8話
花沢が紙袋を差し出してきた。切るように冷たい空気の中、オレは全く寒さを感じなかった。ジャージのポケットに入れたままの手が、緊張で汗ばんでくる。
今日の朝練後にクリスに第二グラウンドの裏に行くように言われた。
「何の用だよ、めんどくせーな」
「花沢が待ってる」
クリスの言葉に耳を疑った。そんなオレを呆れたように見て続ける。
「バレンタインだろう?」
「そりゃ…そうだけどよ」
「チョコもらう約束だろう?」
「…だからって、何で」
そう、何だってこんな朝早くにそんな人気のない場所で花沢がオレを待ってるんだ。
「早く行け。こんな寒い中いつまで待たせるつもりなんだ」
クリスはオレの背をドンと叩くと全く世話が焼けるとため息をついた。クリスのため息に押されるように第二グラウンドに走り出した。
キンと凍ったような空気が耳に痛い。こんな寒い中、花沢はオレをほんとうに待っているんだろうか? クリスに騙されてないか? 体に小さな震えが走っているのは、寒さよりも緊張と不安からだ。
「花沢!」
第二グラウンドに来て、名前を呼ぶ。まだ少し残る朝靄が邪魔で仕方ない。
「伊佐敷くん」
グラウンドのすぐ裏から花沢の声がした。走って近寄る。息が上がるほど走ってないけれど、胸の高鳴りが息を荒くする。
おはよ、と笑う花沢の頬は寒さで赤くなっていた。
「はい、これ」
花沢は手に持っていた紙袋をオレに差し出した。その手は手袋をしていなくて、かじかんでいるのか震えていた。紙袋を受け取ろうと手を伸ばす。指は触れなかった。花沢の指にオレの指は触れなかった。けれどその指からひんやりとした空気がオレの指に伝わってきた。
「悪ぃ」
「え?何が?」
「いや、別に」
真っ先に出た言葉に花沢はきょとんとする。朝早くからとか、寒いのにとか、こんなに指を冷たくするまで待ってとか、何よりもオレのために…とか。そういう言葉がすべて含まれていることに花沢は気づきもしていない。含んだ言葉を口にすればいいだけなのに、それがオレにはできない。
ふと、他にも同じ紙袋を二つ持っているのに気づいた。二岡と― 仁志の分なんだろう。オレの視線に気づいたのか花沢は腕を少しあげて、紙袋を見た。
「こっちは…義理」
花沢は目線を紙袋に向けたまま、ちょっと笑った。その言葉の意味に含まれているかもしれない言葉に気づいた。オレにしては自分でも驚くくらい、珍しく察しがいい。
いいや、まさか。とその言葉を打ち消す。そう、そんなに都合のいい話があっていいはずが、ないだろう? そう、だいたい、オレの勝手な気持ちで花沢に嫌な思いをさせたんだから。
「…体育祭で、すげぇ、悪いことしたと思ってて」
突然のオレの言葉に花沢は顔をあげた。その顔は驚いている。
「何で? 私、助けてもらってすごい嬉しかったのに」
「オレが、大縄を無理させたと思ってよ」
「伊佐敷くんが? リーダーだったから?」
花沢は首をかしげるばかりで、その仕草に胸が高鳴る。花沢を好きになったのも、確かこうして、首をかしげてオレを見ていた時だった。他の誰が首かしげたって、こんな気持ちにならないのに。花沢だけは違う。
そういうの一目惚れって言うんだよ、いつだったか、亮介が呆れたように肩をすくめたことを思い出した。
「好きだから」
自然に口から出た。心の中で溢れかえっていた気持ちが、おさまらなくなってしまっていた。
言ってしまってから我に返ると、急に恥ずかしくなって、足元がむずむずしてくる。花沢の顔をまともに見ることなんてできなくて、頭を抱えてその場にしゃがみこんだ。ぬおーっと呻いてから一気にまくしたてた。
「気ぃひくっつーか、一緒にいる時間を増やしたかったっつーか、無駄に練習ばっかして…! 花沢の…顔見たかったっつーか、近くにいたかったっつーかよ!だから、その何だ!オレが…!オレが花沢のこと好きでしょうがなくて…! あー、もう! 好きなんだよ、悪ぃか!」
これ以上どう言葉をつなげればいいのかわからなくなってきて、それだけ言い切ると、頭を抱えた腕の隙間から花沢の様子を伺った。花沢は両手で口元を覆っている。その手がそろりと口元から離れて胸元で握りしめられる。ゆっくりと花沢の唇が動く。
振られる時ってなんて言われんだ?ごめんなさい、か? お友達でいましょう、か? いや、嫌いか?! 怖くて頭を抱えたまま目を瞑る。天下の青道野球部強肩強打の3番打者が情けないったらない。
「本命なの…!」
「は?!」
「い、伊佐敷くんのだけ、違うの。義理じゃないの…」
そろりと顔をあげる。花沢は顔を真っ赤にして、違うの、ともう一度つぶやいた。その声はオレの心の中にゆっくりとしみこんでいく。
「オ、レの…本命?」
「うん」
こくりと頷く花沢を見て、腰が抜けたように、尻を地面に落とした。ひんやりと尻が冷えていくのと対照的にオレの体の内側はどんどんと熱を上げていく。顔はもう見れたものじゃないくらい赤くなって、しまりのない顔になっているだろう。
どうやらオレは一打サヨナラのチャンスをモノにしたらしい。
20070501