花びらひらひら
ことが動き始めてしまった。
そうわかっていながら、私は今日もぬるま湯に浸かるのだ。
「ねえ帝人」
「何?」
「正臣と杏里ちゃんは?」
いつもとはちょっとだけ違う、人の少ない放課後の教室。
日直のため黒板を消している帝人に、カバンを置いたままどこかに行ってしまった2人のことを尋ねる。
「さあ…すぐ戻るとは言ってたけど」
「帝人も知らないか」
「うん。どうしたんだろう…」
本当に、と言葉を付け加えた帝人の、文字を消すスピードが上がる。
…そりゃ心配っていうか、気になるよねえ。
親友と想い人が何らかの理由で一緒にいるんだからモヤモヤするのも当然だ。
正臣は何してるんだか。
「いやーお待たせしたね諸君!」
「あ、おかえり」
ガラガラと音を立てて開いたドアに目を向ければ、いつも通りテンションの高い正臣と、いつも通り落ち着いた杏里ちゃん。
杏里ちゃんの顔色が普通なところを見ると、どうやら変な話ではなかったらしい。
「すみません、席を外してしまって…」
「ううん、大丈夫。でも何話してたの?」
「それは…多分紀田くんから、後で連絡が行くと思います」
「?」
「おう、後で連絡するから今はその話しないでくれよな」
何だかよくわからないけど、正臣は口元に一本だけ立てた指を当てている。
多分帝人に聞かれたくないことなんだろうし、とりあえず納得することにしよう。
「っていうか希未さ」
「ん?」
「今日何か元気なくね?」
ガタ、と椅子に座った正臣が、私の顔を眺めてそう言った。
不思議そうな顔の正臣と、心配そうに眉尻を下げる杏里ちゃん。
少し離れた場所にいる帝人は、黒板消しを手に振り返った。
「え、柴崎さん具合悪いの?」
「あー…ううん、大丈夫」
「無理は、しないでくださいね」
「ありがとう杏里ちゃん」
「希未、俺にはー?」
「正臣もありがと」
へら、と笑いながら言えば、3人は少し安心したような顔で私を見た。
ああもう、こんなんじゃ駄目だってわかってるのに。
なのに私は、これから始まるであろう出来事に、こんなにも心を乱される。
「さてここで問題です!じゃあ…帝人、4月と言えばなんでしょうか?そう、ナンパです」
「紀田くんの頭はいつでも春だよね」
少しだけ流れた静かな空気を壊すように、正臣が突然明るい声を上げる。
いつも通りキレのいい突っ込みをした帝人に対して正臣は首を傾げるけど…珍しいな、反論しないなんて。
「バカだな帝人、俺の頭は常に夏!パッション溢れる情熱の季節だぞ?目に映るものはすべて南国ビーチのイケイケお姉ちゃんストーリー…当然、俺の脳内ではすべての女性は水着に――…」
「私夏嫌いだなあ」
「私も…少し苦手です」
「あ、杏里ちゃんも?」
「はい。暑いのはあまり得意じゃなくて…」
「汗もかくしね」
「紀田くんの頭はいつでも春だよね」
私たちのスルー攻撃と帝人の2度目の(それも、さっきと同じ)突っ込みが効いたのか、正臣は口を開かない。
…かと思いきや立ち上がり、ケースから取り出したチョークで黒板に絵を描き始めた。
あーあ、せっかく帝人が綺麗にしたのに。
「ちょっ…やめてよ紀田くん!今綺麗にしたばっかりなのに!」
「希未ー、杏里の眼鏡外してくれる?」
「え?」
私が何か言うより早く声を上げたのは杏里ちゃんだった。
いや、まあ私も杏里ちゃんと同じ思いだし、よくわからないんだけど…とりあえず外すか、ごめんね杏里ちゃん。
「わっ、」
「ごめんな杏里、すぐ終わるからさ」
言いながら正臣が黒板に描いたのは、下着を身に着けた女の子の絵。
…ちょ、何でそんなもの描いたの。何で杏里ちゃんは見ない方がよくて私は見て大丈夫なの。
っていうか何でそんなに上手なの、チョークで描いてるのに。
「何でそんなものを描くの!?」
「お前が俺の頭は春だ春だ言うから、お望み通りに春らしいものを描いたんだぞ?春と言えば春風だ。新しい制服に身を包んだ女子のスカートがめくれて…」
「わっ、!」
正臣が言おうとしていることが(方向性だけは)わかったので、とりあえず杏里ちゃんの耳を高速で塞いでみた。
…うん、この反応はびっくりしてるからなのかもしれないけど、別に顔赤くなってないし聞こえてはいないんだろう。
「…正臣、杏里ちゃんがいるのにそんなこと言っちゃ駄目だよ」
「おっと、悪い悪い!ってことで、俺が何を言いたいかというとだ…ナンパに行こうってことだ」
とりあえず変な話は終わりを迎えたらしい。
耳から手を離して軽く謝ってから眼鏡を渡せば、杏里ちゃんは不思議そうに首を傾げた。
「幸いにも今は花見のシーズン!今年は桜前線がだいぶ遅れてきたから、今週の土日…っつーか明後日がちょうど見頃らしいぜ!そんな時に女の子をお茶に誘わないで他に何するってんだ?」
「花を見ようよ」
「お茶…?」
「正臣は頭の中がお花畑だから、杏里ちゃんは気にしなくていいよ」
「そう、なんですか?」
「そうなんです」
またしてもこてん、と首を傾けた杏里ちゃん。
にも関わらず話を続ける正臣は…とりあえず帝人に任せることにして。
「この辺だったらどこがお花見の定番スポットなの?」
「えっと…定番なら、多分上野とかだと思うんですけど…すいません、私もよくわからなくて」
「そっか。でも桜って綺麗でいいよね」
「――そう、ナンパです」
杏里ちゃんと話をしていたせいでよくわからなかったけど…
紀田正臣、何がどうなってその結論に至った。
「正臣」
「何だ?」
「花を見ようよ。でなきゃ、病院に行こう?」
窓から黒板の方に目を向ければ、帝人は冷たい視線でさっきよりもだいぶえぐいことをつぶやいていた。
…なんていうか、本当に仲がいいな、あの2人は。
「あ、あのさ。園原さんと柴崎さんは、明後日って空いてる?」
ナンパがどうこう話していたのにも関わらず、突然話を振られて驚いた。
いや、ナンパに関して(おそらく)熱弁をふるっていたのが正臣だけだってことはわかってる、けどさ。
「…すいません。その日は用事があって」
「そ、そっか…」
少し、いやかなり残念そうな帝人の表情に、何だかこっちまで悲しくなってくる。
…でも多分、その理由は帝人とは違う。
わたしは来年の今頃、私たちの、いや、この3人の関係がどうなるのか知ってるから。
だから寂しくて、悲しくなる。
「あの…柴崎さんは?」
「…杏里ちゃんが行かないなら、私も遠慮するよ。行くならみんなで行きたいし」
うそ。
本当はすっごく行きたい…っていうか、私は行けなくても構わないけど、この3人にはものすごく行って欲しい。
けど3人での思い出を作って欲しい私としては、そこに杏里ちゃんがいなければ意味がない。
そしてそれを伝えて不審に思われたくはない私は、ただこのぬるま湯がどうしようもなく心地よくて、大切で、愛おしくて、守りたくて。
すべてを知っておきながらぬるま湯に浸かる私は、ひどく残酷で、ずるい人間だと思った。
ぬるま湯に浮かぶ
(その先にあるのは、私も知らない未来)
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