ピンクの悪意
「希未は知ってる?」
「はい?」
「ここに植わってるソメイヨシノの“染井”って、豊島区の駒込のことなんだよ」
新宿駅西口の中央公園。
夜にも関わらず…いや、夜だからこそというべきか、人の多いこの場所で、桜を見上げながら臨也さんはそう言った。
「昔、今の駒込辺りには染井村って村があってね。そこの造園師や植木職人が品種改良したものが明治以降に広まったんだってさ」
「吉野っていうのは」
「桜の名所に奈良の“吉野山”っていうのがあって、それにちなんだらしい」
「へぇ…」
明治なんて、まだ15年ほどしか生きていない私にとってははるか昔の出来事すぎて実感がわかない。
桜と言えば、で思い浮かぶソメイヨシノがこんなに身近な場所で生まれたことにも驚いたけど、それ以上に驚いたのは、臨也さんの知識量だった。
「本で読んだんですか」
「高校の頃に授業でそんな話を聞いたんだよ」
「それにしてもよく覚えてましたね」
というか、臨也さんがちゃんと授業に出てたことにびっくりした。
授業はサボって屋上やら図書館で過ごしていたんだろうと勝手に思い込んでいたからなあ。
「そういえば、桜の下には死体が埋まってるって言いますよね」
「希未は信じてる?」
「もし本当だったらとんでもないことです」
「まったくだね」
ポケットに手を突っ込んだ臨也さんが、鼻で笑ってそう言った。
見上げた桜はあまりに鮮やかな薄紅色で、光を浴びた花弁の集合体は美しいながらもどこか恐怖を感じさせる。
私を圧倒する理由がおそろしく綺麗に咲き誇っているせいなのか、暗い空をバックに咲いているからかはわからないけど、今なら“死体が埋まっている”と言われても信じられるかもしれない。
なんて、考えていた時。
「桜の樹の下には屍体が埋まっている!」
「…え?」
「これは信じていいことなんだよ。何故って、桜の花があんなにも見事に咲くなんて信じられないことじゃないか。」
「え、な、ちょ。臨也さん、?」
突然高らかに(と言っても大声とかではないけど、ただそうとしか表現ができなかった)声を上げた臨也さんは、桜を眺めながら言葉を続ける。
ど、どうしたのいきなり。
「知ってる?今の」
「え?」
「知らない?」
「え、何がですか」
意味がわからない、という言葉を飲み込んで問えば、彼は小さくため息を吐いてわたしを見る。
な、何が何やら。
「今のは小説の一文でね。桜の下に死体が埋まってる、って話の元ネタだって言われてる」
「…それって、坂口安吾の?」
「ううん、梶井基次郎」
梶井基次郎という名前には聞き覚えがなく、頭の中にハテナマークがいくつも並ぶ。
死体が埋まってる、の元ネタは『桜の樹の満開の下』だって国語の授業で聞いた気がしたけど、今のを聞く限り、何だか臨也さんの言う人の方が信憑性が高い気がした。
「臨也さんは信じてるんですか」
「信じてはいないよ。けど、もしそうだったら面白いとは思うね」
相変わらずな臨也さんに、少しだけ安心に似た感情を覚える。
何だか合流してからの臨也さんはまともな…というか、悪意や詭弁ゼロだったから、ちょっとだけ違和感を覚えてたんだよね。
いや、本当はその方がいいんだろうけど。
「その作品の主人公は、満開の桜のような、美しい情景を素直に受け止められないんだってさ」
「…どうしてですか、」
「さあ、俺もちゃんと読んではいないからよくは知らない。けど、そういう美しいものに死みたいな負のイメージを関連付けることで、初めて心の均衡がとれるらしいよ」
綺麗なものを素直に綺麗と思えないというのは、理解できないことだった。
でもそれってすごく、
「失礼だとは思いますが、面倒くさい人ですね」
「希未は相変わらず正直だねえ」
褒められているのか馬鹿にされているのかわからない。
けどじっと見つめていればいるほど桜の美しさが不気味に思えてきて、ちょっとだけ主人公の気持ちがわかったような気がする。
いや、厳密には違う。
美しさは純粋に認められるし受け止められるけど、美しいから、不気味なのだ。
「…臨也さんみたい」
「何?」
「…あ」
心の中で思っていたつもりが、どうやら口に出てしまっていたらしい。
ああもう、面倒くさい。
「…何でもないです」
「言いなよ」
「えー…」
別に言ったって怒ったりはしないだろうけど、少々抵抗がある。
だって相手は臨也さんだし、そうでなくても顔が良いと認めて、本人に言うのは少々恥ずかしいものがあるわけで。
…わかりました言いますから眉間に皺寄せないでください。
「……桜を綺麗だとは思うんですけど、なんというか、整い過ぎていて現実味がないというか。それで、臨也さんの顔と一緒だって思って」
「ああ、なるほど。そういうことね」
「…今のでわかったんですか?」
「希未の考えそうなことはわかるよ」
俺は美しすぎて人間味がないんだね。
にやにやと嫌な笑みを浮かべながら言う臨也さんに、言わなきゃよかったと後悔した。
ぽろっとこぼしちゃうなんて、数秒前の私の馬鹿。
「…さ、そろそろ食事にしようか。4月とは言え、あまり長くいると夜は冷えるからね」
「…はい」
最後にもう一度、と言わんばかりに空を見上げた臨也さん。
その姿に、昼の桜より夜桜の方がよっぽど似合う人だと思ったけど、やっぱりからかわれたくないから黙っておいた。
来年の今頃、
「桜餅食べたいです」「あれ好きじゃないんだよね、俺」
(桜を見る私の横には、誰がいるのでしょう)
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