陽が傾き始めていた。
空を見上げれば鳥の大群が移動を始め、地面を見れば濃い影が差す。視線を前方に向ければ、白い鶴が赤く染まっていた。
今よりもわずかに陽が高かった、ほんの半刻ほど前のことだ。
怪我もなく順調に進軍を続けていた俺たちの前に、それまでと比べ物にならないほどの敵が現れた。
俺たちの何倍もの大きさを誇る薙刀や大太刀、風のように俊敏な槍に弓を引く短刀。
そのどれもが幾度となく目にしたことのあるものだったが、その強さはまさしく段違いだった。
「つるまる!」
「鶴丸さん、大丈夫ですか!?」
張り詰めた声を上げた堀川と今剣が、鶴丸の元へと駆ける。
その腕や足にはいくつもの切り傷があり、鶴丸ほどではないにしろ、あいつらも随分と傷を負っていたのだと気が付いた。
「…ああ、君たちか。大丈夫だ、心配するな」
「でもこんなに血が…ッ」
「なに、大した怪我じゃないさ」
「たいしたけがじゃないなんて、そんなわけないじゃないですか!」
慌てて駆け寄った堀川と今剣に、鶴丸がかすれた声で返す。
今日の戦で誉をとったとは言え、肩に矢を受けておいてどこが“大した怪我じゃない”のかと思ったが、それはあいつ等も同じらしく、未だ抜刀したままの鶴丸に厳しい口調で言った。
そうして傷の具合を見ようとしたのだろう、今剣が鶴丸の体に手を伸ばした時。
「ああ、ああ、ひどいきず…」
「…ッ、」
「ごめんなさい、ごめんなさい、すぐてあてしましょう」
「気にするな、大丈夫だ」
ごめんなさいとは、気にするなとは、何について言ったのだろうか。
そんなの決まってる。けれど俺に何か言えることがあるわけもなく、ただそんな奴等の姿を眺めていることしかできなかった。
「つーか、部隊長が重傷状態なのに何で強制撤退になんねぇんだ?」
「確かにおかしいですね…不具合かなにかかな」
「つるまる、たんまつみせてください。あるじさまからなにかれんらくがきているかもしれません」
そう言って今剣が、その小さな手を鶴丸に伸ばす。
けれど鶴丸は強い意志をその目にたたえて、口を開いた。
「いや、このまま進軍する」
「何言ってるんですか鶴丸さん!戻りましょう、これ以上は無理です」
「いや、もう本陣は目の前だ。ここで引くのはもったいない」
「駄目ですよ、僕たちはまだ平気でも、鶴丸さんは重傷じゃないですかッ」
「これくらいなんてことないさ。ほら、行くぞ」
「あッつるまる!」
どう見ても無謀だった。
右肩に受けた矢は背中まで貫通しているし、左肩からは骨が見える。もうほとんど、ぶら下がっているだけという状況だ。
痛々しいという言葉ではあまりにも足りない。それほどまでに、鶴丸は傷ついていた。
「鶴丸、駄目だ」
歩き出していた鶴丸の元へと駆け、抜刀したままの右腕を掴む。
そうすれば血の匂いが一層濃くなり、俺の左手には、液体がついたようなべっとりとした感覚が伝わってきた。
「主の言葉を忘れたか」
「…………」
「重傷だ。このまま進軍すれば確実に折れる」
言いながらぐいと引っ張るも、鶴丸は頑として動こうとしない。
その様子に無意識のうちに眉をひそめれば、すぐ近くに歩み寄ってきたらしい狐が口を開いた。
「こいつらの言う通りじゃ、鶴丸。なにを意地になっておるのか知らんが、折れては元も子もなかろう」
「…だが、もう本陣は目の前だ」
「それがなんじゃ。そんなに死にたいのか?」
呆れたような声色で言った小狐丸の言葉に、鶴丸は黙ってうつむいた。
どうしてそんなに進軍したがるのか、俺には想像もつかない。けれどその背中に、声に、強い意思があるのは確かだった。
「そうですよつるまる、もどりましょう。ほら、あなたもなんとかいってやってください!」
「俺は隊長さんの指示に従うぜ」
「同田貫さんッ」
「まあ、行ったところでお前は確実に折れるけどな」
普段は血の気が多い同田貫も、鶴丸の姿にこれ以上は無理だと判断したのだろう。
俺の思い過ごしや勘違いなんかじゃなく、今の鶴丸が本当に危険な状態なのだと、同田貫の言葉からもわかった。
だから俺は、戻るぞと今一度声を上げようとしたのに。
「隊長は俺だ。お前ら全員が戻ろうと、俺は進軍する」
こいつはどこまで馬鹿なのかと、鶴丸以外の全員が思ったことだろう。
そうして痺れを切らしたように、じゃり、という音を立てて小狐丸が鶴丸の目の前に立った。
「…お主がそこまで愚か者だとは、私も知らなかったのう。もっと早く言っておれば、此奴に隊長を任せるべきでないとぬし様に進言しておったというに」
「……………」
「お主は自分が折れようと構わんのかもしれんが、私達はそうではない。練度を上げて出直せばいいところをお主が折れぬように庇うだろうし、そうすれば被害だって今以上になる。我らは全員ぬし様より守りをいただいておるが、あれはこんな状況で使われていいものではない」
「……………」
「そんなこともわからぬほど、愚か者じゃったか」
怒りをも孕んだ強い口調で言った小狐丸に、またしても鶴丸は言葉を返さない。いや、返せないのだろう。
それほどまでに小狐丸の言葉は正論で、俺も堀川も同田貫も、なにひとつ言葉を紡がなかった。
けれど、ただひとり。
「つるまる、つるまる」
「……………」
「あるじさまに、もうあいたくないんですか?」
あるじさまは、かなしみますよ。
覗き込むようにして問いかけた今剣の言葉に、鶴丸が顔を上げて目を見開いた。
そうしてはくはくと口を動かしたのち、ぐっと強く唇を噛んで。
「………すまなかった」
帰ろう。
その声はひどく小さかったけれど、確かに俺たちの耳に届いた。
「それじゃあ鶴丸さん、端末貸してもらえますか?僕から主さんに連絡しますよ」
「ああ、…っと、血塗れだな」
刀を鞘に収めた鶴丸が懐をごそごそと漁り、血に塗れた端末を見て苦笑した。
そして血を自身の着物で拭い、堀川に渡したのだが。
「…あ、壊れちゃってますね」
「さっきまで使えてたわけだから…今ので駄目になっちまったのか」
「そうみたいですね。仕方ないから、応急処置だけして帰りましょう」
それじゃあ今剣くんと同田貫さんはさっき通りがかった沢で水を汲んできて、小狐丸さんは念のために見張っておいてください。骨喰くんは手当手伝ってくれる?
慣れた様子で指示を出した堀川に誰一人逆らうことなく、各々が自分の役割に従事する。
「堀川、止血はこれでするのか」
「うん、それでいいよ。鶴丸さん、気持ち悪いし痛いでしょうけど、矢はこのままにしておきますよ。下手に動かしても危ないですから」
「ああ」
鶴丸を適当なところへ座らせ、傷の具合を確認しながら話す。
着物越しに見ても凄まじかった傷はそれを剥ぐと一層のひどさを感じさせて、俺は無意識のうちに眉をひそめた。
「おみずくんできましたよー」
「こんぐらいで足りるか?」
「はい、ありがとうございます」
2人の汲んできた水で傷口を洗い、堀川がてきぱきと手当をしていく。
その様子にいつも堀川に世話を焼かれている和泉守、そして世話好きな自身の兄弟を思い出した。
「よし、っと…こんなものでいいかな」
「悪いな堀川」
「いえいえ!」
すくっと立ち上がった堀川につられるように、俺と鶴丸が腰を上げる。
そうして本丸に戻るべく3人にも声をかければ、鶴丸をじっと眺めたのち、小狐丸が口を開いた。
「辛かろう、肩を貸すか」
「…ああ、悪い」
「気にするな」
短く言った小狐丸が歩き出したのを筆頭に、俺たちはゆっくりと歩を進める。
これ以上鶴丸が苦しい思いをしなくて済むよう、気遣いながらいつもの何倍もゆっくりと歩く。
「これくらいの速度であれば、問題なく歩けるか」
「ああ、大丈夫だ」
「つるまる」
「…ん?」
「さっきはごめんなさい」
今剣の言葉に一瞬目を見開いた鶴丸は、だらりと垂れ下がった左手をゆっくりと伸ばす。
そうして今剣の頭にぽんと手を乗せたかと思えば、気にするなと静かな笑みをたたえて。
「大丈夫だ、こんなのちっとも痛くない」
「…………」
「戻ったら君のその傷も、きちんと治してもらおうな」
「…はいっ」
主は君を可愛がっているから、きっとその姿を見たら悲しむ。
そんな鶴丸の言葉に、お前が言うなと思ったのは俺だけではないだろう。