夢 | ナノ

制服の袖

小湊亮介

 うす曇りの春の空を見上げると、わすがな風に遊ばれるように髪が揺れる。

 振り返れば卒業式を終えて、みんな思い思いに写真を撮ったりして別れを惜しんでいた。私も部活仲間たちと存分に別れを惜しんだあと、約束している場所で彼を待つために歩き出す。彼、亮ちゃんも野球部の仲間たちと野球部の専用のグラウンドに別れを惜しみに行ってる。

 三月の初めはまだ少し肌寒い。冷たい手をこすり合わせて、自分の短い爪を眺める。この爪は亮ちゃんのために短くした爪だった。






 亮ちゃんと初めて話したのは1年の5月頃のことだ。教室には雑用を押し付けられた私と暑くて脱ぎっぱなしにして忘れていたブレザーを取りに来た亮ちゃんしかいなくて、やけに日差しがとても強かった、そんな記憶の中。

「花沢ってバカ?」

 それが亮ちゃんの第一声だった。あまりの言い方に何て答えたらいいかもわからなくて、その笑っているようで表情がないような亮ちゃんの顔をただ見ていた覚えがある。

「だって、それ一人で出来るわけないよね」

 疑問形のようで念押し、そんな口調には苛立ちが混じっていることには気が付いたし、小湊くんが苛立つことじゃないのにと思ったことも覚えている。

 要するに私にとって亮ちゃんの第一印象は最低だった。

 今思い返せば、亮ちゃんは体よく雑用を押し付けられた私を気にかけていてくれたのだとわかるけれど。亮ちゃんの優しさはこじれて出てくるからわかりにくい。今はもうそのこじれた優しさに慣れたし大好きだけど。

 でもその時はそんな優しさもわからなかったから、嫌だと言えずに押し付けられた雑用と、突然の、しかもほとんど口をきいたこともないクラスの男子のキツイ言葉のダブルパンチにひどく胸をえぐられた。

 えぐられた痛みは思いのほか簡単に涙になって流れてしまった。

 まだ入学して少ししか経っていなかった心細さみたいなものがどこかにあったからかもしれない。

 そんな私の涙は意外にも亮ちゃんをあせらせた。

「ちょ…! ちょっと、泣くことないじゃん」

 亮ちゃんは自分のポケットに手をやって ―たぶんハンドタオルか何かを探したのだろうけど、そんなの持ってなくて― 何を思ったのか、まくり上げていた制服のシャツの袖をおろすとその袖口で私の涙を拭いてくれたのだった。

 袖で涙を拭かれるなんて初めてだったし、それも男子だし、驚きのあまりしゃっくりが出た。それがさらに亮ちゃんをあせらせて、そのうろたえっぷりがおかしくて笑いがこみあげてくるし、もう泣いているのかしゃっくりしてるのか笑っているか自分でもよくわからなくて、ひとしきり気が済むまでお腹が痛くなるほど泣いてしゃっくりして笑った。

 亮ちゃんはそんな私に最初は戸惑っていたけれど、そのうち呆れを通り越しておかしくなったんだろう。同じように笑いだして、花沢バカすぎって言って私の頭にチョップをお見舞いしてくれた。それは記念すべき亮ちゃんの初チョップだった。




 ドスッと頭に衝撃を感じて後ろを向くと、チョップしたての亮ちゃんの手と顔が目に飛び込んできた。

「何、ぼーっしてんのさ」
「べつにー」

 待っている間に出会いを思い出してました、なんて恥ずかしてく言えないし、言ったらもう一発チョップと毒舌を食らうにきまってる。それは亮ちゃんの照れ隠しだから。

 あれからけっこうすぐに亮ちゃんと付き合い始めた。たぶん私たちの学年では一番付き合いが長いはず。でも普通付き合っていたら、きっとしていることをしていない。

 それは、手をつなぐということ。




 文化祭は校内がいつもと違う活気で埋め尽くされていた。私も高校生になって初めての文化祭で中学校とは違う盛り上がり方にウキウキしていた。何しろ人生初の彼氏までいるのだから、浮ついたって仕方ない。

 もっともその彼氏は野球部で文化祭の準備はほとんど参加してないし、文化祭当日だって自主練するっていうんだから、あきれるほどの野球バカだったけど。それでも少しだけ一緒に回る時間は作ってくれた。

「どこ回りたいの。行きたいとこ付き合うよ」

 夏休み明けに付き合いだした。けれど亮ちゃんは部活で忙しくてデートなんてしたことがないから、気を使ってくれたんだろう。でも。

「あ、先にお化け屋敷は行くよ、いいよね」

 まさかホラーが大好きだなんて思わなかった。怖がりの私にはけっこうツライんだけど。お化け屋敷も2年生と3年生のクラスが催していて、3年生の方のクオリティは半端ないと噂に聞いている。だから2年生の方だけならと思ったのに。

「お化け屋敷ってどっちの…」
「どっちもに決まってんじゃん」

 結果的にどちらも亮ちゃんの水準には達してなかったみたいで、翌年自分のクラスでお化け屋敷をすることになった時には部活で準備に参加できないのにスーパーバイザーよろしく口だけ出しまくってた。そのおかげで私は亮ちゃんの指示を遂行するべくやたらと走り回らされたけれど、クラス対抗の人気アンケートでは1位になったし今となればそれも良い思い出だ。

 ただ私が手をつなぎたいと、つなごうと思わなくなったのは、この一年の文化祭でお化け屋敷に入った時に起きた出来事のせいだった。

 最初に入った2年生のお化け屋敷は黒いカーテンで覆われているけれどそんなに暗くなくて、あっさり終わった。この時私は心の中で手をつないだりしたいなって思ってたけど、そんなチャンスもなく拍子抜けしたくらいで。亮ちゃんがどう思っていたのかはわからない。亮ちゃんの手はポケットに入っていて、私を引っ張ったりするときは私の腕をつかんでたから。

 続けて行った3年生のお化け屋敷は真っ暗だった。足元も危なくて、とっさに亮ちゃんに手を伸ばした。亮ちゃんの手に触れたと思ったとたんに、その手は振り払われてしまった。けれどすぐにぐいっと肩を引き寄せられた。肩を抱かれているという事実に胸が破裂しそうになって、手を振り払われたことはその時はすぐに忘れてしまった。

 暗闇のせいで初めて感じた亮ちゃんの体温と肩にかかるわずかな重みに意識がいってしまって、お化け屋敷の内容は全然覚えていない。でも今もあの時の亮ちゃんの妙に男らしい力に感じた胸のトキメキは忘れていない。ドキドキして息ができないくらいだった。顔は火照ってお化け屋敷の中が暗いことに感謝していた。出口が近くなるとあんなに嫌だったのにお化け屋敷から出ることが残念に思ったくらいだ。それはきっと出てしまえばこの腕は私から離れてしまうと確信してたから。

 実際、お化け屋敷から出るとすぐに亮ちゃんの手は私から離れた。あぁやっぱりと残念に思った私の目は自然と離れた亮ちゃんの手にいく。そしてその手がポケットに入るまでのわずかな間に、その手のひらに血が滲んでいるのが見えた。お化け屋敷に入るまでは血なんてその手にはなかったはずなのに。

 亮ちゃんの手がマメだらけなことは知ってた。皮膚がめくれて痛々しいのも知ってた。でも慣れてるからと笑う亮ちゃんにすごいなって思うくらいだった。なんて私はバカなんだろうとその時思った。その手には亮ちゃんの野球に対して本気に向き合う真剣な気持ちが表れていたのに。

 私は自分の手を見た。きれいに伸ばして手入れした爪が急に恥ずかしくなった。この爪が亮ちゃんの手を傷つけた。頑張っている亮ちゃんの手を傷つけてしまった。

「こみなっ、こみな、とくん」

 自分のしたことにひどく後悔して声も震えた。伸ばした手は亮ちゃんのシャツの袖をつかんだ。私にとって亮ちゃんの制服の袖は、涙をぬぐってくれたあの時から、亮ちゃんの優しさの象徴だ。そこをつかむことで無意識に許しを乞うていた。

 私の様子に亮ちゃんはお化け屋敷が怖ったのだと思ったらしい。怖がりだなあってからかうように笑った。

「こみな、とくん、違うの、私の爪が、手…」
「…バーカ」

 私の言いたいことが分かったのか亮ちゃんはふっと笑った。腕を私の背中に回して、促すように歩かせた。

「ちょっと話そ」

 文化祭の喧騒から離れるように使われていな教室で向い合う。いつもよりも柔らかな亮ちゃんの空気にかえって胸が痛くなった。

「悪い、手、払っちゃって」
「痛かったよね、ごめんね」
「違うよ、バーカ。血がついたら悪いと思っただけだし」
「でも、こみ、小湊くんの…」

 亮ちゃんは笑うと私のおでこに軽くチョップをした。その手はそのまま私のおでこにのったまま意地悪な笑顔。

「オレの苗字言いにくいんでしょ。さっきからかみまくり」
「それは、今、ちょっとあせって…るからだもん」

 私の返答にあぁもうしょうがないなぁってつぶやくと、亮ちゃんは私を自分の腕の中に閉じ込めてしまった。

 柔らかく回される腕は逞しくって温かくて気持ちが良くて無意識に体を預けてしまった。それに気づいたのか亮ちゃんの腕の力は緩くなって私の頭から背中をゆっくりと確かめるように動いた。

「亮介って呼びなよ」
「無理っ!」
「何その即答」

 亮ちゃんは珍しく声をあげて笑った。抱きしめられたまま笑われると体の内側にまでダイレクトに亮ちゃんの笑い声が伝わってきて、自分も笑いそうになる。

「今までなんて呼ばれてたの」
「亮介が多いけど」
「…女の子にも?」
「んー、亮ちゃんかな」
「女の子?」

 しつこい私に亮ちゃんは私の耳元でくすっ笑う。耳元で笑われるとくすぐったくて逃げたくなって顔をさらに亮ちゃんの胸にうずめた。

「気になるんだ」
「なるよ!」

 やけ気味に即答すると、ぎゅっと私を抱きしめる腕に力をこめた。

「母親がそう呼ぶよ」
「お母さん…」
「うん、どうする? 葉子もそう呼ぶ?」

 さらりと私の名前を初めて口にした。恥ずかしくて嬉しくて、名前を呼ばれる特別感に幸せを感じて私も亮ちゃんにぎゅっと抱きついてうんと頷いた。

 それでも、私の爪が亮ちゃんの手を傷つけたことは私の心の隅に小さな傷になって残った。その傷はけっして忘れてはいけないと、私は爪を短く切った。翌日爪を短くした私の手を見て亮ちゃんはバーカと優しい目でチョップした。





 亮ちゃんの顔をじっと見る。じーっと見る。しばらく何も言わずにただ見つめてみた。先に折れるのは亮ちゃんだ。私のおでこにチョップすると横を向いてしまった。

 意地悪で照れ屋な亮ちゃん。

 卒業式だし、もう制服とも今日でお別れだから。忘れてはいけないと思ってたその傷に触れる。

「亮ちゃん、手、つないでもいい?」








 それからも私たちは本当に仲良くしてきた。二年の時には修学旅行に一緒に行けなくて残念だったけど、それを理由に別れててしまった子たちとは違って、もっとお互いを大切に思うようになってた。

「これが班行動のときのでね…」

 修学旅行に行けなかった亮ちゃんに携帯で撮った写真を見せながら話をした。亮ちゃんは私の携帯を覗き込むからお互いの顔が近くてドキドキした。亮ちゃんの色素の薄い明るい髪が私の顔に当たりそうになるたびに心臓が跳ね上がった。亮ちゃんは気にしないのかな、そんなことがちらっと頭をよぎった時、少し冷えた声がした。

「これ、何」
「え、あ、これ班のみんなで撮っただけだけど…」

 班は男子三人女子三人の六人で、六人で記念に撮った写真だった。特に気になることはないはずだった。班はクラスで決めているから同じクラスの亮ちゃんだって知っている子ばかりだし。もし、唯一亮ちゃんが気になったとしたのなら、私の隣の男子が調子に乗って私の頭の上にひじをついているくらい。まさか、と思った。嫉妬なんて亮ちゃんがすると思えなかったから。

 けれど亮ちゃんはそれを見たあと少し不機嫌で、私は不機嫌な亮ちゃんをどうとりなしたらいいのかわからなくておろおろしてしまう反面、ヤキモチをやいてくれた亮ちゃんが可愛くて嬉しかった。

「ヤキモチ、とか」
「…あたりまえじゃん。オレ行けなかったし」

 小さな声で早口で。ぶすっとしたまま向こうを向いてしまった亮ちゃんが可愛すぎて思わず顔がにやけてしまった。

「何笑ってんだよ」
「ごめん、だってちょっと意外」

 だってこんなに私は亮ちゃんのことが好きなんだし、それは亮ちゃんもちゃんと知ってくれていると思ってる。逆に亮ちゃんの気持ちだって疑ったことなんてない。それくらい、要するにバカップルだったと思うから。意地悪で照れ屋だから人前でいちゃいちゃすることはなかったけど、それを不満や不安に思うようなことはなかった。たぶんそれは亮ちゃんの気遣いがちゃんとあったからだと思う。

「じゃあ、これ、オレと他の女子でも平気なの」
「ダメ!!」
「即答じゃん」

 亮ちゃんは私の答えに満足したのか嬉しそうに笑った。そんなの当たり前じゃない。

「ごめん。でも、ほんとは触ってほしいの亮ちゃんだけだから」

 本音がポロリと零れ落ちる。そう、もっと触ってくれてもいいのにって思ってた。でも亮ちゃんはほんとに照れ屋だ。そう見せないように意地悪言ったりするけど、それが照れ隠しだってことくらいもうこの時にはお見通しだった。

 亮ちゃんの腕が私の肩に回って引き寄せられた。顔が近づいてきて、キスするんだと思った。でも亮ちゃんの目が開いてるのかつぶっているのかわからなくて、瞬きもできずにいたら、おでこにおでこをくっつけられた。

「ちょっとガン見しすぎ」
「…ごめん、だって亮ちゃんの目が開いてるのかつぶってるのかわかんないんだもん」
「ケンカ売ったね?」
「ごめんなさい」

 亮ちゃんにケンカ売ったねって言われたらすぐに謝るべし。それが私が培った経験からの教訓だ。

「じゃあ、目つぶって」

 それってキスしますよって宣言だよね。亮ちゃんは気づいてないっぽいけど。言われた通りに目をつぶった。息を大きく吸って備えた。私の肩をつかんだ亮ちゃんの手に力が入ったのに気付いた。目をつぶると空気で亮ちゃんが緊張してるのもわかった。亮ちゃんも初めてだもんね。ちゃんとできるのかな、なんて考えが頭をよぎって、初めてキスするって時に何考えてるんだろうって自分を心の中で叱った。

 そっと触った、そんな感じのキスはあっけなく終わった。それでも私の心臓は驚くほど早くて、目を開けても亮ちゃんの顔を見ることができなかった。

「ごめん、もう一回」

 予想外の亮ちゃんの言葉に顔を上げると同時にくちびるがふさがれた。さっきよりももう少ししっかりと。掴まれた肩は少し痛いくらいで、亮ちゃんの緊張が伝わった。くちびるが離れると同時に肩への力もなくなって、私も力が抜けた。力が抜けたと思って初めて力が入っていたことにも気づいた。

 そのあと、なんとなく二人してキスした余韻に惚けていて、それに気づいて二人で顔を見合わせるとおかしくなって笑ってしまった。亮ちゃんと私は初めてのキスの後もお腹が痛くなるほど笑っていた。







 亮ちゃんの手は野球の手だから。いつもマメだらけで痛々しくて。爪を短くした後も手をつなぎたいと思っても、痛いんじゃないかなって思ってしまってた。実際、何かを持つ時に痛そうな顔をしたことが何回もあった。そういうことに気づいてしまうと、その手に私は手を伸ばせなかった。

 だからいつも亮ちゃんの制服の袖口をつまんでた。亮ちゃんの制服の袖は私にとってとても大事なものだった。袖のない夏場はシャツのわき腹辺りを少し、冬もセーターの袖口とか背中とか。ちょっとつまむと亮ちゃんはちらっと私を見てふっと笑う。その時の亮ちゃんの空気が優しいから、いつだって幸せな気持ちになれた。

 私の高校最後のお願いに亮ちゃんは、くすっと笑って手を出してくれた。ちらりと亮ちゃんの手を見る。部活を引退した今も野球を続けるためにまた新しいマメができている。強いなって思う。

 亮ちゃんの右手に自分の左手を差し出した。亮ちゃんは包み込むように私の手を握って、左手も出してきた。向かい合って私も右手を出す。両手をつないで見つめ合った。

「オレさ、葉子が袖口ひっぱるの好きだったよ。すげーかわいいっていつも思ってた」

 おかげでセーターは伸びちゃったけどねと笑う。ごめんって言うときゅっと手に力をこめられた。

「オレの手汚いじゃん。だから直に触るのすげー怖くて」
「汚くなんてないのに…そんなこと思ってたんだ」
「ガサガサでマメだらけで、葉子のキレイな手に傷つけたらヤダなって」

 ただの照れだと思ってた。そんなことを考えてたなんて知りもしなくて。

「私も亮ちゃんの手を傷つけたくなかったから」
「知ってる。爪短くしたよね」

 そう言って手を握ったまま親指でゆっくりと私の手の甲をなでる。肌寒い空気が心地よくなってくるほど体も心も温かくなっていく。

「もう離さないけど、いいよね」

 物理的な意味だけじゃないことは私にもすぐにわかった。当たり前じゃない。うんと笑顔で頷いたつもりだったのに、なぜか涙がこぼれた。

「ほんと葉子はよく泣くし、よく笑うよね」

 亮ちゃんはブレザーの袖からシャツの袖を引っ張り出すと、その袖で私の涙をふいた。それはまるで、あの日と同じように。
 

 
20160307卒業の日企画提出作品


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