灰原 雄のこと

「灰原くんと七海くんがね、2級に昇級したんですよ。すごい、2年生になったばっかりなのに」

平日の夜、ミズキは五条の部屋でベッドに課題を広げて書き込みながら唐突に言った。五条はテレビを見たまま「ふーん」と気のない返事をした。

「私は最近事前調査ばっかりで自分では祓除しないから、昇級は遠いなぁ…」

万年人手不足の呪術師を効率的に回すため、呪霊の特性調査や術師と呪霊の級数ミスマッチを無くすことは必要なことだった。新入生が1級呪霊と遭遇することも、五条を動かしておきながら呪霊が2級止まりという事態も、避けたいところである。
ミズキは祓除数こそ少ないものの、補助監督と術師の中間のような立ち位置で日々忙しくしていた。
そのことに内心安堵しているのが五条だった。

「…別に昇級すりゃいいってもんでもねーだろ」

2級に上がれば単独任務を持つ。祓除まで担当すれば危険が増す。
どれだけ危険な任務でもほぼ無傷でこなす五条が最も恐れているのは、自分の手の届かないところでミズキに危険が及ぶことだった。だからこそ裏で、彼女の探知能力は術師と任務のマッチングに活かすべきと上層部に進言しているし、2級昇級を遠ざけてもいる。学生とはいえ特級術師であり次期五条家当主でもある彼には、既に無視出来ない発言権があった。
そしてその発言権を秘密裏に行使していることについて、仄暗い罪悪感を抱かないでもないのである。

ミズキはペンを置き、五条の横顔を見た。五条はミズキの傍にいるときいつも瞬きも惜しんで彼女を見るから、ミズキが彼の横顔を見る機会は、実はあまりない。
前に横顔を見たのはいつだったろうと考えて、駅でピアノを弾いてくれた時だと思い至った。温かい音、繊細に動く指先、鍵盤を見る横顔。とても美しかった。
ミズキは心が温かく満ちるのを感じて唇で弧を描いた。彼女が五条の頬にキスをすると、青く美しい目がようやく彼女の方を向いた。

「今の実力で無理に昇級を目指したりしたら危ないって、自覚はありますよ。心配してくれてるんでしょ」
「…サポートタイプを前線に出すのはアホだろって」
「素直じゃないなぁ、もう。分業だって割り切って頑張ります。…だから悟さんも、怪我しないでね」
「誰に言ってんだか」

ふは、と気の抜けたように笑って、五条はミズキにキスをした。柔らかな感触と匂いと清浄な空気に落ちるように安堵して、やはりどんな手を使ってもこれを死守しなければと決意した。





夏、灰原が亡くなった。
事前情報では2級案件だったものが、蓋を開けてみれば土地神の絡んだ1級案件だったと、同じ任務から生き残った七海が憔悴した様子で言っていた。
ミズキは事前調査に携わらなかったことを悔やんで泣きに泣いた。灰原と七海の任務を引き継いだ五条が無傷で帰って来ると彼の胸に縋り付いてまた泣いて、くたびれて眠ってしまったのを五条は抱き締めて自分のベッドに眠った。
翌朝ミズキが目覚めた時には五条は既に新しい任務に発っていて、机の上に『鍵頼んだ 朝メシ食えよ』と書き置きがされていた。不遜な言動の割に五条は美しい字を書く。彼の育ちが表れたようなそのメモ書きを捨てることが出来なくて、ミズキは大切にポケットに仕舞った。
カーテンが引かれて薄暗い部屋の中でミズキは腫れぼったい瞼をぎゅっと押さえた。女子棟まで歩いて戻り、シャワーを浴びて身なりを整えた。頭がぼんやりとして現実味がなかった。現実と膜を隔てたような頭の中に、焦燥感がじわりと湧いた。泣いてばかりいてはいけない、自分に出来ることをしなくては。

朝食を求めて談話室へ降りると夏油と居合わせた。彼はラフな部屋着で、シャワーを浴びてきたと見えて重く湿った髪を肩に流れるままにしている。夏油の目元には疲れが見えた。ミズキが挨拶をすると、覇気のない返事があった。

「夏油さん、少し痩せましたね」

これは以前に五条が指摘したことであって、ミズキの目にもそう映った。五条の指摘に夏油はその時「ただの夏バテ」と答えたし、今回も同様にした。

「…ミズキは、辛くないかい」

少しの沈黙の後、夏油がおもむろに言った。

「…もちろん辛いです…し、まだ上手く…飲み込めてません」
「当たり前か、ごめんね。悟の部屋でずっと泣いてたもんね」
「う、うるさくしてごめんなさい…」

ミズキが羞恥心に縮こまると、夏油は笑って「いいよ」と言った。

「…みんなが無事に帰って来られるように、私に出来ることをしようと思っています」
「事前調査、大事だよ。夜蛾先生も任務の成功率が上がったって喜んでいたしね。だけどミズキにしか出来ないのは、悟の傍にいることかな」
「…」
「悟をよろしくね。…まぁ私は親でも何でもないんだけど」

ミズキは不安に駆られてしばらく夏油の顔をじぃっと見つめていた。彼の声がよそよそしい響きを含んでいたから。

「夏油さんもですよ」
「何がだい?」
「悟さんの傍にいること。…私にはときどき、悟さんが針の上に立ってるみたいに見えます。大抵は任務から帰ってきたときに。だから…足を下ろす場所を、ふかふかにして待ってようって、思ってます」
「それがいいよ」
「私は隣には立てません。隣に立つのは夏油さんだもの」

「隣」と、手のひらの上に乗せて眺めるような言い方で夏油は呟いて、ふっと笑った。

「悟は孤高だよ」

ミズキが言い返せないでいる内に、夏油は背を向けて男子棟へ歩き始めた。
その背中へ「夏油さん」とミズキが呼び掛けた。

「朝ごはん、一緒に食べませんか」
「…ごめんね、もう済ませてしまったよ。それに、悟に悪い」

ひらひらと手を振って、夏油は男子棟へ入っていった。
ミズキはしばらくその場に立って動けないでいた。少なくとも談話室の共有キッチンからは、食べ物の匂いはしない。




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