第7話
「上手ぇな」
パシッとグラブにおさまったボールを見て、感心したように伊佐敷くんは笑う。時間があるなら付き合えと、伊佐敷くんに寮の前まで連れてこられた。昨日のことがあったから素直にうなずいたけれど、やさしい言葉で慰めでも言うようなら、今度こそ殴ってやると思っていた。そんな風に構えていた私の鼻先に伊佐敷くんはグラブを突きつけたのだった。キャッチボールに付き合え、と。
「野球してたから」
「らしいな。哲が…」
伊佐敷くんから緩いボールが私に向かって投げられた。パスッと軽い音でグラブに入ったことが気に入らない。手加減なんてされたくないのに。
「てっちゃんが?」
思いっきり、伊佐敷くんをめがけて投げる。伊佐敷くんは全く動じることなく軽く捕る。
「葉子が男だったらなって」
伊佐敷くんはさっきとほとんど変わらないボールを投げてよこす。捕れないボールじゃないのに、私は腕を下げたまま、ボールを見送った。伊佐敷くんの言葉が私の胸を突き刺したから。
私は兄妹でなければと望むことはあっても、私が男だったら、こんな気持ちに悩まなくてもよかったのに、なんて思ったことはない。
手を伸ばせばいつだって届く距離だった。同じものを見て、同じものを聞いて育った。同じことを感じて、同じことを考えていた。誰よりも私をわかってた。誰よりも私がわかってた。そう信じていたのに。
一緒に泥だらけになるまでボールを追ってた。楽しかったねと、夕暮れの中、てっちゃんを見上げることはもうできない。
決定的に違う想いが私たちを背中合わせにさせていた。
この気持ちがてっちゃんを困らせることはわかっていることだった。それでもこの気持ちを告げればてっちゃんも「兄妹でなければ」と思ってくれると、そうすれば、それだけでこの想いは報われると思っていたのに。
伊佐敷くんがゆっくりと私の方に歩いてくる。そのまま、私の後ろに転がったボールを拾いに私の横を通り過ぎていった。ボールを拾う気配を背中で感じたまま、私は動かなかった。伊佐敷くんもそこから動こうとしなかった。
広い空を仰いだ。もう空を見上げたって、てっちゃんの横顔はそこにはない。気づきたくなかったことに気づいた今、涙すら出ないほどに私は空っぽになっている。
「私、何で女で生まれてきたんだろうね」
私の存在意義は私の中でなくなってしまっている。つぶやいた声は乾いていて、誰もいないダイヤモンドにすら響かない。あぁ、私にはもう何もない、そう思えた。
「オレは、オマエが男だったら困んだけどよ」
あぁ、でも、そん時はオレが女になりゃいいのか。なんて伊佐敷くんはつぶやいた。思いもしなかった伊佐敷くんの言葉が胸にしみてきて、無意識のうちに頬がゆるんだ。
「私、男だったら伊佐敷くんみたいな女の子は嫌だよ」
「家系的にオマエより胸はでけぇぞ。想像してみろ」
巨乳の伊佐敷くんを想像して、私は大きく笑い出した。おかしくて笑っているのに、泣きたい気持ちも混ざってきていて、涙も溢れ出してくる。
伊佐敷くんはそんな私を見て好きなだけやってろ、とゴロリとその場に仰向けに寝転んだ。その横に私も座り込んで、気がすむまで笑って、そして泣いた。
「あ、そうだ」
「あ?」
ひとしきり泣いた私は、ふと思い出して、伊佐敷くんの額をピシャリと叩いた。伊佐敷くんは突然のことに目を丸くした。私はその顔に笑った。
「同情したら殴ってやろうと思ってたの」
「同情したんじゃねぇよ」
イテェな、と伊佐敷くんは額をさする。
「オレが、オマエの顔見たくて、話したくて、キャッチボールしたかった。それだけだからよ」
「…なんで?」
「…聞かなきゃわかんねーのかよ」
額をさする手の間から私を見る伊佐敷くんの目はまっすぐだった。いつだって、伊佐敷くんは私をまっすぐに見ていた。それが怖くて、私はずっと伊佐敷くんを避けていたのだ。その目で見られると、てっちゃんのことを好きでいる自分があまりにも愚かだと気づかされるとわかっていたから。
「ごめん」
「テメェこそ同情すんなよ」
伊佐敷くんは私に背を向けて立ち上がると、グラブとボールを手にグラウンドをあとにした。
20070329→0404改