短編 | ナノ

ノスタルジア

「お父様?…いらっしゃらないんです?」

ドアを数度ノックしても物音一つしない部屋の前で、メルセデスは持ってきた書類の束を抱えたまま立ち止まる。いつもこの時間はいるのに、いや、でもお父様はなかなか多忙な人だから―と思考を巡らせて、おそらく無人であろう部屋のドアノブをひねった。

「やっぱりいない。」

どこに行ったんだろう、と悩みつつがらんどうの室内を進み、窓の近くに置かれた父親の机に寄る。海賊団の船長としてのものは右に、国王としての仕事用の書類は左に。いつもの規定を守って持ってきた書類を置けば、メルセデスの今日の仕事は終わりだ。

父親には会えなかったけれど、仕方ない。部屋に戻るか、とメルセデスが顔を上げると―

ふと、椅子の背にかけられたそれが目に入った。
あの、父親を特徴づける、ピンクの羽コート。

ドフラミンゴは自身のアイデンティティであるそれを、どこかに出かける際は必ずと言っていいほど着ていくのでこれがここにあるということはすなわち、ドフラミンゴは遠くには行っていない。多分王宮内にはいるだろう。
ならそのうち帰ってくるだろうか。話したいことがあるメルセデスは、そう見越してここで待つことにした。思えば今日は朝から父娘ともに忙しく、ろくに言葉を交わしてもいない。せいぜい挨拶程度だ。ちょっと顔を合わせて、話をしてもいいだろう。もしも父親がまだ忙しい最中であるなら早々に退散すればいいし。

そんなふうにこれからの予定をぼんやりと思い浮かべつつ、しかし、とメルセデスは自身の手を―正確にはその手が触れた先を見る。父親のピンクの羽コート。こんなもの売っているところを見たことがないので当然特注なのだろうが、なかなか上質で手触りがいいのである。具体的に言うともふもふ。それはもうもふもふである。
メルセデスがまだ小さかった頃、寒いところにいたのもあって、メルセデスはよく父親の背中とコートの間に隠れ棲んでいた。四方から父親の匂いがして、背中から弱く伝わる体温が温かくて。外が吹雪いていたりすると自身も重装備でありながら暖炉に火を宿した部屋で、背中に潜り込む娘をドフラミンゴは楽しそうに見つめていた。そんな、懐かしいことを思い出した。

―少しの間だけならいいだろうか。

まだ父親が帰ってくる気配はないし、とその椅子に座り、メルセデスはピンクのもふもふ―羽コートに包まった。ドフラミンゴはほんの少し前までこの部屋にいたのだろう、椅子は少し温かい。その微弱な温度と、コートから薄らと香る父親の匂いは懐かしい、あの頃と同じだ。最も、メルセデスは父親の背中に隠れることが出来ないぐらいには大きくなってしまったけれど。
父親の存在感に包まれながらメルセデスは目を瞑る。視界を遮って、あまり身動きもできない状態なのに、なぜだかほっとした。気を抜くとこのまま寝てしまいそうだ。

「お前もいるか? それ。」

物音も立てず室内に入ってきたらしいその声の主に、メルセデスは閉じていた目をぱっと開く。

「お父様?」

いつから、と絶句する娘を面白そうに見て今戻ったばかりだ、とドフラミンゴは答える。予想通り、近くにいたらしい。しかしこの状況―

「それ、いるか?」

何色がいい?と尋ねられ、慌てて要らないと返す。別にこのど派手で悪趣味極まりない、いやそこまで言うつもりはないがともかく、メルセデスは決してこのコートがほしい訳ではないのだ。ほんの少しの郷愁と興味に背を押されて、これが父親が身にまとうものであることもあって包まってみただけだ。そう、別にほしいわけではない―というか、貰っても多分、着ない。

「そうか、残念だなァ。」

父娘でお揃いにするのもいいかと思ったんだが、と珍しく落胆する様子を見せる父親に少し申し訳なくなる。いやでも流石にこれは、着ないし。

「赤とかどうだ?」

「ですから要りませんって。」

拒否したにもかかわらず提案してくる―しかも赤なんて派手な色を―ドフラミンゴに、メルセデスは再度拒否を示した。見れば先ほどの落胆はどこへやら、いつもの父親だ。もしかして、さっきのは演技か。

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