夢 | ナノ

春はやさしく 2

 病院の入り口をくぐると、独特の匂いが鼻をついた。匂いに慣れるまではどうも鼻がむずむずとしてしょうがない。伊佐敷は違和感をやわらげたくて何度か鼻をすすった。すると隣でも同じようにすする音がする。葉子も同じように幾ばくか小さく鼻をすっていた。親近感というか、なんともいえない温かなものを感じて葉子を見る。

 変なところで波長が合うんだよな…

 伊佐敷の視線を感じたのか、葉子は怪訝な顔を向けた。

「何?」
「いや、何でもねー」
「私、あそこなんだけど…スピッツは?」

 あそこ、と葉子は薬局と大きく書かれた所を指した。伊佐敷は誰がスピッツだ…とお決まりのように吼えようとして、ここが病院だということに気づいて自重する。

「スピッツっつーな。 オレは、あー、アッチだし。ここでな」

 そう言って、エレベーターの方へと足を向ける。ちょっと、と呼び止める葉子の声に足を止めて振り向いた。葉子は一瞬、逡巡したのか口を開いたものの、何も発さずにまた閉じた。

葉子はそういうところが以前からあった。言いたいことを言えないのか、言わないのか、言えなくなるのか…。そのたびに伊佐敷はほんの少し苛立ちを感じていた。そこに遠慮が見えるからだ。何も気にせずに軽口をたたける時間はいつもわずかだ。その時間を使い果たすたびに見えない壁を感じて、それに苛立った。

「何だよ」
「帰り、大丈夫?」

 あぁ、情けねぇ。

「おぉ。心配すんな」

 そう言って、歩き出して、また振り返った。無意識に葉子の視線を感じていたのだろう。葉子はまだこちらを見ていた。ポケットにつっこんだままだった手を出して、小さくふった。仮にもここに青道の生徒がいたら絶対にできない仕草だし、そんなことをしたことすら知られたくない。もし亮介に知られたら3日は生き地獄だ。

「サンキューな」

 その伊佐敷の言葉に葉子は笑って手を振りかえす。その笑顔はさっきまでの伊佐敷の苛立ちを一掃するのに十分だった。浮き立つような心もちで伊佐敷はエレベーターの前に立つ。そして、自分の行くべき場所が何階なのか確認をして、我にかえる。

 勇気いるよな…

 伊佐敷は3階のボタンを押す。乗り合わせた人たちの視線が痛かった。よりにもよって3階には産婦人科しかないのだから、自ずと伊佐敷が産婦人科に行くのだと知られてしまうのだ。今時の若い子は…とぼそっと後ろで囁かれたのが耳に入る。うおーっと吼えたいのをぐっとおさえた。
 
 オレは妊娠も中絶も関係ねぇ生活してんだよっ! 潤いねぇっつの!

 ポーンと間の抜けた音がして、エレベーターの扉が開く。逃げるようにエレベーターを出ようとした伊佐敷の前を立ちはだかるように人が立っていた。盛大に舌打ちして横に避けるようにして出ると、耳をつかまれた。

「いっ、イテェ!」
「何、今の舌打ち?」

 グイっと耳を掴んで引っ張ったのは、伊佐敷の三人いる姉のうちの二番目だった。

「に、二番目かよ…」
「お姉ちゃんが飲む物買ってきてっていうからさ。売店行くとこだったの。ほら」

 バンと伊佐敷の胸に千円札が叩きつけられる。それを手にしながらも反抗を試みる。

「オレ、来たとこでまだ一姉の赤ちゃんも見てねぇんだけど」
「赤ちゃんは、逃げません」

 にっこりと押し切られて伊佐敷はしぶしぶと回れ右をする。一番目だろうが、二番目だろうが、三番目だろうが、母親だろうが、結局のところ伊佐敷は伊佐敷家の女には絶対に勝てないのだ。いや、伊佐敷家に限らず女に勝とうとすること自体が間違いだと体に染み付いてしまっている気がする。

「三番目は来てんのかよ」
「さっき帰った。アンタに漫画持ってきてたよ。飲むものはお姉ちゃんとお義兄さんと、お母さんと私の分ね。おつりはあげるから」

 突き飛ばされるようにエレベーターに乗せられて、伊佐敷は一階へと降りた。

 アイツに会いたくねぇな…

 さっきまで一緒だった葉子の顔を思い浮かべる。結局、伊佐敷が病院に来た理由は話さず仕舞いだった。ここであったら何と言えばいいのか、きっと上手く説明できないような気がする。

 アイツもあんな強いとこあんのかな…あぁ、あるよな。オレおされっぱなしだもんな…

 自分の情けなさを改めて自覚する。気分が下がってしまったせいか、自然とうつむき加減になる。と、声をかけられた。

「スピッツ」
「…言うな」

 吼える気はもうすっかり失せている。葉子はテンションの低すぎる伊佐敷に首をかしげる。

「帰るなら、一緒に帰ろ。大丈夫。乗る電車も一緒でしょ」

 どうやら落ち込んでいるのは帰り道の心配をしているからだと思ったらしい。まだ帰るところではないと言おうとして、悪魔の声が伊佐敷の耳に届いた。

「純! 何してんのよ、遅いから私、帰ると…こ」

 まくし立てるように伊佐敷に近づいてきたのは三番目の姉だった。三番目の姉は伊佐敷の隣の葉子の姿を目にして言葉を失った。自分の弟が女の子と一緒にいるということがあまりにも珍しいことだったからだ。しかしすぐにその目が光る。こんなおもしろいこと逃してなるものかといった様子だ。

「さっき帰ったっつってたんじゃねぇのかよ…」
「純の…彼女なわけないよねぇ」
「違います」

 姉の様子にこの先の展開が見えて伊佐敷は気が遠くなる思いだ。三番目の姉は興味深々と葉子を見つめ、葉子は事態を飲み込んではいないものの、しっかりと否定するところは否定した。それがまた伊佐敷の胸を痛めた。自棄気味に葉子を紹介する。

「よそのガッコのマネジ。偶然会ってって聞いてんのかよ!」

 しかし、姉は伊佐敷のことなど欠片も気にせずに葉子に笑顔を向ける。

「そ、私、純の三番目の姉です」
「さ、三番目…」
「一番目が出産してね、赤ちゃんをみんなで見に来てるの。見たいでしょ。赤ちゃんかわいーよー」
「お、おい! 三姉! 」

 おろおろする伊佐敷を尻目に姉は葉子をグイグイと連れて行く。エレベーターに乗るところで、伊佐敷は姉の腕を引っ張って止めた。

「何すんのよ」
「何って、困ってんだろーが…」
「あ、ううん、見たい、赤ちゃん」

 葉子の予想外の言葉にピタリと伊佐敷は動きを止める。その隙に姉は葉子を連れてさっとエレベーターに乗り込んだ。

「あ、おい」

 あわてて、伊佐敷も乗り込もうとして、手に握った千円札に気づく。このまま買わずに戻ればどんな扱いを受けるか想像に難くない。そんなところを葉子に見られたくもない。小さく舌打ちして二人を見送ると、少しでも早く戻るために売店に足早に向かった。

 買い物を済ませて姉のいる病室へと足をむけると、扉を開ける前からキャッキャと騒がしい様子がわかった。扉を開けると真っ先に目に入ったのは、赤ちゃんを恐々とぎこちなく抱いている葉子の姿だった。葉子は伊佐敷に気づくと、少しはにかんだ。その姿に何とも言えないものがこみ上げてくる。

 「純ちゃん?」

 ベッドに座ったままの、一番上の姉がやさしい笑顔を入り口で立ち止まったままの伊佐敷にむける。伊佐敷家の中では一番穏やかな姉だが、子供を産んだばかりのせいか、一段とやわらかいやさしい空気に纏われているように感じた。

「ほら、こっち来て、赤ちゃん見てよ」
「え、あ、お、うん」

 何故か緊張して、葉子に近寄る。葉子の肩越しに自分の姪になる赤ちゃんの顔を覗き込んだ。

「おぉ…」

 正直、赤黒くて変な顔でかわいいとは思えない。にもかかわらず愛おしさがこみ上げてくる。惚けるように赤ちゃんに見入って、ふと自分の頬に違う体温を感じた。伊佐敷を見上げた葉子の額がわずかに触れたのだった。赤ちゃんに感じた愛おしさとは違う衝動にも似た感情がわきあがる。狂おしい、というのはこういう時に使うのじゃないだろうかと、変に冴えた頭の隅に浮かんだ。

葉子は額と頬が触れたことにすら気づいていないのか、伊佐敷がそんなことを感じているとは微塵も感じてない様子だった。

「だっこ、する?」
「あぁ?!」

 葉子の言葉に伊佐敷はたじろぐ。赤ちゃんを、ましてや、生後数日のまさしく生まれたての新生児を手にするなんて、普通の高校生男子には非日常すぎる。ちらっと姉やその夫となる義兄を見ると、二人ともぜひにと言わんばかりに微笑んでみせる。

葉子は赤ちゃんを差し出すように伊佐敷の方に腕を寄せる。隣あったまま受け渡しする形になった。後から考えれば危ないから一度ベッドに戻すなりしてから抱けばよかったのだが、その時、葉子も伊佐敷も慣れないことに頭が回っていなかった。

 あ…

 むにゅっと自分にはない柔らかな感触を腕に感じて伊佐敷は葉子を見た。けれど、葉子は赤ちゃんを落とさないようにすることに気を配っていて、どうやら気づいてはいないらしい。

 ま、いいか。
 
 少し得した気分で伊佐敷はその腕の中に赤ちゃんを抱いた。赤ちゃんは少し身じろぎはしたものの特に伊佐敷の腕を嫌がる様子もなく、時折口をぱくぱくと動かした。その腕の中の小さな命に伊佐敷は妙に感動していた。







20080920


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