらなくっても…私はいますからね…」

五条の髪を撫でていた手が止まって、くったりと脱力した。五条はミズキを起こさないように、彼女の腕をそっと布団の中へ仕舞ってやった。
それからミズキの温かく柔らかな身体に頬を寄せ、鼓動を感じながら、甘い溜息を零した。
あぁ、生きている。

補助監督連中がミズキのことを『伝家の宝刀』とか『命綱』とか『対五条悟最終兵器』とか好き勝手に呼んで頼りにしていることは、五条も把握している。
知った上で、泳がせておけば上層部からミズキを五条専属の補助監督にと都合のいい辞令が下るかと期待しているのに、それは中々実現しない。
ミズキは比較的低級の術師に振られる任務の事前調査を優先したがる部分があって、夜蛾がそれを許しているからだろう。『何てことない2級任務のはずだったのに』という学生をもう出したくない彼女の気持ちは理解出来るから、五条も強く出られないのだ。
本当はこの体温をどこへでも連れて行きたいし、片時も離れたくないのだけれど。

五条は困ったような、幸せで苦しいような、曖昧な表情で目を閉じた。
そして朝食が運ばれてくるまでの短くて幸せなまどろみに、身体を明け渡した。




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