かぐや姫は帰れない
ふと見上げた空は暗くて、今にも私を飲み込もうと迫ってきているように見えた。
「何をしているんだい」
「…あ、」
かけられた声に視線を向ければ、月の光を浴びてうっすらと輝く歌仙がいた。
寝起きなのだろうか、その目は少しだけ重みを帯びている。
「どうしたの、歌仙」
「目が覚めてしまってね……おや、月見酒か」
「眠れなくて外に出てみたら空が綺麗だったから、お酒持ってきちゃった」
「そういうことなら僕も御相伴に与ろう。隣、失礼するよ」
「ああ、うん。どうぞ」
ゆっくりと腰を下ろした歌仙は、ついさっきまでの私と同じように空を見上げる。
そうすれば自然と口から零れたのだろう、美しいねと彼が呟いた。
「暗い空が星と月を引き立てて、本当に綺麗だよね」
「おや、君には夜空を愛でられるほどの豊かな感受性があったのかい?」
「失礼だな…」
「だって君といえば、いつだって雅じゃないことばかりじゃないか。今日だって短刀たちと一緒になって泥遊びをしていただろう」
「泥遊びじゃなければ雅だった?」
「例えば花札や貝合わせであれば、少なくとも泥遊びよりは雅だろう」
「それだって悪くはないけど、時には自然に触れたり体を使って遊ぶことも大切なんだよ。子供にはね」
「姿かたちは子供といえど、君よりは年上だろう」
「違いない」
言いながらクスクスと笑えば、歌仙はため息ともつかない息を吐いてお酒を飲んだ。
「私が生まれた時代はね、夜はこんなに暗くなかったの。星もこんな風に、今にも落ちてきそうなほど輝いてはいなかった」
「どうしてだい?」
「夜でも地上が明るいから。そりゃあ田舎の方に行けばこれに近い夜空は見られるだろうけど、少なくとも私は、ここまで綺麗な空を見たことはなかった」
発展というのは、便利な反面多くのものを失うことでもあるのだと空を眺めながら思った。
色々なものがあるおかげで夜に退屈することも不便することもなくなったのだろうけど、その分、眺めるのは手元や己の存在する空間にあるものばかりで、夜空を見上げようという気持ちも薄れてしまったのかもしれない。
「それでも月は、今も昔も変わらない。すごいよね、あんなに大きくて綺麗で、眩しくて」
「…ああ、そうだね」
「まんまるで輝いてて、すごく神秘的」
手を伸ばせば届きそうなのに、決して届くことのない満月に向かい手を突き上げる。
すると彼は、その手をすぐに掴んで。
「…歌仙?どうし、「君は月に帰ってくれるなよ」
「………は?」
「竹取物語だ。君だって知っているだろう?」
やんわりとした手つきで突き上げた手を下ろさせた歌仙は、私の肌に触れたまま言葉を紡ぐ。
その仕草はまるで、逃がすまい私をとらえているようだった。
「……私は、姫なんて柄じゃないよ」
「けれど君は、遠い世界からやってきた人間だろう」
「…まあ、そうだけど」
何だか照れくさくて顔を伏せた。
けれど歌仙はそんな私に気付かないのか、あるいはわざとか。
どちらかなんてわからないけれど、歌仙は相変わらず、私の手を掴んだままで言葉を続けるのだ。
「僕は今まで、月に手を伸ばしたことすらなかった」
「…うん」
「月を眺めながら酒を飲んだことも、美しさを言葉にしたことも、誰かと愛でたことも何もかもなかった。けれど君は、それを可能にした」
君が、そうしたんだ。
私の手首を掴んだ歌仙の手の力が、少し強くなった気がした。
「僕たちに体を与えて、心を与えたんだ。そうやすやすと帰れると思うなよ」
ハッとして顔を上げる。
そうして眺めた歌仙の顔は月明かりを帯びていて、ああ私はしばらく帰れそうにないとその身をもって知ったのだった。
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