悪い夢、壁を隔てて
ミズキは目を覚まして天井を見てすぐに、ここが五条の部屋で五条のベッドだと分かった。カーテンが引かれた薄暗い部屋、五条はいない、灰原が亡くなった時と一緒だった。
前回書き置きのあった机を見たけれど、今回は何も置かれていなかった。
悪い夢のよう。
ミズキはゆっくりとベッドから足を下ろし、ベッドの頭側が接した壁を見た。壁一枚隔てた向こう側は夏油の部屋だ。物腰柔らかで理知的で、意外と気の短いところもある夏油が、今もそこにいるような気がしてならない。
ミズキはふわふわとした足取りで壁に歩み寄り、こんこんとノックした。こんこん、こんこん、こん。夏油がノックを返してくれそうな気がした。
「夏油さん」
目を閉じると耳の奥で、どうしたの、と彼の声がした。耳の奥にいつもの優しい夏油がいるような気がして、その夏油と人を殺してきたというあの夏油が、ミズキの中でどうしても一致しなかった。
目を閉じたまま壁に額を預けて、ミズキは夏油に話し掛けた。
「夏油さんきいて」
どうしたの?
「悟さんにひどいことが起こったんです」
何だい?
「たったひとりの親友が禁忌を犯して離れていってしまったの」
それは辛いね。
「夏油さんのばか、夏油さんが悟さんにとってどれだけ特別だと思ってるの」
ごめんね。ミズキは悟の傍にいてあげて。
「私じゃだめなのに、夏油さんじゃなきゃ」
ミズキじゃなきゃ駄目なんだよ、悟に必要なのはふかふかの寝床だから。
ミズキの瞼の裏に浮かぶ夏油はずっと穏やかに笑っている。耳の奥に、あるいは壁の向こうに、彼はいる。
「夏油さん」
何だい?
「私また、悟さんに甘えちゃった。泣きたいのは悟さんなのに、私が泣いてちゃ悟さんが泣けない」
ミズキが無理をすることを、悟は望まないよ。
「ふかふかの寝床失格です」
いるだけでいい。
「いるだけじゃだめだから、夏油さんは行ってしまったんじゃないの?」
違うよ。彼が考えて選んだんだ。ミズキのせいじゃないよーーー
閉じていた目を開くと、薄暗い部屋と変わらない壁が目の前にあった。
ミズキは壁を離れてデスクチェアに歩み寄った。椅子の背に彼女の上着が掛けてある、そのポケットから携帯を取り出した。
薄暗い部屋の中でディスプレイの光が目に痛い。夏油の番号に発信した。意外にも呼び出し音がしたけれど、やはり応答はない。どこかに放置してあるのかもしれない。そのうちに留守番電話に切り替わった。メッセージ録音開始の音。
「…夏油さん、さっきは取り乱してごめんなさい。ちゃんと、お別れを言っておこうと思ったんです。さようなら、夏油さん、さようなら。いつかまた会えたら、その時は再会を喜びましょう。もし二度と会えなかったら、その時は、今こうしてきちんとお別れを言っておいて良かったということになります…って、ね。
さようなら夏油さん、今までありがとう。道を違えても、あなたの心が穏やかでありますように。
さようなら、さようなら、さようなら」
通話終了のボタンを押して、携帯をポケットに戻した。窓へ行ってカーテンを開けると、秋口の風が部屋に流れ込んだ。
泣いてばかりいてはいけない、自分に出来ることをしなくては。
その時外から解錠する音がして、五条がドアを開いた。彼はミズキが起きているのを見て少し意外そうにした。
「早いな」
「帰り、重かったですよね。ごめんなさい」
「ナメんなよ余裕だわ」
「あのね悟さん」
後ろ手にドアを閉め、五条はサングラスを外して机に置いた。その彼にミズキは歩み寄った。
「おかえりなさい」
彼女が笑って言うと、五条はその体躯を折って華奢な身体を抱き締めた。「ただいま」と言う声は子どものようだった。
「…泣いてるかと思った」
「泣かないことにしたんです。寝床が湿っぽいのはいけないから」
「は?別に枕とかシーツとか濡れても文句言わねぇよ」
「うん、悟さん今日ね、一緒に寝てもいいですか?」
答えているようで答えていないミズキに五条は抱き込んでいた身体を少し離して顔を見た後、彼女から目を逸らした。
「…やめとけば。ヒデェことするかもよ」
「私はいいですけど、後で悟さんが傷付くからやめた方がいいですよ」
「お前はいいのかよ」
「だから今日は、一緒に寝ましょう?」
一度逸らした青い目が再びミズキを見た時彼女はやっぱり優しく笑っていて、五条は反射的に何度か瞬きをして水分が目から落ちないように薄く行き渡らせた。
「…うん、いて」
ぽつりと落とすように五条が言うとミズキは彼の胸板に頬を寄せ、「うん」とだけ返した。
夜、ふたりで一緒にベッドに入るとミズキは五条の頭を抱き締めるようにして寝た。そのベッドの中には温め合って眠る小さな動物のような空気だけがあって、五条の言う『ヒデェこと』の気配は少しも訪れなかった。
五条はミズキの温かく柔らかい胸に耳を押し当てて心音を聞きながら、翌朝彼自身が驚くほど自然に眠った。
ミズキは五条の髪を撫でながら、夏油の携帯に残したメッセージのことを思った。きっとあの録音を、去ってしまった夏油は聞くことはないだろう。けれど、耳の奥にあるいは壁の向こうにいる記憶の夏油が、受け止めてくれた気がした。
夏油さん、私は、悟さんのふかふかの寝床でいることにします。
それがいい、と耳の奥に夏油の声がした。