春はやさしく 3
カタタンと電車特有の小気味いい音と揺れに伊佐敷は身をゆだねていた。隣には同じように心ここにあらずといった風情で葉子が立っている。二人とも赤ちゃんと接したことで、不思議と温かな気持ちに満ち溢れていたのだ。
「何かさ」
葉子は前を向いたまま、伊佐敷に話しかけた。伊佐敷はその横顔に目だけむけると、そのふっくらとした頬に視線をとめた。柔らかそうなその頬に赤ちゃんを受け渡ししたさいに腕に感じた葉子の胸の感触がよみがえって、伊佐敷の顔がゆるんだ。
「すごいよね〜」
「あー、あぁ」
すでに頭の中は赤ちゃんから葉子のことだけに切り替わっている伊佐敷は生返事だったが、葉子は気にせずに続ける。
「無垢っていうんだろうね」
「無垢?」
「だって、体全部預けちゃうんだよ? 命をまるまる預けるようなものなんだよ? 落とされかねないんだよ?」
「赤ン坊落とすやつなんか、そういるかよ」
「それが、すごいんじゃない。誰もに守らなきゃって思わせるほど無垢ってことなんだもん」
確かに、無条件に庇護欲をかきたてさせる存在だろう。なんの利害もなく、ただ純粋にそう思わせる存在は決して多くない。好きな相手にさえ、簡単にいかないことを伊佐敷は痛感している。
葉子を守りたいと思う。泣かせたくないと思う。けれど、そのために自分の夢も仲間も裏切るこはできない。そんな心に折り合いをつけることなど元来不器用な伊佐敷ができるはずもなく、ただ、はがゆさにくちびるをかみしめるだけだ。
目の前にボールがきたら、打ち、走り、捕り、投げる。それだけに集中することしか、きっと、できない。その結果、自分か葉子が泣くことになるとわかっていても。
だから今は、葉子をただみつめることしかできない。
つり革を握っていない方の手を目の前にかざす。その手を握りしめ、ひらく。マメだらけの手はバットとボールの感触をすぐによみがえらせる。
野球が好きだ。
葉子も好きだ。
今はそれだけでいい。その気持ちに自信を持つことが、大切だと思っている。
もう一度、手のひらを握りしめ、ひらいた。
すると突然、パチンとその腕を葉子に叩かれた。
「何思い出してんのよ、いやらしい」
「は…。何って」
「赤ちゃん渡すとき、触ったのわかってるんだからね」
「触っ…って、あれは、事故だろーが!」
「ほーら、触ったこと認めた!にやにや思い出しちゃって、やらしー」
そう言われて、思わず口に手をあてる。
さらに緩んだ伊佐敷の顔を見て、葉子が頬をふくらませた。その目には軽蔑の色も浮かんでいる。伊佐敷は失敗したと思ったが、時すでに遅し。さらに葉子を怒らせるに十分な一言を不用意に口にした。
「もうちょっとでかけりゃ…」
「この…エロスピッツ!!」
「あ、いや…!」
ちょうど電車の扉が開いたところに、どんっと葉子に押された伊佐敷は電車から降りる形になってしまった。はっと気づいたときには扉はぷしゅうと気の抜けた音を発して閉まってしまった。
扉の向こうではにっこり笑った葉子が手をふっている。しかし、笑顔とは裏腹に口はバーカと動いた。
あぁ、やられた。
伊佐敷は舌打ちしてホームのベンチに座り込んだ。しかし、本当に「してやられた」のだと伊佐敷が気づくのは、この駅が自分の降りるべき駅だったと知った5分後のことになる。
end