良薬は口に××?
その日のドフラミンゴの機嫌は最悪だった。まず朝食の際に淹れたてのコーヒーを零した。これは自分のせいであるからさほど腹が立つわけでもないが、その後立て続けに部下がミスをした上に政府からの下らない長電話、窓から吹き込んだ風に机上の書類が全て吹き飛ばされるという災難に見舞われては、一連のケチの着き始めに思えて仕方がない。床を這いつくばって書類をかき集めてから、一国の王ともあろう男が何をやっているんだと嘆息する。何もかもが上手くいかない腹立たしさと虚しさ。もし今部下がさらにミスを重ねて来たのならば、何も躊躇うことなく八つ裂きにして窓から投げ捨てるだろう。
そんなこんなで殺気立っているドフラミンゴに恐れをなした部下達が、特効薬とばかりに愛娘をドフラミンゴの居室に放り込むまでそう時間はかからなかった。
「お父様?何かお父様が怒ってて怖いってみんな言っているのだけれど…」
娘を前にして少々押さえ込んだとはいえ、全身から殺気を滲ませているドフラミンゴの前に立つことができるのはさすがといったところか。ついで目ざとく机上の惨状を発見し、手早く書類の向きを揃えていく。
「何かありました?」
そう尋ねられ、ドフラミンゴは口ごもる。あるにはあったが、いずれも些細なことだ。そんな物一つ一つにいちいち目くじらを立てて怒り狂っていたなど、少なくとも娘の前で言えるものではない―と考えているあたり、悪のカリスマであろうが七武海で最も危険な男であろうが、娘を前にすればただの父親である。
メルセデスは向きを揃えた書類を今度は期限順に並べ直していく。小さな手が机上を片付けていく様子を、ドフラミンゴは黙って見ていた。
「よし、こんなところかな。」
父親が乱雑に拾い上げただけの書類を直して満足したのか、メルセデスは一人でうんうんと数度頷いた。
「…メルセデス」
「はい?」
娘を呼ぶと、父子で揃いの紅い瞳がこちらを射抜いた。こっちに来いと手招きすると何の疑いもなく寄ってきた娘の腰に腕を回し、己の足の間に座らせる。
「どうしたんですか?お疲れですか?」
大人しく腕の中に閉じ込められたまま、メルセデスは父親の顔を仰ぐ。色付きレンズ越しに視線を合わせて、ドフラミンゴは小さな娘を抱き締めた。
―本当に、小さな身体だとドフラミンゴは思う。そんな小さな存在でありながら、メルセデスがドフラミンゴに齎す影響は計り知れない。今だって、腹の中で渦巻く怒気をせめて娘には晒すまいと必死になっているのだから。
ドフラミンゴは己の過去故に、娘を過剰に庇護したがるきらいがあった。子どもというものは守られるべきだと、おおよそ彼らしからぬ考えを持っていた。だからあまり娘を叱りたくないし、できれば娘の前で怒るということも避けたかった。
今回のように、それを逆手に取られて怒りを鎮静させられるのも慣れたものである。おそらく、いやきっと、部下たちも気づいている。ドフラミンゴが娘の前では強く出られないということに。
おもむろに、娘を囲うドフラミンゴの腕に娘の手が触れる。特に腕を解こうとするでもなく、ただ黙って温度を分け与えていた。暖かさが、ドフラミンゴの緊張を解いていく。
怒りが霧散すると、ここ数日で蓄積された疲労感が肩に重くのしかかった。
「…疲れた」
「はい」
常日頃のドフラミンゴとはまるで別人のように覇気のない声を零す。小さな娘に救いを求めるように。
「…疲れたんだ」
「少し、お休みになっては?」
こちらを振り向いてメルセデスが言う。休む、そうだな。休みたい。今は、いや今日は、何もできる気がしなかった。
娘の手に己の手を重ねる。全く大きさの違う手。労るように指を絡めた。
「休んでも大丈夫か?」
「ええ。」
「なら休む。」
そうしてください、と娘が言う。―お父様は少し、頑張りすぎですよ。
繋げていた小さな手を離す。まだ掌に温もりが残っていた。