「美尋ちゃん」
「 え、」
ある日の学校終わり、バイトにいそしんでいた午後6時頃。
お店に来たその人は、わたしを見てにやにやと笑った。
「……失礼します」
「は?」
ぱたぱたぱた、と急いでバックヤードに戻り、速くなりすぎた鼓動を沈めるために胸をとんとんと叩く。
いや、何でいるの?無理無理無理、本当に無理なんですが。
「美尋ちゃん、急に戻ったりしてどうしたの?お客さんびっくりしてたよ?」
店内とバックヤードを仕切るカーテンが開いて、肩がびくっと跳ねた。
けどそこにいたのはあの人でもなんでもなく、わたしより2つ上の先輩。
「うう…!」
「えっ、ほんとどうした?何か嫌なこと言われたの?」
いろいろな理由で泣きそうな顔をしていたわたしを心配してか、先輩がカーテンの向こうからバックヤードに入ってくる。
その拍子に抱きつけば、彼女は驚きながらもわたしの背中をぽんぽんと撫でてくれた。
「美尋ちゃーん、ご指名だよー」
「え…だ、誰ですか?」
「えーっと…今入ってきた人。あ、黒髪で黒い服着てる人ね」
「!!」
抱き合うわたしたちに驚きつつも、体はカーテンの向こうのまま別の先輩がわたしにそう声をかけた。
嫌だ、絶対に行きたくない。
そ、そうだ。ここは体調が悪いとか何とかで乗り切ろう…!
「すいませ、わたし体調が悪いって伝え―…」
「何か『早くしないとシズちゃんにばらすよ』とか言ってたけど…あの人知り合い?」
すごい格好いい人だね、なんてのんきに話してますけどね。
いや、あの人中身かなりえげつない人ですよ?
「…わかりました」
「何かよくわかんないけど頑張って!」
ああ先輩、あなたの笑顔がまぶしい。
少し、いやかなり憂鬱なままでバックヤードから出れば、にやにやとこちらに目を向けるあの人が見えた。
「案外早かったね。そんなにシズちゃんに知られたくない?」
「……何のご用ですか」
「いいの?そんな態度とって。今すぐシズちゃんに連絡することも出来るんだけど?」
そんなことを言いながらポケットの中の携帯を出そうとする臨也さん。
静雄さんここです、早く来てください。いや、やっぱ来ちゃダメです。
「ものすごくすみませんでした」
「うん、まあいいよ。とりあえずホットコーヒーもらえる?」
「あ、はい…」
案外すんなり解放されて、ちょっと肩透かしを食らったような気もしないでもない。
けどこの状況で臨也さんから離れることが出来るなんて、それ以上に嬉しいことはないよね。
まあそんな思いも、回転率や提供時間の短縮のために用意された、ポットとインスタントコーヒーを前にもろくも崩れ去るんだけど。
「…お待たせしました」
「変なもの入れてないだろうね?」
「臨也さんと違いますので」
「……」
「あああすいません!入れてません!むしろお砂糖とミルクお好きにどうぞ!」
無言で携帯を取り出した臨也さんに焦ってそう言えば、「どんだけ嫌なの」と臨也さんが笑う。
く、くそう…!
「もういいよ、普段通りで。やっぱりいつもの君の方が面白いしね」
「はあ…」
「ああ安心して、普段通りの態度取ってもシズちゃんにバラしたりしないから」
「ほんとですか?」
「うん。さっさとバラしちゃってもいいけど、君の弱みを握ってるってのも悪くない」
入れた砂糖をスプーンでかき混ぜながら、臨也さんはそう言って笑う。
…本当に黙っててくれるのかはわからないけど、とりあえず今はその言葉を信用するしかなさそうだ。
「それにしても、案外似合ってるじゃない」
「はい?」
「うん、似合ってるよ」
「…どうも」
まったく嬉しくない。
むしろ眉間に皺が寄るのが自分でもわかって、臨也さんはそんなわたしにますます目を細めた。
「美尋ちゃん」
「はい?」
「この前は楽しいことになったね」
この前ってなんだろう、と思い返事を返さないでいると、「区役所の近く」と一言臨也さんがつぶやく。
…ああ、あの時のことか。
「…っていうか、そのせいでわたし絡まれたんですよ!」
「そうなの?完全な逆恨みじゃん」
「逆恨みも逆恨みですよッ。臨也さん狙いだったのに静雄さんに殴りかかって、それでぼこぼこにされたからって何で怒りの矛先がわたしに向くんですか!静雄さんに喧嘩売ったあの人たちの自業自得じゃないですか!そのせいかは知らないけど、何か静雄さん最近不機嫌だし―…」
「美尋ちゃん」
「えぇ?」
ぶり返してきた怒りのまま臨也さんの指差す方を見れば、お店の先輩たちがわたしたちを見て目を丸くしている。
あ、店長さんだけは睨んでる…やばいやばい、気をつけないと。
「で、それは大丈夫だったの?」
「……相手の人が、あまり頭が良くない方々でしたから」
「そう、それは何よりだ」
さっきより小さめな声でささやくように言えば、臨也さんはコーヒーを一口飲んで笑う。
ああもう、あれ元はと言えば臨也さんのせいなんですからね。
何があったのかは知らないけど、臨也さん狙いだったってことはあなたが何かやらかしたってことなんですから。
「シズちゃんがあそこまでしてるのを見たのは初めて?」
「……あれとは別方面でキレてるのは見たことありますけど、あんなにたくさんの人を相手にぽんぽん投げまくってるのは初めて見ました」
「どうだった?」
どう、って。
怖かったと言えばいいのか、怖くなかったと言えばいいのか、それともどちらでもない、別のことを言えばいいのか。
「心配、でした」
「心配?…ああ、シズちゃんが誰かを殺しちゃったりしないかって?」
「いや、あの、そっちじゃなくて」
静雄さんの身が。
蚊が鳴くような小さな声で言ったけれど、臨也さんの耳にははっきり届いたらしい。
「…は、シズちゃんの身が?あいつが化け物なのは美尋ちゃんだってわかってるじゃない」
「…化け物って言わないでくださいっ」
「でも普通の人間と違うのはわかってるだろ?」
「それは、」
さっき以上にどう答えていいのかわからなくて、思わずうつむいてしまう。
静雄さんは確かに化け物なんかじゃない、ちゃんとした人間だ。
けれどそれが、そこらへんの人や、わたしとまったく同じと言うと、少々語弊があるのも事実で。
「怖かった?」
「…静雄さんがああいうことをしたこと自体は、怖くなかったです。びっくりはしましたけど」
「へえ?」
試すように言う臨也さんの言葉の一つ一つが不愉快で、わたしの眉間にはとうとう皺が刻まれた。
この人は結局のところ何が言いたいんだろう。
そう思った時、臨也さんが小さく息を吐いて立ち上がった。
「それじゃあ、ご馳走様」
「…え?」
「何?まだいてほしい?」
その言葉に全力で首を横に振れば、素直だねえ、とまた臨也さんが笑う。
帰ってくれるのは、何よりなんだけど。それにしても、あまりにあっさりし過ぎてない?
「そうだ、美尋ちゃん」
「はい?」
「もうすぐこの街で面白いことが起きるよ」
お楽しみに。
わたしの耳元に口を寄せた臨也さんに、嫌な予感が背中をかける。
臨也さんが言う、面白いこと。それはつまり、わたしたちにとっての嫌なこと。
「………」
カランカラン、と臨也さんがお店を出て行った音がする。
それから数分、先輩さんに声をかけられるまで、わたしはその場から動けなかった。