マワリミチロマンス
「何やってんだ」
頭上から聞き覚えのある声がした。見上げると西日を綺麗に浴びた伊佐敷くんがいた。伊佐敷くんは眩しいのか、目を細めて両手をポケットに入れたまま、野球部のスポーツバッグを額にかけている。何でそんな変な持ち方するんだろう。首でも鍛えてるのかな。
「何って…ちょっと落ちてみた」
学校帰り、うっかり自転車ごと土手から落ちてしまったのだった。特別何かあったわけではない。まぁ、一度も落ちたことないんだから、一回くらいは落ちてみるのも一興ということで。
へらっと笑うと、伊佐敷くんは鼻で笑って、バッグを地面に下ろすと私のところにまで土手をすべり降りてきた。
「いつもここ通ってんじゃねぇのかよ」
「うん、そうだよ」
「神経死んでんじゃね?」
伊佐敷くんはバカにしたように笑うと、ひっくりかえっている自転車をひょいと抱えあげた。そして楽々と土手を登っていく。あわてて、自分のバッグを拾い上げてその後を追う。
ありがとう、と言わなくてはいけないんだろうけれど、バカにされたことが悔しくて素直に言うことができない。伊佐敷くんは気にするそぶりも見せずに、ガシャンと乱暴に地面に自転車を置く。乱暴に扱わないでと言いたいところだけれど、それを言う資格は今の私にはない。
「花沢の家って、哲ん家の近所だったよな」
「うん。二筋北に上がったとこ」
結城くんとは中学も一緒だった。ちょうど校区の境目で小学校は一緒ではなかったけれど。なので、近所とはいってもそんなに親しくはない。もちろん、全く知らないってわけでもないけれど。
伊佐敷くんはしゃがんで自転車の状態をチェックしている。
「ここ歪んでんな」
「…乗らない方がいいかな」
「たぶんな」
伊佐敷くんは試しに自転車のスタンドを外して少し引いた。するとギィと嫌な音がした。スタンドを立てると伊佐敷くんはまた自転車をひょいと抱えた。
「オレのかばん、持てよ」
「えっ」
「自転車押せねぇんだからしょうがねぇだろ。哲ん家に行くついでだからよ」
そして私の返事も待たずにスタスタと自転車を抱えて歩いていく。
「え、ちょっと、待って」
「とれぇな。そんなんだから落ちんだよ」
伊佐敷くんは少しだけ振り返ったけれど、カカカっと高笑いするだけで、止まってはくれなかった。
あわてて、伊佐敷くんのバッグを手にする。軽い。自分のバッグと伊佐敷くんのバッグを交差するように斜めがけして後を追う。
「すっごい軽いんだけど」
「あぁ、着替えしか入ってねぇもん」
「結城くんのとこに泊まるの?」
「明日昼まで休みだからな。ビデオ見んだよ」
「やらしーやつだ」
「それも込み」
「えぇ! 野球のビデオだって言い訳くらいするもんじゃないの?」
「だから、それも、込みっつったろ」
伊佐敷くんはちっとも悪びれずに笑う。あんまりにもストレートなものだから、ほんとは野球のビデオばっかりで、それがかえって恥ずかしいと思ってるんじゃないか、なんて深読みしてしまう。まあ、結城くんがその手のビデオを見るイメージがないことも手伝ってるんだけど…伊佐敷くんはこだわりをもって見そうだけどね。
だんだんと日が落ちていく。オレンジを背負っていた伊佐敷くんにいつのまにか薄く夜が落ちてきていた。
伊佐敷くんは淀みなく歩いていく。結城くんの家を何度も訪れているからだろう。
「おっ」
何かに気づいて伊佐敷くんは目を輝かせて、私を見た。
「100円シェイク買ってこいよ」
ほら、とあごでファーストフード店をさす。
「えー。何でよ〜」
「手間賃」
しれっと言い切られてしまってしぶしぶ店内に入った。ふと店の外を振り返る。伊佐敷くんは自転車を下ろして、伸びをしたり、肩を回したりしている。軽々持っているようには見えるけれど、実際長時間歩きながら持っているのだから疲れるのは当然だ。
しょうがない、奮発してさしあげましょうぞ。
何となく、ウキウキしながら私はシェイクを二つとポテトも一つテイクアウトした。
「バニラとストロベリーとどっちがいい?」
「バニラに決まってんだろ」
伊佐敷くんはストロベリーと聞いて鼻の穴をひろげた。反応が単純でおもしろい。
ストローをさしてから渡すと、気がきくもんだとバカにしたように笑う。
「ふふーん」
「何だよ、キモイ」
「おなかへってない?」
「へってる」
そう言うと伊佐敷くんは私の持っている袋に手を伸ばした。
「あ、ちょっと」
「もったいぶんな」
「もー、つまんないのー」
伊佐敷くんは奪った袋からポテトが出すと、にまっと笑った。
「ほら」
ひょいと私の前にポテトを差し出す。まさか、あーんってやつじゃないよね? 指でとろうとするとスイっと上によける。
「あ、何すんのよー」
「あーん」
意地悪な目をして伊佐敷くんはそう言った。
「キモイし!」
「ほら、あーん」
私の抗議をまるで無視して、バカにしたように伊佐敷くんは続ける。しぶしぶ口をあけると、バーカとポテトを鼻に突っ込まれた。
「何すんのよ!」
「おまえ、ほんとにとれぇ」
伊佐敷くんは大笑いしていた。私は恥ずかしさもあいまって、むっと口をつぐむ。ひとしきり笑った伊佐敷くんは、私が怒ってるのに気づいたらしい。
「わーるかったって」
そんな謝罪で許すもんかと思って、かたくなに俯いていた。しばらく静かだなと思ったら、トントンと肩を伊佐敷くんが叩いた。顔をあげると、ポテトを両方の鼻の穴につっこんだ伊佐敷くんがいて、思わず噴出してしまった。伊佐敷くんはしてやったりと笑う。
「いけてんだろ」
「さいてー」
「何でだよ」
「食べ物で遊んじゃだめなのにー」
「食えばいいんじゃん?」
「やー、やめて!」
「どのみち塩辛いのは一緒だしな」
ほんとうに口に入れようとする伊佐敷くんの手からポテトを奪うようにして取り上げた。袋にいれて、他のごみと一緒にゴミ箱に捨てる。
「伊佐敷くんってバカじゃない?」
「よく知ってんな」
伊佐敷くんは肩をすぼめた。そして、ズズーっと一気にシェイクを飲み干した。シェイクの入れ物を狙いをつけてゴミ箱に投げる。シェイクの大きさの一回りほど大きいだけのゴミ箱の入れ口に、それは当たり前のように入った。すごい!と目を輝かせて手を叩く私に、ほら行くぞと自転車を抱えて歩き出す。私もあわててシェイクを飲み干して、ゴミ箱に入れる。伊佐敷くんは私を待たずにどんどんと進んでいく。その背中を追いかけた。まったく、傍若無人にもほどがある。
交差点を渡って、伊佐敷くんは左へと進んだ。呼び止めるまもなく進んでいく。本当ならまっすぐに進んでから次の大きな交差点で曲がる方が正しい道だった。伊佐敷くんが進んだ方も間違いではないけれど、遠回りになってしまう。伊佐敷くんは結城くんの家にはいつもこのルートなんだろうか。
「ま、いいか」
「あん?」
「ううん、何でもない」
すでに街灯のあかりが灯りだしていた。伊佐敷くんの表情も見難くなってきていた。それでも会話はとまらなかった。さっきまでのはしゃぐようなやりとりではなくて、ほんとうに会話。
音楽何聞いてんの?あーアレ、いいよね。そうそう、アレがいいいんだよな。私はアレも好き。おー、いい趣味してんじゃん。何それ遠まわしに自分のこと誉めてんの?おー。バーカ。おまえアレ持ってる?持ってるよー。貸せ。それが頼む態度ですかー。すいません貸してください。高いよ。欲深ぇー。
こないだのアレさ、私はよくないと思ったんだけど。あー、あれな、オレもアレは好きくねぇ。だよね。辛気臭せぇんだよな。あはは、ほんと。でも難しいよね。しょうがねぇだろ、本人の問題なんだしよ。そうだけど、何かしてあげればよかったかな。…まぁ、今度あったら何かしてやればいいんじゃね?次なんてないほうがいいと思うけど。まぁなぁ。
アレ!アレね!そー、もうマジ笑ったって。私も思い出して夜一人で笑ったよ。うわキモっ。何よー。いや、オレもマジやばかった。歴史に残るよね。もう名前残したも同然だな。やー、そんなことで名前残したくないよね。何年たっても言われんだぜ。やだー。だっせー。でも笑える〜。
遠回りした分、私たちはたくさん話した。自分のことから学校のことから、うわさ話まで。そのどれもが心に響くのは、共感するところが多いからか、それとも相手が伊佐敷くんだからだろうか。
もうすぐで結城くんの家に着く。
「あーっと、ここからどう行きゃいいんだ?」
淀みなく歩いていた伊佐敷くんが結城くんの家の手前の十字路で足を止めた。
「あ、もう、ここでいいよ」
「あと少しだろ? 家まで運んでやるって、もう暗ぇし」
伊佐敷くんは家まで運ぶことを当たり前だといわんばかりだ。
「少しくらい自力で運ばないと…バチあたりそうだし」
「もうあたってるかもしんねぇぞ」
伊佐敷くんは笑った。
「え、何かあった?」
シェイクとポテトをおごらされたことくらいしか痛手はないだけど、まぁ、それだって微々たるものだ。私は伊佐敷くんの言う意味がわからなくて首をかしげる。
伊佐敷くんは自転車を下ろした。私から自分のバッグを取る。あ、バッグもたされたことがバチだっていう意味かな?でもそれだって、軽いものだったし…
「遠回り、だったろ」
伊佐敷くんはバッグを肩にかけると、両手をポケットに入れて、少し体をそらして私を見た。両肩をすぼめて、自嘲的に口の端をあげた。
「無駄に歩かせて悪かったな」
「…何で、何で?」
「あ?」
「何で遠回りしたの…」
「…おまえは何で遠回りだってわかってたのに、言わなかったんだよ」
質問を質問で返すなんてずるい。伊佐敷くんは、ただ私を見ている。
「た、楽しかったけど」
「オレも」
伊佐敷くんはまっすぐに私を見ている。たぶん、嘘をついたり、ごまかしたりしても見破られてしまう。それほどまっすぐに心まで射抜く。
「まだ、わかんない」
そう言うと伊佐敷くんは大きく空を仰いで、息を吐いた。
まだ、わからない。それは私の本音だった。楽しかったのも本当。もう少しこの時間が続いてくれてもいいと思ったことも本当。だけど、じゃあ、今すぐに「好き」と決め付けてはしまえなかった。
伊佐敷くんは笑っていた。てっきり伊佐敷くんは私のことが好きで遠回りしたのだと思ったから、私の答えに落胆したと思ったのに、うぬぼれたのかと恥ずかしくなる。
「おまえ、ほんと、とれぇよな」
目を細めて、私の頭に手を置く。優しく撫でるわけでも、乱暴にぐしゃぐしゃと髪をかきまわすわけでもない。ただ、軽く置いているだけ。それは今の私たちの曖昧な状態とよく似ている。私はこの手で、この手にいったいどうして欲しいんだろう。
「ま、そこがいいんだけどよ」
伊佐敷くんは私の頭に置いた手でぽんっと弾ませるようにして軽く叩く。
「じゃあな」
手を軽くあげると、結城くんの家の方へと道を渡っていく。一度も私を振り返ることもなく伊佐敷くんは行ってしまった。その背中は夜に吸い込まれていくようにすぐに見えなくなる。
重みのなくなった頭に寂しさを感じて、自分の手で触る。大きい手だった。あ、ポテト食べた手じゃないの? 鼻にポテトを突っ込んだ伊佐敷くんを思い出して顔がゆるんだ。
バカなやつ。
よいしょ、と自転車を抱えて、私は歩き出した。新しい未来の可能性を、また伊佐敷くんと並んで歩ける日、あの優しい目で、大きな手で私を撫でてくれる日がくることを、望んで。
20070510