短編 | ナノ

夜の子ども

これの導入

クロコダイルがこれまでに見えた子どもの中で、その小娘は一等ひ弱だった。能力で枯らす必要すらない、砂漠の凍える夜の空気に喘鳴を漏らすその喉は、クロコダイルが喫煙するだけでも容易く閉塞するだろう。そのせいなのか、クロコダイルは医者ではないので分からないが、その娘は2つ年上の姉に比べても小柄で、より幼かった。そして、その娘は病のせいかろくに外に出たことがないらしく、クロコダイルの足の長さと同じくらいの身長で、己の2倍以上ある背丈の恰幅のいい男を少しつらそうに見上げながら、海のお話をしてくださいまし、とせがむのだった。

「クロコダイル様、先日のお話の続きをお聞かせ願えますか。」

その日も国王との会談を終えた後のクロコダイルの元を訪れて、もはや拒否されることも想定していないのか卓上に地図を広げながらそう言う。地図を持ってくるようになったのは、以前話をした時にクロコダイルがふと『地図があったほうがわかりやすいかも知れねェな』と零してからだ。そういった学習能力の高さや、王族ゆえの礼儀正しさなどは年齢にそぐわないが、子供嫌いのクロコダイルとしてはありがたい限りだった。

「あァ…どこまで話したかな。」

「凍った湖を泳ぐお魚のところまで!」

よく覚えているな、とクロコダイルは感心した。この年頃の子どもというのはこれほど記憶力のいいものなのか。

「そうか。その島には―」

風化しかけの記憶を掘り起こしながら、かつて偉大なる航路を航行していた時に訪れた島のことを話していく。特に何の感想も交えず、何がいたとか、こんなものが売ってたとか、旅行記としては出版できないであろうほどに淡々と告げていく。それでも眼前の娘にとっては胸踊る話であるらしく、クロコダイルが指し示す地図を眺めて思いを馳せ、目を輝かせて聴いていた。

「それで、それでどうだったんです?」

「そう急くな。」

小娘の催促を遮り、ほぼ一方的に話をしているため乾いた喉を水で潤す。その間もメルセデスはそのきらきらと輝く視線をクロコダイルから離さない。今は幾分ましになったとはいえ、クロコダイルの闇を嗅ぎつけているのか警戒感を漂わせる姉とは随分な違いだ。

「その時―」

無味無臭の航海譚は、聞く方はともかく話す方のクロコダイルにとっては実に味気ないものだった。それでも、わざわざ子供嫌いのクロコダイルがつまらん物語りをするのは、そこに価値があると考えたからだ。小娘と言えどこの国の王女、コネを作っておくに越したことはない。―とくに、こんな染めやすい幼子ならば尚更。



「いいなぁ、海。…私も行けたらいいのに。」

クロコダイルの話を聞いていたメルセデスがポツリと漏らす。小さなおとがいを同じく小さな手で支えながら、思いを秘めた瞳が窓の外へ―海へ向けられた。

「…王女様が偉大なる航路に出るのはおすすめしない。」

身体が弱いこととは別の問題点を指摘したのは、本人が痛感しているであろうことをわざわざ指摘して機嫌を損ねないためだ。最も、この娘が機嫌を損ねると言ってもほんの少しなものですぐに立ち直るのだが、大切なコネである。予防線を張るに越したことはない。

「そう、ですよね…」

クロコダイルの配慮も分かっているのだろう、意気消沈する娘にそういえば、とクロコダイルはちょっとした疑問を投げかける。

「宮殿の外には何度ほど出たことがあるのかね?」

「えっと…」

何回だろう、と尋ねられた本人も指を折って数える。その数が10は越えたのを見て、では、とクロコダイルは次の質問を投げかけた。

「アルバーナの外に出たことは?」

数えていた指が止まる。おずおずと顔を上げるメルセデスに、そうか、とクロコダイルは一人納得した。王都から出たことはないのか。―だが何も、偉大なる航路を目指さずとも。

「いきなり国外を目指す必要はないと思うがね。」

隗より始めよ、とは少し違うが、せめてまず王都から出ることを目指したらどうだと促す。まあ、それができたら苦労はしないだろうが。

「例えば、どこがいいと思いますか?」

「それをおれに聞くか?」

この国で生まれ育った王女がよそ者に国内のことを尋ねるという愉快な図に思わず薄らと笑う。だが質問者は至って真面目に、だってクロコダイル様のほうが私より詳しいでしょう、と返した。

「そうだな…まァどこへ行っても砂埃に塗れるのは明白だが…」

そもそも国土のほぼすべてが砂漠であるこの国で、重度の喘息持ちの彼女が生きていける環境などないに等しい。どこか屋内に退避させる必要があるな、と考えるクロコダイルは、ふと卑怯な一手を思いついた。

「ならばレインディナーズへお招きしようか、お姫様?」

夢の町と称されるレインベースに構えるクロコダイルの本拠地。あそこならば砂埃など―クロコダイルが意図しない限りは無縁であるし、屋内でも十分賑やかさを味わえるだろう。ああ、王女のお出かけには悪くない。

「いいんですか?行っても?」

「お許しが出れば、の話だ。」

とはいえ、仮にこの計画が実現しても移動は厳重、動く病院かと言うほど医療スタッフを連れての外出になるだろう。それでもいいのなら、と尋ねると、本人は勢い良く首を縦に振って『お父様に聞いてきます!』と部屋を飛び出した。その勢いの良さに慌てて侍従が追いかける。
あれではまた発作を起こすな、その背を見送り、クロコダイルはずっと我慢していた葉巻に火をつけた。あの娘がいずれ役に立つ可能性があるとはいえ、ここまで細心の注意を払って接待しなければならないのはなかなかの苦痛だ。上手く行けば不要な可能性に、一体いつまで投資を続けるんだ、とクロコダイルは己の行動に首を傾げた。

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