第4話
嫌なものを見た。それは今までも何度もあった、私が一番嫌いな出来事だ。
帰りがけに用もないのに教室になぜか足が向いた。虫の知らせとでもいうのだろうか?閉まった扉の向こうで、あぁ、きっとそうだろうなと思っていた女子がてっちゃんと向かい合っている。てっちゃんは一見ではわからないけれど、すまなそうな顔をした。きっと告白をされて、それを断ったのだ。
ほっとした。
いつかは、誰か他の人を選ぶ日が来るんだろう。頭では理解していても、気持ちは全くついていかない。まだ失いたくないのだ。とても心地よくあたたかいあの場所と、自分の決して人には言えないこの想いを。
「何してんだ」
後ろからの突然の声に驚いて振り向く。そこには伊佐敷くんが練習着姿で立っていた。あぁ、もうどうしてと思う。この男はどうしてこのタイミングで私の前に現れるんだろう。
「哲、探してんだけどよ」
手にしていた帽子を丸めてズボンの後ろのポケットにつっこんだまま、私を見ずに言う。けれど教室の中の状況を私の口からは言いたくはなかった。しばらくそのままだった伊佐敷くんもさすがに、いつまでも何も言わない私にしびれをきらせたのか、手も帽子と一緒にポケットにつっこんだまま、ん?と屈みこんで私の顔を覗き込む。
伊佐敷くんのまっすぐな目は、何もかもを見透かしそうで怖かった。いや、もう私の何もかもを知っているだろうに、いまさらか。
「…中にいるみたい」
搾り出すようにそれだけ告げると、伊佐敷くんはひょいと顔をあげて扉の窓から中を見た。あー、と抑揚のない声をあげてから、私を見る。
「いい趣味してんな」
「知ってて見てたんじゃないわよ」
ムッとして睨んだのに、鼻でフンと笑う。だから伊佐敷くんは苦手だ。このままここを立ち去ることは簡単だ。けれど、すぐそこにてっちゃんがいるから立ち去りがたかった。
「ちょっと今、オレに付き合えよ」
伊佐敷くんにぐいっと強い力で腕をつかまれた。嫌と言うことすらできないまま、圧倒的な力で引っ張られていく。いったいどこへと思ったら、すぐ隣の教室の中に連れてこられた。中に入るとつかんでいた私の腕を無造作に放り出した。
伊佐敷くんは後ろ手で扉を閉めると、そのまま腕をくんで扉にもたれかけた。沈黙が続く。私から口を開くこともためらわれて、うつむいたまま動けなかった。
しばらくすると隣の教室の扉が開いて、誰かが通り過ぎていく足音が一人分。ほんの少し間をあけてもう1つの足音が通り過ぎていった。足音が小さくなり、完全に聞こえなくなると伊佐敷くんはゆっくりと扉から体を離した。
「ん、もう、いいんじゃねーの」
そう言って、扉を開ける。
「あー、また哲探しかよ」
やれやれと伊佐敷くんはなぜかポケットから帽子を取り出して、かぶった。ツバを整えながら私を見て、少し笑う。いつもの豪快な笑いとも嫌味な笑いとも違う、胸の奥が痛くなるような、そんな見たこともない顔で。そして、そのまま何も言わずにてっちゃんを追うために教室を出た。
伊佐敷くんは、私が見ていたことをあの告白していた女子にもてっちゃんにも気づかれないようにしたのだ。残された私は、伊佐敷くんのその意図に気づいて、悔しくて震える手を握りしめた。これは伊佐敷くんのやさしさなんかじゃない。報われない私に向けた憐憫以外に他ならない。
てっちゃんの告白シーンよりも伊佐敷くんの態度のほうがショックだった。二度と伊佐敷くんにあんな目で見られたくない。見下し嘲り笑われているほうがよっぽどいい。私は悔しくて悔しくて、伊佐敷くんにつかまれた腕を痛いほどきつく握りしめて、その場で泣き崩れた。
20070324→0401改