どろり、急転直下
「ただいまッ」
ちょっとだけ幸せを感じた1人きりの放課後に、私の足取りも軽かった帰り道。
意気揚々と玄関のドアを開ければ、そこには見慣れない革靴があった。
「…?」
「ああ希未、おかえり」
「…あ」
私の声と臨也さんの声にこちらを向いたその人に、私はどうしようもなく気分が高揚するのがわかった。
ああ、今日の私はなんて運がいいんだろう。
「粟楠会の四木さん。希未なら知ってるかな?」
「は、はいっ。はじめまして、柴崎希未です」
「…こちらのお嬢さんは?」
「ペットみたいなものですよ」
「ずいぶんとかわいらしいペットですね」
ペットって言うなと一瞬こそ思ったものの、四木さんの言葉にどうでもよくなってしまった。
臨也さんの言葉を聞いた四木さんに鋭い視線を向けられて、自分の中の何かがゾクゾクとするのがわかる。一応Mなつもりはない。…一応。
「四木と申します。折原さんにはいつもお世話になっていまして」
「あ…いえいえ、そんなとんでもないです」
とんでもないとか私が言えた立場じゃないけど仕方ないよね、挨拶の際の常套句だ。
あああ、それにしても本当に素敵。
アニメからそのまま抜け出したような…っていうか厳密には私が飛び込んできたわけだけど、とにかくもう本当に素敵ッ。
「…あっ、すいません。お茶淹れますね」
「ああ、お構いなく」
この前新しい紅茶買っといて良かっ…あれ?四木さんってコーヒーの方が好きなのかな。
そういえば何で波江さんいないんだろう、まだ上がる時間には早いのに。
そんなことをぐるぐる考えていると、やたら笑顔の臨也さんがキッチンに入ってきた。
「希未ちゃん」
「…え、何ですか急にちゃん付けとか気持ち悪いですよ」
「飲み物は俺がやるから、君はシャワー浴びておいで」
何でシャワー、と一瞬だけ考えたけど、答えはすぐにわかった。
その途端に背中に汗が流れたような気がして、どろりとした不快感に襲われる。
「目が赤いわけも後で聞くよ。まずはさっさとその胸糞悪い匂い消してきてくれる?」
有無を言わさずっていうのはこういうことか、と妙に冷えた頭で考える。
四木さんに聞こえない程度の声量で話してはいるけど、あんまり放っておいたらどう思われるかわからない。
「…わかりました」
「いい子だね」
少しだけ緊張した体のまま、ゆっくり、でも急いでリビングを出る。
脱衣所で脱いだ制服に鼻を寄せれば、ほのかに煙草の香りがした。
「お待たせしました、四木さん」
「…ああ、すみませんね。ありがとうございます」
希未が出て行ったリビングには、当然ながら俺と四木さんだけが残された。
まだ鼻に残る嫌な匂いを消すために香りの強い紅茶を含めば、少しだけ気分が良くなった気がする。
「…ずいぶんと若いお嬢さんですね」
「ええ、まだ高校1年生です」
「あの方もあなたの取り巻きですか」
「どうでしょうね。本人は否定してますが」
珍しく突っ込んでくるな、というのがその時の最初の印象だった。
俺たちは互いの商売柄付かず離れずの関係性を保ってきたし、これからもそれは変わらないと思ってたんだけどな。
「四木さんのことですから大丈夫かとは思いますが、あの子には何もないようにお願いしますよ」
「ええ、もちろんです。こちらとしてもあなたを敵にまわしたくはありません」
「そう思っていただけているなら安心です」
上っ面だけの、中身なんてない会話。
そういえば最後に意味のある会話をしたのはいつだろう、と考えてみたけど、もう思い出せないくらいに昔らしいからすぐにやめた。
「それで、今回のご用件は?」
希未については何も聞くな。
俺のそんな思いが通じたのか、四木さんは表情ひとつ変えることなく仕事の話をし始める。
そうして俺も、希未が浴びるシャワーの音を聞きながら、その言葉に耳を傾けた。
不必要なもので構成される
(俺も君も、同じなんだよ)
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