幾千
これを真面目に書いてみた突如として空から落ちてきた少年は、そのときひどく暗い目をしていた。
『名前は?』
出血はないのに打撲痕が多く付いた体は、ひどくやせ細っていて。
『名前?……メルセデス。』
白いというよりいっそ青い顔で、どこか狂気を孕んだ瞳がじっとこちらを見ていた。
「メルセデス、ここにいたのかよい。」
てっきりいつものように自室にこもっているのかと思えば甲板に出ていたその姿に、マルコは努めて明るく声をかけた。
「…ああ、マルコさん。」
こんにちは、と歳の割には覇気のない声が届く。おう、と返事を返し、何してんだ、と問いかけた。
「海を、見ていました。」
「潮風でその首のやつ錆びちまうぞ?」
その、と言いつつ自分の首を指差して示せば、少年も釣られてそこを抑えた。
不思議なことに、この少年の首には奇妙な金属が埋め込まれていた。少年はそれが何であるか知っているようだが何も言わない。ただ、もう必要ないし、使えもしないのだと言っていた。
「これ錆びたら、おれの体の中も錆びていくんでしょうか?」
「ちょっと待て、それ体ん中にも続いてんのかよい?」
「え?…ああ、はい。脳幹に。」
てっきり飾りか、あるいは何らかの識別用タグかと思っていたマルコは、それが内臓に直結していると聞いてゾッとした。一体どこの誰が、何のためにそんなことを。
「お前がいた世界は随分と技術が進んでたんだねい…」
少なくともマルコの知る限りでは、人の脳にまで金属を埋め込むなどという技術を持っている人間は存在しない。天才と名高いベガパンクでさえ、そこまでは達していないのではないか?
恐らく相応の数の努力が生み出したであろう技術を賞賛したマルコだが、それを受け取った少年は複雑そうに顔を歪めた。
「でも、その結果があれですよ。」
「あれ?」
反復するマルコをちらりと見てから、少年は首の金属をいじりながら海を眺めて言った。
「海はいいですね。こんなに広くて、綺麗で…潮風が、こんなに心地良いものだったなんて。おれは―」
話を逸らしたな、と気づきつつも、マルコは無言で先を促した。彼が話したくないのであれば仕方ない。まだ出会って数ヶ月だが、少年が内心に相当悩みを抱え込んでいることは薄々分かっていた。
「おれは、こんな世界に生まれたかった。」
それができていたなら、おれはあんなことしなかったのに。
夕日が空を橙色に染め上げる。まるであの日のカーパルスだ、と少年はひとり呟いた。
「つらい思いをしてきたのかい?」
「つらい?…いいえ、つらくはなかった。だってそれしか残っていない選択肢は、選ぶために悩む必要も苦しむ必要もなかったから。」
だからおれは何も辛くはなかったと少年は言い張る。その幼い心に悲鳴を閉じ込めて。
「…たとえ、何億人を殺したっておれはつらくはなかった。」
でもどうしてだろう、今ここで海を見ていると、どうしようもなくつらくなってくるのは。
「ああ、どうせこうなるなら―どうしてもっと速く、おれが狂気に走る前にこの世界に来れなかったんだろう。」
少年が甲板に崩れ落ちる。慌てて駆け寄って、マルコは少年の肩を叩いた。
「おい、大丈夫かよい!?」
「ああ…こんな…どうして、おれだけ」
オールドキング、と呻くように少年は人名を吐き出した。
「おれは、こんな未来があるなんて、おれは、」
「落ち着けよい、」
子どものように泣きじゃくる少年を引き寄せて、その背を何度も撫でる。繰り返し、少年は誰かを呼んでいた。
「―…」
なにか声をかけようとして、押し黙る。これまで1人で、おそらくなにか大きなものを抱えてきた少年に掛ける言葉を、マルコは持っていなかった。それに今何を言ったって、同情も憐憫も気に障るだけだろう。
自らの罪すら否定された少年は、何も知らない男の腕の中で泣き続けた。