最強までの通過点
私の知らないうちに、斬り裂き魔事件の“始まり”が始まっていた。
きっとこれからも、私の知らないところでどんどんことが進んでいって、私の見えない場所で、誰かが傷ついたり苦しい思いをしたりするのだろう。
朝の臨也さんとの会話にそんなことを思い、ぼうっとソファーにもたれていた午後のこと。
「…誰か来ましたね」
ピンポン、というインターフォンにそう言えば、「そうだね」と臨也さんが笑う。
すると誰に指示されることもなく立ち上がった波江さんが、玄関の方に向かって歩いて行った。
「…雑誌の記者の方だそうよ」
「うん、いいよ。通して」
あ、これはもしかしたら。
そう思いながら携帯を握り締めた私は、平和島さんのことを思い浮かべていた。
「誰から、俺の話を聞きました?」
将棋の駒を手で弄びながら、臨也さんは淡々と言葉でつむぐ。
…やっぱり、あの雑誌の記者さんだ。
「住所まで知ってる人間は、よほどのお得意さんということになるんですがねえ…」
過去に、液晶越しとは言え見たことがある光景の中に、自分が入っているというのはすごく不思議な気分だ。
こんなの今更だっていうのはわかっているけれど、これから起きることがわかっているだけに、自分の中に緊張感が広がっていく。
…とりあえずは、そうだな。
波江さんは書類の方に手を取られちゃってるし、ここは私がお茶を出すか。
確かコーヒーの方が余ってた気がするから、コーヒーを出すとしよう。
「まあ、情報元は秘密ですから……」
「情報屋に対して『情報元は秘密』ときましたか……ま、いいですけどね」
“池袋最強は誰か”。
それを求めてここまでやってきた男は、コーヒーを出す私に軽く会釈をして臨也さんに向き直る。
…私の記憶が正しければ、確か原作でもアニメでも、この後この人は、平和島さんの元を訪れるはずだ。
この状況で、どちらが優先されるのかはわからない。けれどどちらにせよ、この人は平和島さんの元を訪れる。
「東京災時記、ですよね。東京で起こった妙な事件とか、チーマーとかを紹介して回る……そういえば希未、この前読んでたよね」
「ああ、はい。読みましたよ」
「次号は雑誌をあげて池袋特集とか書いてありましたね」
「え、ええ…」
とりあえず平和島さんには、連絡しておいた方がいいだろうか。
そんな私の思考を読んだように、絶妙なタイミングで声をかけてきた臨也さんに返せば、何でもないように、また男の方を向いた。
この人はたまにこういうことをするから、心臓に悪い。
「それがわかっているなら、お話は早いかと思いますがね」
少しだけ強張った表情に好奇の色をにじませ、身を乗り出して言う男の様子は、まるで主導権は自分にあるとでも言いたげだった。
これなら話はうまいこと進むだろう。スムーズにことは運ぶだろう。
そう思っているだろう表情に、記憶の中に残るこの後の展開に、私は静かにため息を吐く。
「高校生のお子さんは元気ですか?」
「なッ……」
「粟楠会の四木さん、優しい方だったでしょう?」
「……」
臨也さんが嫌な笑みを浮かべながら言った瞬間、男はすべてを理解したかのように、目を見張って冷や汗を流した。
…この後のことを思うとあまり同情はできないけど――…それでも、少しだけ不憫だ。この人はただ、好奇心はあれど、自分の仕事を全うしようとしているだけなのになあ。
「ま……いいですけどね。池袋最強、ねえ。あの街で強い人はそれこそゴロゴロいますけど……そうですねえ、一人だけっていうなら……素手の喧嘩ならサイモン。何でもありなら――シズちゃんだなあ……やっぱり」
「シズ……ちゃん?」
「平和島静雄。今は何の仕事をしているのか知らないね。知りたくもないし」
心底嫌そうな顔をして言った臨也さんは、私の方をちらりと見やってため息に似た息を吐く。
これは、あれか。余計なこと言うなよ、とかってことなのだろうか。
「あの……その、シズオさんっていうのは、どういう人なんですか?」
「話したくもないね。あいつのことなんて俺が知ってれば十分だ」
「いや、そこをなんとか」
「俺は奴が苦手だから奴の情報を知ろうとするけど。それだって十分不快なんだよ……」
とりあえず私は邪魔なようだし…洗い物でもしようか。
多少の音は出るけれど、あの2人の距離感と、彼らとキッチンの距離を考えれば、まあ大丈夫だろう。
と、思ったのだけど。
「ああ…それか、あの子に聞いてみれば?俺よりは話してくれるかもしれないよ」
「…は?」
あの子。
言いながら私を見た臨也さんにうながされるように、男が私を眺める。
…え、あの。
「…私ですか?」
「うん」
「いや、何で私なんですか」
「いいじゃない、俺よりは日頃のシズちゃんと関わりあるんだし…きっと、俺が知らないシズちゃんのことだって、君ならたくさん知ってるだろう?」
ちょっと、まじで勘弁してくださいよ。
最初こそ『こんな子供に?』といった表情だった男の目が徐々に輝くのを目の当たりにして、心から遠慮したくなる。
「…とにかく、私は何も話しませんから。やらなきゃいけないことたくさんあるので、失礼します」
やろうとしていた洗い物は後だ後、先に洗濯をしてしまおう。
2人から逃げ出すようにリビングの扉を閉めれば、すべての会話が遮断される。
「…どうしようかな」
ポケットに入ったままの携帯を取り出して、平和島さんの番号を眺める。
…たまたま記者に声をかけられて、だとか嘘はいくらでも浮かぶけれど、どうせあの人は平和島さんの元を訪れて、痛い目に合うことに変わりはないのだろう。
それならわざわざ、仕事中であろうこのタイミングで連絡を、
「…それじゃあ、失礼します」
する必要も、ないのかもしれない。
そう考えたと同時に聞こえてきたそんな声に、私はぱたぱたと廊下を駆ける。
「あのっ」
「…え、あ、はい?」
「平和島さんのところに行くなら、弟の話はしない方がいいですよ」
あと、私の存在は絶対に他言無用です。
そんな忠告と頼みごとまがいの言葉を突き付けて、私は平和島さんとあの街の平和を案じた。
見て見ぬふりというやつです
(怒らせないようにって思うけど、無駄なんだろうなあ)
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