「今日の夜ご飯は何がいいですか?」

「あー…今夜は寒くなるらしいし、鍋食いたいな」

「お鍋ですね、了解です」


他愛もない朝のひとこま。
一見これまでと何も変わっていないような気がするけど、1週間くらい前の事件―…『リッパーナイト』と呼ばれることとなるあの夜から、わたしたちの関係は変化した。


「じゃあ行ってくるわ」

「はい。気をつけてくだ、…っ」


突然降ってきた唇に、出かけた言葉が強制的に塞がれる。
…変わったのはわたしたちの関係だけじゃなく、静雄さんも、なのかもしれない。
そんなことを考えながら彼を見れば、穏やかな、そして嬉しそうな笑顔。


「今日は友達の見舞い行くんだろ」

「 は、い。…そうですけど」

「お前も気をつけろよ」

「……はーい」


不満げに聞こえるかも知れないけど、そんなことはない。
そう言ってもらえたことは嬉しいし、キス、も、嫌じゃない。むしろ幸せです。

けどやっぱり、静雄さんのこういう面にはまだまだ慣れなくて。
もしかしてこれが前に臨也さんの言ってた“嫌でもわかる”静雄さんの一面なのかとも思ったけど、こんな関係になることまで予想されてたとしたら流石に気持ち悪いから考えるのはやめとこう。


「また帰る時に連絡する」

「はい。早く帰ってきてくださいねっ」

「おう」


わたしの頭を一撫でしてドアの向こうに消えた彼は、本当に早く帰ってきてくれるのだろうか。
その時わたしは、晴れ晴れとした気持ちで彼と向き合えるのだろうか。
いくら考えても答えの出ない疑問とひとつの決意を胸に、わたしは家を出る準備をはじめた。



******



「…頑張れ美尋っ」


本当ならUターンしたいくらいだけど、ここで帰ったら何の意味もない。
言い聞かせるように呟いて、目的のドアの前に立ったわたしは、ドクドクとうるさい心臓に気付かないふりをしてドアの取っ手に手をかけた。


「……杏里 ちゃーん」

「…あ、美尋さん」

「……あ、ごめん。邪魔しちゃった?」


訪問に気付き文庫本を下ろした彼女は、首を横に振りながら「いえ」と呟いた。
…ああ、もう。本当に緊張する。やだ、やっぱり帰りたい。
けどその直後に浮かんでくるのは“逃げていても仕方ない”という考えで、それはおそらく正論だから、わたしは勇気を振り絞って足を踏み出す。
きっと、そうするしかないのだ。


「最近全然来れなくてごめんね」

「そんな…美尋さんだって忙しいでしょうし、来てくださるだけで嬉しいです」


……会うのが怖かった、なんて言えない。
微笑みながら言った彼女に心の中で謝って、すすめられた椅子に腰掛ける。


「えっと…もう退院できるんだよね?紀田くんから聞いたよ」

「はい、あと来週には」

「そっか、良かった」


ちなみに、と前置きをする必要があるのかはわからないけど、これは本心。
杏里ちゃんが怪我で入院したと知った時は本当に心配だったし、彼女が今まで通りに生活できるのは本当に喜ばしいことだと思う。


「あの、美尋さん」


だからこそ、わたしもこの陰鬱な気持ちを捨てたい。
そう思いながら、この後口にするであろう言葉を脳内でリフレインしていると、少々緊張したような面持ちで杏里ちゃんが口を開く。


「この前の、ことなんですけど」


この前。
その言葉を聞いた瞬間、心臓がより一層高鳴った気がする。
まさかこちらが言い出す前に言われるだなんて思わなかったし、わたし自身の心の準備だって十分じゃない。
けれどそんなわたしの様子に気付いていないらしい彼女は、目を伏せながら話し出す。


「あの、すみません」

「…えっと…何が?」

「わたし、何だか誤解をさせてしまったみたいで」

「誤解?」


わざわざ“この前のこと”を口にしたということは、帝人くんとの話を立ち聞きしたことはバレているんだろう。
けど、誤解というのがよくわからない。
でも勇気を失ってしまったわたしにはその意味を聞くことも出来ず、ただ彼女の次の言葉を待つしかなかった。


「竜ヶ峰くんが言ってたんです。多分美尋さんは、わたしの言葉を聞いて帰っちゃったんだって」

「…えっと、ごめん。どういう…」

「平和島さんに、…憧れてるって」


彼女の口から出た恋人の名前に、心臓がまた早鐘を打つ。
けど恐る恐る見た杏里ちゃんの表情は、申し訳なさそうにしていながらも、少しだけおかしそうで。


「憧れてるって、恋愛感情じゃないんです」

「え?」

「えっと、どう説明したらいいかわからないんですけど…」


すみません、と言いながら苦笑した杏里ちゃんに、自分の中のもやもやがスーッと消えていくのがわかった。
…えっと。これはもしかして、


「杏里ちゃん、静雄さんが好きなんじゃなかったの?」

「はい。憧れと言っても、すごいな、とか…そういうことなんです」


…多分今、わたしすごい間抜けな顔してる。
だってそのことでこの1週間くらい悩んでて、つらくて苦しくて、泣きそうになった夜もあったのに。


「なん、だ」

「美尋さん?」

「そうだったんだ…」


急速に訪れた安心感に顔を伏せれば、オロオロとした杏里ちゃんが「あの」だとか「すみません」だとか声をかけてくれる。
いや、もう、謝らなきゃいけないのはこっちですよ。本当に。


「ごめん、杏里ちゃん」

「え?」

「帝人くんの言う通りなの。わたし杏里ちゃんが静雄さんのこと好きなんだと思って、それで、この前いきなり帰っちゃったの」


ごめんね。
念を押すように謝りながらも、わたしの心は安堵でいっぱいになる。


「それでずっと悩んでて、会うのが怖くて、お見舞いにも来れなかったんだ」

「そうだったんですか?」

「うん。…ごめん、本当に。もっと早く来て、話したら良かったね」


この数週間は何だったんだろう、と自分の不甲斐なさを後悔しても仕方がない。
見方を変えれば、わたしはそれだけ杏里ちゃんを大切に思っていて、静雄さんを好いているということなのだろうから。


「…あの、ね。わたしあの日から静雄さんと付き合って、て」

「……え、そうなんですか?」

「…そうなんですよ」

「おめでとうございます、っ」


いや、うん。
セルティにも【わたしたち付き合ってたらしい】という何とも他人事のようなメールを送ったから、セルティと新羅さんは、そのことを知ってるわけで。
それに対して祝福の言葉ももらったから、別に「おめでとう」と言われるのは初めてなわけではないんだけど。


「ありがとうございます…」


何とも恥ずかしい。
やっぱり両者とも自分の知ってる人だと気持ちも違うのか、杏里ちゃんは驚きながらもキラキラとした眼差しでわたしを見つめる。


「本当におめでとうございます、何だかわたしまで嬉しいです」

「う、ん…ありがとう」

「…?どうしたんですか?」

「いや、ちょっと恥ずかしくて」


杏里ちゃんに言われてこれなんだから、狩沢さんとゆまっちさんに知られたらわたしどうなるんだろう。
わざわざ隠そうとは思わないけど…うん、考えただけで顔熱くなってきた。やめよう。


「わたし、恋愛感情っていうのがよくわからなくて…だから、本当にすごいと思います」

「まあわたしも初恋みたいなものだから、静雄さんに言われるまで気付かなかったんだけどね」

「あ、平和島さんに告白されたんですか?」


………
……………!!!


「っごめ、あの、わたし全然そういうつもりじゃなくてっ」

「?」

「何かごめん、違くてっ惚気るつもりとか、っ」

「…あ、す、すいません!あの、大丈夫です、わかってますっ」


言葉だけじゃいまいち噛み合ってないような感じがするけど、お互い雰囲気で理解したんだと思う。
…あああ、もうっ。


「ごめんなさい…」

「そんな謝らないでください、それに、もし惚気だとしてもわたしは聞きたいですから」


こんな形で知るとは思わなかったけど、杏里ちゃんはずいぶんと心が広いらしい。
…いや、もしかしたら単に好奇心とか興味があるのかもしれないけど。


「本当に、おめでとうございます」

「…うん、ありがとう」


ちょっと恥ずかしいけど、すごく嬉しい。
熱くなった頬に手を当ててお礼を言えば、これからの日々が変わる予感がした。

back




人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -