企画 | ナノ

天秤はすでに傾いている

その日、朝食の席にドルシネアはいなかった。

「ン?ネアはどうした?」

まさかあの娘に限って寝坊などしないだろう。もしや夜通し仕事をしていてまだ終わっていないとか。あり得る。時々ネアは無理をするからなァ、今度休みを取らせるか。
そう、呑気に構えていたドフラミンゴは、事情を知るデリンジャーの言葉に驚愕した。

「ネア、昨日の夜から熱があって…。あ、でも"今日は外せない会議があるからなんとかする"って言ってました。」

―なんとかするって、どうやって。
もしかしたらあの娘は休むということを知らないのか?そんな疑問が頭に浮かぶ。真面目なのは良いことだが、いくらなんでも行き過ぎだ。体調が悪いなら、少なくとも半日ほど休めばいいものを。まだ若いのに体を壊してどうする。
見上げた勤労精神に、はぁ、と溜息を吐く。もっと傲慢に生きればいいのに。彼女の父親はこのドンキホーテ・ドフラミンゴなのだから。

「デリンジャー。ネアの部屋に行って熱を測らせろ。それと、あいつが部屋の外に出ようとしても絶対に出すな。」

「はい、若様!」

指示を受けたデリンジャーが元気に駆け出していく。さて、俺も後で見に行ってやるか。





そう、後で。具体的には軽く仕事に手を付けて、それから休憩ついでに見舞ってやろうと考えていたのだが。

「うう、ご迷惑をお掛けして申し訳ありません、お父様…」

心なしか鼻声で、ネアが謝罪する。医者の診断によると、風邪をこじらせた、とのこと。無理をするからだ。
熱のせいか目は潤み、頬は普段より血色がいい。熱を確かめるために額に手を当ててやると、少し冷たい俺の手が心地よいのか、額をこすりつけてくる。猫か。

「気にするな。それより、何か食べたいものはあるか?」

気を利かせて聞いてみるが、食欲はないのかネアは首を横に振る。本人の希望はないので何か栄養のあるものを食べさせることにして。

「しばらく寝とけ。」

横になった娘の首元まで布団を引き上げ、額にキスをする。昔、ネアがまだ幼かった頃、就寝前によくやった動作だ。ネアも覚えていたのか、小さく恥じらうように口元を緩めた。

「おやすみ。」

「…はい。」

瞼を下ろした娘の頬を撫でる。やはり少し熱い。
手を離して、ベッドサイドに引き寄せた椅子に座って何をするでもなく娘の寝顔を眺める。すうすうと寝息を立てるネアは、頬に赤みが指していることもあって、普段より幼く見えた。北の海にいたころや、偉大なる航路の前半を航海していた頃を思い出す。思えば遠くへ来たものだ。

「若様、ネア寝た?」

ドアを少し開いて、顔を覗かせたデリンジャーが小声で尋ねる。寝たぞとジェスチャーで伝えてから、一度娘を見下ろして言う。

「俺はここにいる。何か急ぎの用事があったら、静かに伝えに来い。」

静かに、と念を押す。ネアの容態を知っているからだろう、デリンジャーも素直に頷いた。

「お昼もここで?」

「そうする。…あー、ネアの分は、起きたら食わせる。」

食欲がなさそうだったのに、わざわざ寝ているところを起こしてまで食べさせる必要はないだろう。そう判断して、ああでも飲み物はくれ、と付け加えた。様子見に来た結果伝言係にされてしまったデリンジャーだが、分かったわ、と返した。そのまま部屋を出たデリンジャーに、誰かが声をかける気配がする。あの声はベビー5か。そういえば、ネアとデリンジャー、ベビー5は仲が良いんだったな。

ふと娘を見ればやはり顔が赤い。額に氷でも置いてやるべきだろうか。ドフラミンゴは思案する。




嫌な夢を見て、ネアは閉ざしていた瞼をぱっちり開いた。見慣れた光景が瞳に映るとともに、夢の残滓が波のように引いていく。どんな夢だっただろうか。内容は、もう思い出せなくなっていた。

どれくらい寝ていたのだろう、確かめるために時計のある方を向こうとして―横から伸びてきた手に、傾けかけていた頭を制止される。

「動くと落ちるぞ。」

「え?」

ネアは、その声の主がここにいることにも、自分に施された処置にも驚いて、目を丸くした。指で探って気づいたのだが、ネアの額には濡れたタオルが置かれていた。そしてベッドサイドには、眠りに着いたときとさほど変わらない位置にいる父親。まさか。

「お父様、まさか、ずっとここに?」

もしそうであれば、自分の仕事だけでなく父親の仕事まで止めてしまったのか―と、ネアは愕然とする。そんな娘の表情を眺めて、不意にドフラミンゴは拗ねるような顔をした。

「…なんだ、俺がここにいるのは嫌か?」

「嫌じゃないです!」

落胆するような父親の姿に、慌ててネアは答える。突然声を張り上げたせいか、二度ほどむせた。

「嫌だなんて、そんなことありません!ただ、お父様のお手を煩わせているのではないかと…」

だんだんとしぼむように声が小さくなり、終いには情けなさを痛感しているのか、風邪とは別の理由で目を潤ませた。全く、この娘は。

「ドルシネア、お前はな、気にしすぎだ。」

それも悪い方へ、自分で勝手に思い込んでいる。これは風邪のせいなのか、はたまた。

「それに俺は子どもの面倒を見るのが好きだからなァ。」

え、と声を零し、ネアは驚きに目を丸くする。そんなに驚くことだったか?それに看病とはいえ、ネアは大人しい病人なので、せいぜい額に置いたタオルを取り替えるぐらいしか仕事がない。空き時間で十分に仕事はできた。

「余計なことで悩むな。今はゆっくり休んどけ。」

そう言って娘の頭を撫でてから、ああそうだ、と思い出す。ただ今午後2時。せっかく起きたのだから、なにか食べさせるか。薬も飲まねばならないし。

「何か食いたいもの、あるか?」

彼女が眠りにつく前も聞いたが、もう一度聞いてみる。すると娘は少し考えてから、果物が食べたいです、と小さな声で答えた。なるほど。

「ちょっと待ってろ。貰ってくる。」

「あ、はい。本当にご迷惑を…」

「謝るんじゃねえ。」

「あ…はい。」

ネアは我に返ったように数度瞬きをする。どうにも謝りたがりのようだ。

「何がいい?りんごか、ぶどうか、オレンジもあったぞ。」

「…りんごで。」

「おう。」

待ってろよ、ともう一度声をかけて、娘が頷いたのを確認してから部屋を出る。りんごか。りんごなら、俺が久しぶりに剥いてやっても良いかもしれない。

そんなことを考えながら、めったに行かないキッチンへ向かう。常々不思議に思うのだが、どうして親というものは、こうも子どもの面倒を見たがるのだろうか。世の中の親の一人として、ドフラミンゴは首を傾げた。

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