ただの女の子でいたかった


自分の考えがひどく矛盾していることに、今になって気が付いた。
知らない未来になるのが怖い、けれど知っている未来になるのを避けたい。
そんなの、どうしたって相容れることのないわがままだった。


「…ただいまです」

「おかえり。濡れてないのを見ると、雨には降られなかったみたいだね」

「雨降るのは夜になってからじゃありませんでしたっけ」


ガチャリと音を立てて開いた扉の向こうには、ちょうどコーヒーを淹れようとしていたのか、瓶にスプーンを突っ込んだ臨也さんが立っていた。
希未も何か飲む?そう言って問いかけてきた彼にこくりと頷き紅茶を要求すれば、臨也さんは手際よく用意を始める。


「…いやそれコーヒーじゃないですか」

「そうだけど?」

「私紅茶がいいって言ったんですけど」

「でも俺はコーヒーの気分」

「だからなんですか」

「わざわざ紅茶を淹れるのが面倒だからコーヒーで我慢して」

「………………」


もういいです。
私のカップに入れられたコーヒーの顆粒を目にした私は、眉をひそめながらキッチンへ入る。
まったく、面倒なら『何か』なんて言い方するなよ。そう思いつつ、私はミルクパンに牛乳と紅茶の茶葉を入れた。


「なに、ロイヤルミルクティー?」

「そうですけど」

「紅茶が良かったんじゃないの?」

「あてつけです。臨也さんがほんのちょっとの手間を面倒くさがるから、それならもっと面倒くさいものを淹れようと思って」

「じゃあ俺もそれにしようかな」

「…は、」


あんたコーヒーの気分だったんじゃないのか。
そんな思いで臨也さんを見上げれば、彼はいつもの嫌な笑顔を浮かべて言う。


「ロイヤルミルクティーって自分で作るの面倒だからね」


どうせ作るなら俺も飲む、というところだろうか。
相変わらずの笑顔を崩さないまま言った臨也さんに、私はため息を吐いた。


「…あの、臨也さん」

「何?」

「突然ですけど、私今日杏里ちゃんの家に泊まるので」


唐突な私の言葉に驚いたような顔をした臨也さんは、急だね、と呟いた。


「ついさっき決まったんですもん」

「何でいきなり?」

「この前帝人が誕生日だったので、そもそも明後日の終業式が終わったら夕食も兼ねて杏里ちゃんの家でお祝いすることになってたんです」

「だからってなんで泊まるの?」

「杏里ちゃん料理が苦手らしいんですよ。だから練習したいけど、私の迷惑になるんじゃないかってずっと言い出せなかったみたいで」


つらつらと述べたが、ほとんどが嘘である。
真実なのは人の家に泊まるということだけ、それも相手は杏里ちゃんではなく岸谷さんとセルティさんのお宅だ。

帝人や杏里ちゃんと別れたあと、私は岸谷さんに連絡をした。
これから数日、家に泊めていただけないでしょうか。それに対する答えは「いいよ」。即答だった。
私が彼らの家に泊まらせてもらいたいと思った理由は2つ。
1つは、私の記憶が正しければ、今夜杏里ちゃんは黄巾賊が集会をしている廃工場を訪れるため。そしてそのあと、彼女はセルティさんによって彼女たちの自宅に連れてこられるため。
2つめは、これも私の記憶が正しければ、明日にでも正臣が臨也さんを訪ねてここに来るため。

必死に思い出した今後起きるだろうそれらの出来事を思えば、岸谷さんたちの家に泊まらせてもらうことが、一番無駄のない動きだったのである。
以前臨也さんと喧嘩のようなものをして彼らの家に泊まった際、何か困ったことがあったらいつでも連絡しておいでと言って電話番号とアドレスを教えてくれた2人には、本当に頭が下がる思いだ。


「ということで、いったん服とか下着を取りに帰ってきたんです」

「すぐに行くの?」

「部屋の片づけをしたいって言ってたので、今日と明日の臨也さんの食事を作ってお風呂入ってから行きますよ」

「そう」


信じてる信じてる。
まったく疑っている素振りを見せない臨也さんに内心ほくそ笑めば、ミルクパンの中の牛乳が沸騰し始めた。

その瞬間、



「希未、何企んでんの?」

「 は、」



思いがけない臨也さんの発言に、私は言葉を失った。
企んでる、って、どうして。
私はもっともらしい嘘を吐けたはずだ、この前帝人が誕生日だったのも、終業式のあとにお祝いをしようと話していたのも、杏里ちゃんが料理が得意じゃないのも本当。そこに関しては、嘘はひとつも吐いていない。

なのに、どうして。
どうしようとにわかに焦り始めた脳内、そして動揺を悟られないようにつとめて平静を装えば、臨也さんがクツクツと笑う。


「冗談だよ」

「…え、」

「カマかけてみただけ。いいよ、行っておいで」


びっくり、した。
彼の放った言葉を理解するごとに心臓は落ち着いて、私の中に安堵が広がる。

いや、でも油断しちゃいけない。
この人は、私が罪歌の正体を知っていることを知っている。そして、ダラーズのリーダーが誰か知っていることも、知っている。
そして何より、臨也さんが何をしようとしているか知っていること、加えて私の正体をこの人は知っているんだ。

私がどれだけのことを知っているのか話したことはないから、臨也さんは想像するしかない。
けれどこのタイミングで杏里ちゃんのところに泊まりに行くというのは、どう考えても浅はかだった。
臨也さんが本当にカマをかけただけで疑っていないのか、私には、確かめる余地なんてない。
疑われていたとしても、気付かれていたとしても、私はもうどうすることもできないのだ。


「ちょっと希未、」

「えっ」

「鍋。牛乳吹きこぼれてるよ」

「…うわッ」


一気に現実に引き戻れた頭で手元を見れば、ぼこぼこと勢いよく沸騰する牛乳が鍋の淵を伝っていた。
わわ、大変。急いでガスを止めた私の心臓は、再びどくどくと鳴り始める。


「どうしたの希未」

「いや、すいません、何でもないです」


何も気付いてない、みたいな表情をしてる臨也さんだけど、本当は私の思惑なんてすべてお見通しなんじゃないか。
ついさっきまで余裕があった私の心からは完全にそんなものなくなってしまって、自分の言動が逐一臨也さんにチェックされているような気がしてならない。……全部、杞憂であってくれるといいんだけど。


「ちょうど材料あるので、今日の夕食はハヤシライスでいいですか?」

「うん、いいよ」

「明日の分は何かリクエストあります?」

「何でもいいよ」


それが一番困る、なんて思いながら冷蔵庫の中にある食材に頭を巡らせる。

……譲れないことに対しては、私は絶対に譲らないと臨也さんには何度も言った。
だから、嘘を吐いてることへの罪悪感なんて、抱く必要もないのに。


「 それじゃ臨也さんの好きな物作りますね、」

「希未が作る物だったら、俺は大抵好きだけど」


なぜだか少しだけ心がちくりとしたので、臨也さんの好きな物を作ろうと思ったのに。
その旨を放った直後、当たり前のように向けられた言葉に、私は目をパチパチと瞬かせた。


「 そ、う、なんですか」

「希未料理上手くなったしね。俺が嫌いな食材使う時も、味付けとかで食べられるようにしてくれてたでしょ」

「…………、」


気付いて、くれてたんだ。
臨也さんはこれまで一度だってそんなこと言ってきたことなかったし、私だって、一度も話したことはなかった。言ったところで余計なお世話だとか頼んでないだとか言われるだろうことは、目に見えていたからだ。

なのに、臨也さんはそんなことこれっぽっちも思ってなさそうに言って。
どうしてこんな時に、悪意なんて全く感じさせない表情で、そんなことを。


「…何、その顔」

「……その顔って、どんな顔ですか」

「……………」


問いかけとも言える言葉に質問で返せば、臨也さんは黙り込む。
その顔って、私は今、一体どんな顔をしているのだろう。見当もつかないけれど、じっと眺めた臨也さんの表情は、少し困ったような、けれどほのかに喜びを感じさせるようなそれだった。


「……あ、の。臨也さん、」

「…何でもないよ」

「え、何ですかそれ」

「何でもないんだって。ほら、ミルクティー冷めるよ」


臨也さんが指さしたミルクパンを見てみれば、ついさっきまで沸騰し吹きこぼれていたことなんて嘘のように、静かにそこに存在する薄茶色の液体。
そんなに長い時間放っておいたつもりはなかったのに、すっかり湯気はなくなっていた。


「希未」

「…はい?」

「気を付けて行ってくるんだよ」


まだ家を出る段階じゃないのに、どうしてそんな。
これまで数えるほどしか見たことない優しい表情に、私の心は、またチクリと痛んだ。

 



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