「あ、」


夜中にも関わらず、いや、夜中だからか家まで送ってくれた静雄さんと別れたあと、私は倒れるようにして眠った。
そうして目が覚めた部屋の中は何もかもがいつも通りで、何の変哲もない当たり前の土曜日で、もしかしたら昨夜のことは夢だったのかもしれないと思えるほど日常だった。

けれど、ただひとつ。
無意識のうちに動かしていた左手の痛みとそこに巻かれたよれよれの包帯だけが、昨夜の出来事は決して夢ではないのだと証明してくれていた。

そして今は、それから数時間後。


「静雄さんっ」

「おう、………あー、」

「…美尋です」

「そうだ、美尋だ」


午後4時半。池袋駅前……というか、バイト先の居酒屋があるビル付近。前方を歩く、静雄さんを発見しました。
名前を忘れられていたことは……うん、まあ昨日初めて会ったばかりだし、気にしないことにしよう。


「静雄、知り合いか?」

「昨日ちょっと知り合ったんすよ。美尋、俺の中学と仕事場の先輩のトムさん」

「えっと、初めまして、大槻美尋です」

「田中トムです。よろしく、美尋ちゃん」


軽く頭を下げて挨拶すれば、トムさんと呼ばれたその人はにこっと笑う。
後ろ姿だけで静雄さんだってわかって咄嗟に声かけちゃったけど、まさか人といたなんて思わなかったから少し申し訳なくなった。
でも2人とも気にしてないみたいだし、とりあえずよかった。


「何してたんだ?」

「新羅さんの家に行くところだったんですよ」

「…あいつん家、こっちの方向じゃねぇぞ」

「あ、それは知ってるんです」


でもちゃんと思い出せなくて。だから、昨日の記憶を頼りに、ここから行こうと思って。
私がそう言うと静雄さんはハッとしたような表情を浮かべ、でもすぐに笑う。


「そっか、そうだよな」

「はい?」

「道わかんなくて当然だよな、昨日は俺が連れてったんだから」

「…すいません」

「何でお前が謝んだよ」


頭に軽く手を乗せ、静雄さんがまた笑った。
トムさん(って呼んでいいのかな)は何だかよくわからないといった風で、目を丸くして私たちを見ている。


「ここ右に行ったら交差点あるだろ?」

「はい」

「そこ左に曲がったらコンビニがあるから、その角行ったらすぐ着く」

「おお、助かります」

「俺が一緒に行ってやれたらいいんだけど、仕事中だからな」


悪い、と言いながら、静雄さんがペンを出す。
かと思えば私の手に何か書き始めるし、どうしたんだろう。


「これ俺の番号だから、もし迷ったりわかんなくなったらかけろよ」

「おお、すいません」


なるほど、ありがたい。
っていうかこの時間帯にここにいて、一緒に仕事をしているっていうトムさんがスーツを着ているとこを見ると、本当にバーテンさんじゃないようだ。


「や、静雄行ってもいいぞ?」

「いや、そういうわけには、」

「大丈夫だって。そんな時間かかんないんだろ?」

「だっ…駄目です!」

「は?」


静雄さんとトムさんの会話に割って入った私に、静雄さんが声を上げる。
2人とも驚いたような顔をしているけど、流石にそこまで迷惑はかけられない。


「私は大丈夫ですから、静雄さんお仕事続けてください」

「…本当に大丈夫か?」

「大丈夫です!」


笑いながらそう言えば、静雄さんも安心したように笑う。
よかった、今日は迷惑かけないで済みそうだ。
初めて会った日のうちにあんなに迷惑かけておきながら、仕事まで抜けさせるわけにはいかないよね。


「俺今日は早く仕事終わるから、そのまま新羅の家で待ってろよ」

「え?何でですか?」

「昨日言っただろ、飯連れてってやるって。仕事終わったらあいつん家迎え行くからよ。…っと、それとも何か用あったか?」

「な、ないです、ないですけどっ」


ごは、ん。
そんなワードに頬が緩みそうになりながらも、よだれが垂れそうになりながらも、自分の中に確かに存在する常識との狭間で揺れる。

相手は昨日初めて会った人だ、それにたくさん迷惑もかけて、今だって仕事中なのにこうして声をかけてしまった。
けど静雄さんは善意で言ってくれていて、私自身外食なんて随分していないし、そもそも誰かとの食事というのも学校生活を除けば私の日常においては存在しないに等しい。色々な意味で、魅力的ではある。
でもやっぱり申し訳ない、ああ私はどうしたら。

そんな天使と悪魔の囁きにも似た葛藤が私の脳内で繰り広げられていると知らない静雄さんは、安心したような声で言う。


「じゃあ決まりだな。あとで迎え行くから待ってろよ」

「えっ、あっ、はいっ」

「ん、また後でな」

「あ…はい、」


葛藤した意味とは。
そう誰かに問いたくなるほどにあっさり決まってしまったこの後の予定に、本当にこれで良かったのだろうか、とひとり自問自答を繰り返す。
私って、こんなにがめつい子だったっけ。質素な生活がそうさせたのかな。誘ってきたのが静雄さんの方とはいえ、一度も断ることなく了承するだなんて図々しい子だと思われただろうか。

そんなことを考えながらも、新羅さんの家に向かう私の足取りは明らかに軽い。心持はいつもより晴れやかだ。
普通に歩いていたつもりだった足は徐々に早歩きになり、ついには腕を軽く振り駆け出している。
どうやら私は、とてつもなく今日の夜ご飯を楽しみにしているらしい。



******



「…意外だったな」

「何がですか?」


失礼します、と言って頭を下げた美尋。
そうして歩いて行った小さな背中を見ていると、横に立ったトムさんが踵を返してぽつりと呟いた。


「見た目的にあの子女子高生だべ?まさか静雄があんな若い子と知り合いだとはなあ」

「あー…昨日俺のせいで怪我させちまって、知り合いの医者のとこ連れてったんですよ」

「なるほどな、そういうことね」


昨晩のことを思い出すと、自然と眉間に皺が寄った。
…あいつは俺のせいじゃねえって言ってたし、新羅の奴も気にするなっつってたけど、やっぱ俺のせいだよな。


「いい子じゃん、これからも仲良くしろよ」

「…っす」


トムさんはこう言うが、ただの高校生なあいつとこんな俺に、これからなんてものがあるのかはわからない。
この後飯に行くことになってはいるが、それだってあいつが望んでいるかはわからない。そうじゃないとは思いたいが、断り切れなかっただけという可能性だってゼロじゃない。

そんなこと考え始めたらキリがないのはわかってるつもりだし、もう話しちまった今、あいつの連絡先を知らない俺にはもうどうしようもないから、このまま仕事を続け、終わり次第新羅のところに行くしかないわけだが――…


「そんじゃちゃっちゃとやっちまうか。静雄は予定もあるわけだしな」

「…トムさん、その言い方は、」

「何だよ、事実だろ?あの子だって楽しみにしてるみたいだし、さっさと行ってやった方がいい」


女は待たせるもんじゃねえぞ。
美尋が向かった方、俺たちにとっての背後を眺めながら言ったトムさんが、俺の背中を軽く叩く。

あいつが楽しみにしてる?さっさと行ってやった方がいい?
何を根拠にそう言ったんだ、なんて思いながら振り向くも、そこに美尋の姿はない。
そうして歩き出したトムさんに続き、正面を向いた俺はすぐさま後に続く。

この時の俺は、自分自身の日常に小さな女子高生が加わることを、まだ知らない。


 



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