成宮鳴
スーツ姿の鳴が、右腕に生後6か月になる子供を抱いて私を待っている。子供は鳴のネクタイに手を伸ばし、無理に体を動かしてついにネクタイを掴んだ。
「あー、止めてよ。ネクタイ!」
「いいじゃん、ネクタイくらい」
鳴は子供かわいさか、なー、なんて子供に満面の笑みをみせる。子供はその顔には見向きもせずにネクタイと格闘している。
「それより、早く用意してよ。もう福ちゃん来るよ」
「わかってる!」
女の用意は時間がかかるなー、なんて子供にぶつくさと言っているのを後ろで聞きながら、私は支度を整える。だって、しょうがないじゃない。鳴の支度を手伝って、子供の支度をして、それから自分のことなんだから。子供が生まれたって、鳴の世話はなくならないし。子供と好き勝手する分、倍以上に手がかかるようになった気がする。
それでも、そんな私の不満は鳴と子供がにこにことしている姿を見て、すっとどこかになくなっていくから不思議だ。
子供はまだ鳴のネクタイにご執心で、ついにスーツから引っ張り出した。ネクタイの先を口にいれて、はむはむと口で確かめる。
あーあ。よだれが…。
今、よだれ真っ盛りなのだ。手も顔もべたべただ。汚いなんて思ってないけど、しめっちゃうのはいかがなものか。
「ねー、スタイは?!」
「つけてるでしょー?」
「もうべったべた。新しいの出して」
はいはい。結局こうして私は自分の支度を中断させられて、鳴のご要望通り、新しく子供のスタイを持っていく。あ、もう2枚くらい予備で出しておこう。
鳴はスタイを交換せずに、新しいスタイで子供の顔をぬぐう。そりゃあ、ごしごしと。拭かれた子供は嫌がっているけど、そこは気にしない。鼻が赤くなるほどこすって鳴はヨシとご満悦だ。鳴は育児しましたって気持ちなんだろうけど…雑だわ。だいたい交換しないなら、タオルでいいんじゃないの。
鳴の携帯が着信を知らせる。
「福ちゃん来たよ」
「はーい」
「荷物これ?」
ソファにおいてある、今流行りの北欧ブランドのマザーズバッグを鳴は左手でつかんだ。バッグはお義姉さんからのプレゼントで、ありがたく使わせてもらっている。おむつにスタイに着替えに、麦茶を入れたマグにおしりふきにと何でも入る。さすがマザーズバッグというだけある。
「うん、それ」
「持ってくよー」
右腕に子供を、左手に大きな花柄のマザーズバッグを手にしてスーツ姿の鳴は玄関へとむかう。何だか一端のイクメンみたいだ。
私も手早く支度を整えて、すぐに玄関へとむかう。と、その前に一度寝室に戻って、鳴のネクタイを一つもってきた。たぶん変えないとダメになるだろうし。
外では福ちゃんがワゴン車を止めて待っていてくれた。鳴は後部座席のチャイルドシートに子供を乗せようとして、苦戦している。子供がネクタイを離さないのだ。ネクタイを取り上げると、ぐずるので、仕方なく、鳴はチャイルドシートの隣にそのまま乗り込んだ。子供はネクタイをご機嫌ではむはむしている。
「ネクタイ外せば?」
「いーよ、これで」
それはそれで幸せなんだろう。鳴は自分に見向きもせずにネクタイにだけご執心の子供のぷっくりとした頬をつついてる。
結婚してよかったなぁとしみじみと思う。
結婚をするとき、私たちは世間から少しばかりバッシングをうけた。計算が合わない、いわゆるでき婚だと。結婚を発表したのはシーズンが終わってからだったから、どうしてもそうなってしまったけど、実は籍はシーズン中に入れてしまっていたのだ。だから、式だけ後回しという形だったのだけど、世間はそう受け取ってくれなかった。しかもでき婚じゃないとわかった後も、シーズン中に籍を入れるなんて、とバッシングだ。私の父が病気で長くないとわかっていたので、籍だけ早く入れた。でもそんな事実は世間にはどうでもいいことで、バッシングは止まなかった。私はただひたすらバッシングに耐えた。
鳴はその時の球団の対応が気に入らなくて、資金を出して自分でマネジメント会社を設立した。社長には福ちゃんを、他のスタッフも稲実のチームメイトで、野球で身を立ててない人たちで固めた。たぶん、鳴なりに私と子供を守る手段だったのだろう。福ちゃんはマネジメント能力に長けていて、今、何も問題はない。
そして、鳴はヒーローインタビューのたびに「家族ができたから」「家族が増えたから」と自分のいい結果に対しては必ずそう答えてくれた。そのおかげで今は嘘のように私はアゲマン扱いだ。
私も後部座席に乗り込んだ。ちょっと狭いけど、鳴のそばにいたい。ちょこっとだけ寄り添うと、子供の方を向きっぱなしだった鳴がこちらをむいた。
福ちゃんの目を盗むように、ちゅっと私にキスをすると、鳴はにんまりと笑う。耳元にくちびるをよせてきて、ささやいた。
「どうせホテル行くんだし、今日は泊まって、いちゃいちゃしてく?」
「無駄遣い」
そう言うと、ちぇーっとくちびるをとがらせた。
「あーもー、なんで樹ごときの結婚式に行かなきゃいけないかなー」
八つ当たりのように愚痴りだす。しょうがないから私も鳴の耳にくちびるをよせた。私のささやいた言葉に鳴はぱあっと顔を輝かせた。
―家でもいちゃいちゃできるでしょ。
だって、私たち家族なんだもん。
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鳴マトリョーシカの長男がまだ赤ちゃんのときのお話。
初出20140808 ブログより転載