夢 | ナノ

御幸一也


パッチ―ンといい音がした。

彼女は自分の手がオレの頬にきれいに当たったことに、驚いたのか少しひるんだように見えた。

避けるか止めるか、オレがすると思っていたのだろう。実際そうすることはできた。けれどオレはあえて避けなかった。

「えっと、これで満足した?」

間違いなく赤くなったであろう頬に手をやって、そう言う。少し笑ってしまったのは、彼女をバカにしたのではなく、思っていたよりも痛かったせいだ。

その笑みが彼女をさらに怒らせたらしい。オレをキッとにらんだ。

「最低! こっちから別れてあげる!」

気品さえ漂わせる気の強さが魅力だった彼女は、やはり最後まで自分らしさを見失わなかった。そんな彼女のことを、それなりに好きだったオレにとって、その最後の態度は、後味の悪くなりそうな別れをほんの少しだけ救ってくれたような気がした。



呼び出された店に行くと、オレが何も言わないまにも、こちらです、と店員が先を歩きだした。オレが誰かわかっているらしい。通された個室にはすでに、オレを呼び出した張本人、クリス先輩が座っていた。

「ちっす」
「悪かったな、急に呼び出して」

いえ、全然と首をふって、クリス先輩の前に座る。

落ち着いたおしゃれな居酒屋といった風情だ。それなりに混んでいるんだろうが、通された個室は奥まっていて、あまり喧騒を感じない。

「いい店っすね」
「親父の元チームメイトが経営しているんだ。だから、安心していいぞ」

珍しく意地悪くクリス先輩は笑って、ポンっとスポーツ新聞をテーブルの上に投げ出した。

そのスポーツ新聞にはオレとオレの元彼女が破局の文字を背に写っている。

「なかなか似合いだと思ってたけどな」
「まぁ、それは、いろいろ」

クリス先輩の言葉に苦笑いで返す。ちょうど注文を取りにさっきの店員がやってきた。

「ビールでいいっすか」

オレではなくクリス先輩に聞く。クリス先輩は頷いて、オレを見た。オレも同じでと答えて、手渡されたおしぼりで手をふいた。

「つまみは適当に持ってきてくれ」
「了解っす」

知り合いの店ということで気安さがあるのだろう。店員もクリス先輩に対してフランクだ。

「うちじゃ、こういうのバレないっすから。これからご贔屓に」
「二岡」

店員がスポーツ新聞を示してオレにニヤリと笑うとクリス先輩がたしなめた。それに首をすくめて、二岡と呼ばれた店員が出ていく。扉が閉まるのをみやって、クリス先輩は悪いなと苦笑した。

「大学の後輩なんだ。あれでも口は堅いから」

そこで一区切りすると、やはりスポーツ新聞を示してニヤリと笑った。

「安心してここ使っていいぞ」
「クリス先輩までやめてくださいよ。鳴なんか礼の電話まで寄越すし」
「礼?」
「ほら、シーズン中に入籍してたって、妊娠してるって叩かれてたじゃないっすか。オレのおかげで矛先が変わったってサンキューなんて軽く言ってくれましたよ」

やや大げさにため息をつく。

今や、鳴は高卒同期でも出世頭だ。投手というポジションがら高卒でも結果を出しやすかったのと、球団がうまく鳴のコンディションをコントロールしているからだ。それに加えて、あんな性格のくせに投球に対してだけは妥協しない。だからこそ努力した結果が表れているのだろう。

「来シーズンからクリス先輩とバッテリーっすね」
「そう簡単にポジション取れるとは思ってないがな」

クリス先輩のリハビリは結局大学二年まで続いた。我慢に我慢を重ねてきたかいがあって、大学三年から大学リーグで活躍し、そのまま社会人となった。社会人の2シーズンを終えて、今年のドラフトで鳴の所属するチームが獲得したのだ。

「今から楽しみですよ。クリス先輩が鳴をどう扱うか」
「やりがいがありすぎそうなタイプだけどな」

残念ながら、オレのチームとはリーグが違う。けれど、ずっと憧れていた先輩とついに同じ土俵で戦える。こんなにうれしいことはない。

しばらく世間話をしている間にビールとつまみがテーブルに所せましと並べられる。一気に持ってきて、一気に置いていく。きっと話の邪魔はしないようにクリス先輩から言われているのかもしれない。

「で、何の用なんすか?」

まさか、ゴシップの話を聞きたいわけでもないだろうに。

「あぁ、来たら話すよ」
「…誰か来るんすか」

その流れにピンときた。

「悪いっすけど、女はナシっすよ」
「シーズンオフに女っ気なしはさみしくないか」
「いや、オレの立場、知らないわけじゃないでしょ」

今季やっと、1軍に上がれたところだ。とはいえ、スタメンではない。捕手というポジションを考えれば、それでも高卒5年目でここまでこれたのは順調といっていい。だからといって、あぐらをかいていられるわけもない。

正直、野球にさく時間がもっとほしい。

「別れたのもその辺が理由か」
「まぁ、相手が6歳も年上だったのが失敗でしたかね」

6歳年上の元彼女は付き合い始めこそよかった。年上で気が強い。仕事もアナウンサーで自立している。いい大人の関係を築いていると思っていたのだが、そんなキャリアウーマンの彼女でも30歳目前ともなると結婚という文字がちらついたようだ。

残念ながらオレは鳴とは違って、結婚に夢は持っていない。子供もそんなに早く欲しいとも思わない。

「現役の姿、覚えててほしくないの?」

とは、鳴の言葉だ。

早い結婚に鳴らしくないんじゃないかなんて思ったけれど、その言葉に鳴らしいと思いなおした。結婚も子供も自分の野球人生を基準に考えてるってことだ。

「しばらく女はいいってことだな」
「そうすっね」
「それは好都合だ」

クリス先輩のしたり顔に嫌な予感がする。

「御幸、オレの妹と付き合わないか」
「…は?」

予想もしなかったクリス先輩の言葉にオレの思考は一瞬止まった。

ちょうどその時、個室の扉が無遠慮にあけられた。二岡があー、ダメっすよーなんて言うのを完全に無視して、扉を開けた人物はあっさりと個室に入って、ビールね、と笑うと二岡の鼻先で扉を閉めた。

「意外に早かったな」
「つけられたくなかったから、猛ダッシュしたもん」

クリス先輩が女だったらこんな感じだろうと思うわせる女性がそこにいた。

オレの視線に気づいて、ちらりと目線を合わせる。

「初めまして、クリスの妹のアニスです」
「あ、どうも。御幸一也です」

それがオレとアニスとの初対面。



その部屋に入って、愕然とする。

「きったねぇな〜」
「週末にまとめて掃除するから、仕方ないの」
「週末ってまだ今日火曜だぜ」

その日会ったばかりの、しかもクリス先輩の妹の、一人暮らしをする部屋へ、こんな夜遅くに、そんなごく一般的な本能を抑えるための理性は全くもって必要なかった。

こんな汚ねぇ部屋じゃ、その気にならねぇわ。

上がることにも躊躇なく上がり込む。すぐに手近なところから片づけ始めた。

「ちょっと、一也、何すんの」
「何って掃除にきまってんだろ。ゴミ袋出せ。あと掃除機も」
「ルンちゃんならそこで瀕死」

そう言ってアニスが指さした先を見ると、自動掃除機が何かを巻き込んだまま、止まっている。瀕死っていうよりも息絶えているようにオレには見えた。

「自動掃除機ってさー、掃除できる環境を作らないと役に立たないんだよね」
「作れ!それくらい!」
「てか、自動掃除機を使えるようにするための自動片づけ機が一番必要だと思うんだよね。やー、ハードル高いわ」

あはは、なんて笑うアニスに脱力する。

クリス先輩に似た顔立ちは、かなりの美人といっていい。長身で手足が長いスタイルはまるでモデルのようだ。なのに、なんだこの女子力のなさは。

「あ、ねぇ、ゴミなんだけどさ、一也のマンションで捨ててくれない?」

その一言に事態の深刻さが見えた。

「漁られたことあんの」
「うん。明細書とか見られたみたい。今は全部シュレッダーにかけてるけど、それでも、ね」

ゴミを漁るほどのストーカーならシュレッダーにかけたものを、つなげるくらいの執念はありそうだ。

クリス先輩がオレにアニスと付き合わないかと持ち掛けたのは、ストーカーの存在があったからだ。

そのストーカーはあろうことか会社の上司らしい。けれど、一切接触はしてこない。警察に相談できるほどの被害らしい被害もない。被害妄想だと言われればそこまでのものらしい。

でも、見られている、つけられている、そう感じるらしい。

なぜオレなのかと聞けば、有名人であることが抑止力になるんじゃないかと、クリス先輩は言う。有名人の彼女ともなれば些細なことも話題になるかもしれない。ここまで執拗に執念深くまた慎重なストーカーには、そういう力が効くんじゃないかと考えたらしい。

ま、そういうわけで、お付き合いを始めた、という、ふりをすることになった。あくまで、ふり、だ。

クリス先輩はあくまでふりだぞと、オレの腹に拳をしっかり当てて笑った。いや、目は笑ってなかった。

「しっかし、クリス先輩にオレと同じ年の妹がいるなんて知らなかったわ」
「高校のときは絶対、寮には近づくなって言われてたもん。獣しかいないからって」
「それは、それは…」

徹底してるな。けっこなシスコンだ。

「試合も1年の時の予選しか見てないしね」
「そっか」

ずっとケガのリハビリしていたクリス先輩は、ほぼ公式試合に出ていない。となれば見に来る機会もなかったわけだ。

「ところで、一也」

部屋を片付けながらお互いのことを話合う。一応、恋人になった立場なわけで。

「なんで女子アナと別れたの」
「…それ聞くか」
「一応、元カノのこと知ってないと」
「いや、普通元カノのことは聞きたくないだろ」
「それもそうか」
「つーか、さぼんな。それ、片づけたって言わねぇ。横に積んだだけだろ」

適当にすませようとするアニスに話をそらすついでに指摘する。

「あー、やだ、細かい男。私、絶対、一也とは結婚しない」
「オレも願い下げ」
「ちょっと、聞き捨てならないんだけど!」

怒り出すアニスに何でだよと正面から反論する。自分から先にオレとは結婚しないと言ったくせに。

「こんな美人そうそういないよ?」
「確かに、こんだけ汚部屋美人はそういないな」

オレの嫌味にくちびるをかみしめるとキッとにらむ。あ、やべぇ。そういう気の強さオレの好みなんだよな。

「やればできるし」
「じゃあ、やれよ」

やってやればいいんでしょと、まるで増子さんのようにうがーと叫ぶと腕まくりする。マジでしゃべならなければ美人なのにな。けれど飾り気のない性格は好感がもてる。

あ、あとこの汚部屋も知らなきゃな。

意外にも「お付き合いするふり」が楽しくなりそうで、オレは深夜の片づけを楽しんだ。アニスは文句たらたらだったけど。それもなかなか、可愛いもんだ。

あぁ、でも。15分おきにメールと電話を交互にしてくるクリス先輩は、なんとかなんねぇのかな。




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鳴マトとリンクしてます。




20141021


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