えがいて
美術の授業が終わって、友達と美術室を出ようとしたとき、なぜか美術の先生に呼び止められた。
「花沢〜。成宮に課題ちゃんとするように言ってくれ」
「…先生。本人に言ってください」
「言っても聞かないから頼んでるんだろ」
先生は大きくため息をついた。
「このまんまじゃ、前期の成績つけてやれないからな〜」
困ってるんだよと、もう一つため息。つられて私もため息が出る。いつのまにか野球部の外でも私は成宮の世話係の位置づけらしい。
野球部員のほとんどはスポーツ推薦で入学しているため、学力は期待できない。それでも規定の単位を取らせるのに先生たちはいろいろと工夫してくれている。数学や英語なんかはとにかくプリントの枚数だけでかせいでいたり、保健体育のレポートなんて試合の感想でいいなんてこともある。そんな中、選択芸術なんて出席して授業中に課題を仕上げるだけで大丈夫なはずなのに。
何してるんだか。
「とにかく、予選始まるまでにはなんとかしてくれ、なっ」
私を拝むような先生に同情を禁じ得ない。特に美術の先生は野球が好きで野球部員に甘いだけになおさらだ。仕方なく私は昼休みになると成宮を探しに食堂に向かった。
まだ梅雨が明けていないせいで、風通しが元々良くない食堂はむわっと嫌な空気がまとわりついくる。料理のにおいも混ざるからなおさらだ。そんなうっとうしい空間の中、体格のいい何人かの生徒たちが座っているテーブルに目をやる。寮生は昼食もメニューが決められて用意されている。親への配慮か寮費から賄われるようになっているらしい。そのため、寮生は用意されている席につくため、いつも学年ごとにまとまっている。もちろんそこから自分の分をもって、他の生徒と一緒に食べるために席を動く寮生もいるが、成宮はいつものように神谷や白河たちと座っていた。
「葉子さん」
私を目ざとく見つけて、成宮が満面の笑みを浮かべる。挙げた左手に持たれた箸からぴっとご飯粒が、前に座っている矢部の顔に飛ぶ。
「げっ、汚ねぇ。てめぇ鳴っ。食うときは」
「葉子さん、ここ、座る? 座る?」
矢部をきれいに無視して、成宮は自分の隣の席を指す。頭を抱える矢部を白河がブツブツとなだめてる。私は矢部の後ろに立ったまま腕を組んだ。
「成宮、美術の課題ができてないって聞いたんだけど」
「あー。美術ね〜。だってテーマがさ〜」
「だって、じゃないの。ほら、早く食べて」
「え、まさか今から〜。ヤダ、ヤダ。まだ食ってるし」
成宮は全然箸を動かさずに、のけぞるようにして首をふる。普段ならこのくらいの駄々はかわいいと思えるけれど、今回はそうはいかない。なにしろ成績が関わっているのだから。練習に影響がないようにするには昼休みを使うしかないし。今日の昼休みだけでできあがるとは到底思えないし。心を鬼してなんとしても早いうちに成宮に課題をさせないと。どう上手く言ってさせようかと考え出したとき、神谷と目があった。
「あれ、葉子さん、まだなんスか?」
神谷が私の持っているランチバッグを指さした。成宮がえって顔をする。その顔に上手く成宮を美術室に連れていく方法を思いついた。
「美術室で食べようと思って」
ランチバッグを掲げて言うと、成宮が急に姿勢を正してご飯をかきこみ出した。
「ほういうことはふぁやくいってほね」
「何言ってんのかわかんねーよ」
口いっぱいに頬張る成宮に神谷は苦笑すると、ちらりと私に目をむけて軽くウィンクをした。神谷の機転には助かったけど、ウィンクはいらない。
「じゃ、先に美術室行ってるね」
「えー! 待って、待って。片づけてくるから」
そう言うと成宮は最後の一口を口に詰め込んで、トレーを手にして返却口に急いで向かう。わがままな王様エースも寮生活で最低限の躾はされている。洗い場の近くにいる食堂のスタッフにごちそーさまーと大きく手をふるその姿がかわいくて顔がゆるんだ。
「なんだかんだで葉子さんは鳴に甘すぎる」
白河のつぶやきが聞こえて、顔を引き締めた。いけないいけない。部活外だと思っている以上に成宮がかわいすぎて気がゆるんでしまった。
「あんたたちがちゃんと成宮を見ててくれたら、私が出る幕ないのに」
ちょっと八つ当たりめいて言うと、神谷は大きく肩をすくめて、矢部はいや〜と苦笑いする。白河は涼しい顔で、今更あの性格は矯正できないと鼻で笑った。その言い分に神谷も矢部も私も笑った。正論すぎて笑うしかない。
「何、笑ってんの」
「何でもない。行くよ」
「オレだけ除け者?!」
ぷんすかする成宮を促して食堂を出た。校舎に向かう途中で、成宮がランチバッグを私の手から取った。
「葉子さんが作ってんの?」
「まさか」
残念ながら、そこまで女子力を発揮できる暇はない。野球部員たちとは違って、マネージャーは通いだ。完全下校の7時まで練習に出て、帰ったら8時前。内部進学予定だけど、成績順で行きたい学部が選べるから、ある程度の成績は維持したい。朝練は出なくてもいいけど、大会前は雑用が増えるから少し早目に学校に来ている。正直、お弁当作るなんて無理だ。
「ふーん。葉子さんがお弁当作ってくれたら、毎日美術室で頑張るのになー」
「うちのお母さん、成宮のファンだし言ったら作るかもよ」
「へへっ、オレって人気者だよね」
父母会での成宮の人気は絶大だ。その分期待も大きい。
「美術の先生も成宮のこと応援してくれてるんだから、ちゃんと課題してあげて」
ほーい、なんて気のない返事をしながら、成宮は美術室の中に入っていく。続いて私も入って、いつもの席につこうとして気がついた。べつにいつもの席につく必要なんてないってことに。けれど、成宮もきっと、無意識にいつもの自分の席についている。美術室では大きな机の四方に二人ずつ、合計8人座れるようになっている。窓際の机の窓を向いて成宮は座った。そこがいつもの席なんだなと思って、少し嬉しかった。教室での成宮のことは何も知らないから。そんな些細なことがうれしい。
成宮は自分の隣にランチバッグを置いた。それを横目に準備室に向かう。棚はクラスごとに分けられていて、成宮のクラスを探す。成宮のクラスどころか成宮の棚はすぐにわかった。―――白紙だったからだ。
「ちょっと、どういうこと」
さすがに全く手をつけてないとは思っていなかった。白紙の画用紙を成宮の目の前に置いて横に座った。成宮は口をとがらして、こっちを見ない。
「だからさ、テーマが嫌なんだよね」
「嫌だから描かないってわけにいかないでしょ。テーマって何なの?」
私も去年描いているはずだけど、そんなに描く気になれないようなテーマなんて覚えがない。
「夢」
成宮はまっすぐに窓の方をむいたままだ。その目は外に向けられている。どんよりとした空からまた雨が降ってきていた。しばらくすっきりと練習できてない。それも成宮の駄々の一因だろう。
「あ、夢か。そういえば描いた」
「去年?」
うんと頷く。そんなに深く考えずに描いた。成宮にしてみれば夢なんて描きやすそうだけど。
「甲子園でも描けばいいのに」
「えー、ヤダよ。そんなの予定じゃん。スケジュールじゃん」
「…はいはい。じゃあ、プロ…も予定か」
私の言葉に成宮はねーっと私を見て笑う。腹が立つほどかわいくて思考が止まりそうになる。
「葉子さんは? 何描いたの」
「え…と」
言いたくないわけじゃないけれど、成宮に言うのは少し恥ずかしい気持ちもある。言いよどむ私にねぇ、ねえと寄ってくる成宮に、成宮のかわいさに根負けした。
「シアトル」
「マリナーズ?」
さすが、察しがいい。普通にシアトルだけなら何それって感じだろうけれど、野球が好きな人間にはシアトル=マリナーズだ。
「まぁ、単に球場描いただけだけど。いつか観に行きたいなって」
ラリーフライの観客とかマリナーズのマークとか描いたから野球好きの美術の先生からほんとはBだけどなーとB+をもらったのだ。
「ふーん」
もう少し何か反応するかと思ったのに、成宮は意外にも黙って白紙の画用紙に目をやった。成宮にはメジャーも予定のうちなんだろう。
何か考え出したらしい成宮を横目にお弁当をひろげる。いい加減食べないと時間がなくなってしまう。美術室のにおいはあんまり食欲わかないけれど、成宮が静かになったのをいいことに食べ始めることにした。
「決めた」
しばらく黙っていた成宮はそう言って、いつもの得意満面の顔を向けた。
「オレが葉子さんをシアトルに連れてってあげる」
「それって、成宮の試合を見に行くってこと?」
「きまってんじゃーん」
私のあの絵にはピッチャーは描いてはいないけれど、成宮がピッチャーだったらいいなと思って描いたものだ。だから、心を読まれたようでちょっと恥ずかしくなった。
マリナーズは単純に私の趣味だけど、成宮にはマリナーズに限らずメジャーという可能性は、はるか手の届かない夢ではないはずたから。
「あれだよ、家族席。葉子さんは奥さんの席ね」
「えっ」
食べようとしていたプチトマトが箸から転げ落ちた。その行方を目で追うことすらできない。
「…誰の」
「オレのにきまってんじゃーん。他に誰と結婚する気なの。信じらんない」
あまりの成宮の言葉にさすがに驚いた。信じられないのはこっちのセリフだ。動くことすらできない私の代わりに成宮は落ちたプチトマトを拾ってくれた。
「あー、でもこれも予定か。夢じゃないなー」
うーん、どうしよーかなーなんて大きく伸びをする。全く、いつもの冗談にしたって、心臓に悪い。ドキドキする鼓動とは別に頭のすみはとても冷静だ。こんなこと言うのは私のことを何とも思っていないからこそだと。けっこういいように扱える先輩マネ、それが成宮からの私なんだってことは重々承知している。
いつだって、成宮は「葉子さんはオレのこと好きだよね」って見透かしたように笑うのだから。
まるで自分の方が懐いているように見せかけて、上手く私を手のひらでころがしている。それもきっと無意識に。そして私もわかっていてもそれにのっかてしまうのは、そんな関係性でも成宮と関わりたいからだ。
メジャーという舞台が大きすぎる話だとしても、すでに成宮は高校野球では知られた存在だ。まだ予選は始まってないけれど、この夏にさらに注目をあびるのはわかりきっている。いずれは違う世界の人だと思い知らされる日がくるだろう。その日にはきっと、成宮に似合った人が隣にいて、支えているはずだ。
だから、今だけ。いつかくるその日のダメージが大きくなるとわかっていても、今だけは、隣にいたい。
「ねー、葉子さん、どーしよー」
間延びした口調には全く危機感の欠けらもない。今は私の感傷よりも成宮の成績が優先事項だと言い聞かせる。
「成宮も、シアトル描いてよ。同じだし」
描かせるための方便のようで、少しの本音。成宮は乗り気じゃないのかうーんとうなる。
「シアトルで私が…あ、先生もスタンドで応援しててっていうのでいいんじゃない」
「…うん。まぁ、それならいいかな。葉子さんだけなら予定だもんね。あ、ついでに樹とかもいれてやろ」
あくまで、さっきの家族席的な話にこだわっているように見せかけて、ただ描きたくないだけなんだろうけど、いつまでも描かないわけにいはいかないと成宮だってわかっているはずだ。うまく落としどころをみつけた感じだ。
じゃあ、描こうかとなったところで予鈴が鳴った。
「結局、何にも進まなかったじゃん」
「いーじゃん、明日も昼休みね」
ため息をつく私に悪びれもなく成宮は笑う。じゃあねーと手を振って、美術室を出ていく成宮の背中を見送った。
窓の外は本降りになっている。残された私は白紙の画用紙を片づけながら、今日の雨天用の練習メニューを思い出そうとする。けれど、あの成宮の言葉と笑顔がそれを邪魔する。
晴天のスタジアムで、期待を背負って投げる成宮に、私じゃない誰かを思い描いて、未来を思うこの切なさを恋だと思うことすらあきらめた。
20140606