「で、欲しいもん決まったのか?」
3月14日。
先日の休日出勤の分だ、と休みになったらしいこの日。
一週間くらい前のことを思い出して涙が流れそうになるのをこらえながら、わたしは静雄さんに笑いかけた。
「静雄さん、今日は静かに過ごしましょう」
「…は?」
「平和に静かに…静雄さんが今日という日を穏やかに過ごせるなら、わたしはそれ以上に望むものなんて何もありません!」
拳を突き上げんばかりの勢いで言えば、「意味わかんねえ」という声が目の前から聞こえてきた。
わたしの学校も春休みに入り、自分自身も休みになったからということで、静雄さんはわたしの欲しいものを買いに行くつもりだったらしい。
うん、その気持ちはありがたい。けどね、
「…わたし、この前門田さんに聞いたんです」
「門田?何聞いたんだ」
「静雄さんが高1の時の、ホワイトデーの話です」
最初こそ「何のことだ」と言いたげだった静雄さんの表情が、次第に苛立ちに満ちたものに変わっていく。
あああちょっと待ってください、心から待ってください!
「あの、違くて!別にイライラさせようとしたんじゃないんです!」
「…ああ?」
「門田さんにその話聞いたから、今日は静かに、過ごごしたいって、思って…」
発した言葉が尻つぼみになっていくのを感じながら、静雄さんの顔色を恐る恐る伺う。
怒っては…いないらしいけど。何を考えてるのかわからない表情だ。
「あの…駄目でしょうか」
「…駄目ってことは、ねえけどよ」
「…けど?」
わたしと同様に歯切れ悪く言った静雄さんは、頭を掻きながらぽつぽつとつぶやく。
「何つーか…俺だって、お前に喜んでもらいたいとか…そういうこと、思わないわけでもねえんだよ」
「…はい」
「…あああああ面倒くせえ!」
えええええええええ。
突然大きな声を出した静雄さんに、びくっと肩が震えてしまう。
「し、静雄さん?」
「出かけるぞ」
「は?」
「出 か け る ぞ」
ちょ、いきなり意味がわからない。
そんなことを思いながらも、静雄さんの威圧感におされたわたしはただ頷くしかなかった。
******
どうしてこうなった。
「まずは昼飯食うか」と、語尾の割にこちらに対して意見を促す気などなく、ほぼ断定でそう言った静雄さんに何も言えなかったわたしは、そんなことを考えながら60階通りを歩いていた。
「あれ、美尋っちとシズちゃんだ」
「…狩沢さんっ!」
よかった、何かわからないけど助かった。
そんな思いで狩沢さんの方に近づけば、ワゴンの中から降りてくる門田さんたちが見えた。
「よう、静雄は久しぶりだな。これから買い物か?」
怯える、と言ったら言いすぎだけど、それに順ずる表情をしていたわたしを不思議そうな顔で門田さんが眺める。
あうう、どうしよう。
わたしに“ブラッディ・ホワイトデー”について話したってことで、門田さんが怒られたりしないといいけど…
「…いや。飯食い終わって、これからどこ行くか考えてたとこだ」
「そうか」
あ、れ。
正直ハラハラしながら静雄さんを視界の隅にとらえていたんだけど、静雄さんは門田さんを怒ることもなく呟いた。
「おい、女ってどういうとこが好きなんだ?」
「…え、わたしに聞いてるの?」
「おう」
わたしの目の前にいる狩沢さんにそう言った静雄さんに、彼女は驚いて目を丸くする。
…えっと。この場合の“女が好きな場所”に連れて行きたい“女”っていうのは、多分わたしのことなわけですよね。
でも何でわたしいる前でそれ聞いちゃうんですか?
「…それって美尋っちをどっかに連れて行きたいってことだよね?」
「…どこ連れてっていいのかわかんねぇんだよ」
「………美尋っち、ちょっとドタチンたちとお話してきてくれるかな?」
有無を言わさない声色と笑顔でそう言った狩沢さんに、「はい」以外の言葉なんて言えなかった。
いやいや何なの。
今日はホワイトデーだよ?多分普通の平日と比べたらハッピーな日だよ?
なのに何でこんなに威圧感を感じなきゃならんのだ。
「…大槻、何があったんだ?」
「なぁんかいつもと違うっすよねぇ」
「……顔色悪いけど大丈夫か?」
門田さん、ゆまっちさん、そして渡草さんの言葉に少し胸がホッとする。
あああ…何だってんだ今日は…
「…バレンタインのお返しに欲しいものは、ホワイトデーまでに決めるって言ってたんです…」
「確かホワイトデーは…静かに過ごすとか言ってたよな」
そうなんです。
渡草さんの言葉に頷いて、わたしは話を続ける。
「この前門田さんに聞いたことについて話した上で、静雄さんが平穏に過ごせるならそれ以上に望むものはないって言ったんです」
「…あー、なるほどな」
「美尋ちゃん、それはいけないっすよ」
「え?」
困ったような顔でため息を吐いた門田さんと、ゆまっちさんの言葉の意味がわからない。
いけない?何が?
「悪いな、俺が余計なこと言っちまったみたいだ」
「いやいや、門田さんは悪くないっすよ。っていうか、この場合は誰も悪くないっす」
「?」
「何つーか、美尋ちゃんが男心をわかってなかっただけだ」
「…おい渡草、そんなハッキリ言ってやるなよ」
3人が口々に言った言葉の意味が、わたしにはいまいち理解できない。
余計なこと?誰も悪くない?男心?どういうことだろう。
「静雄さんは、自分がバレンタインにチョコもらったことが嬉しかったんすよ!」
「…え?」
「だから美尋ちゃんにも喜んで欲しかったんっす」
でもわたしは、静雄さんが平穏に過ごせるなら、それでいいって思ったのに。
それがわたしにとって嬉しいことだったのに、いけないことだったの?
「別に、大槻が静かに過ごしてほしいって思ったことが悪いってわけじゃないぞ」
「はい、」
「けど、自分も嬉しかったから、美尋ちゃんにも喜んでほしかったんすよ。嬉しそうな顔が見たかった、って言った方が正しいっすかね?」
ゆまっちさんの言ってる意味がわかった瞬間、家を出る前に静雄さんの言葉の真意に初めて気付いた。
それってつまり、わたしが思ってたことと一緒なんじゃ、
「美尋」
そこまで考えたところで、背後からかけられた声に肩がびくっと反応した。
か、狩沢さんとのお話は終わったらしい。一体何のお話を、
「水族館行くぞ」
…何の話をしていたのか、聞く前にそう言い放たれた。
えっと、ちょっと待って。どうしてそうなった。
「ってことはサンシャインか」
「よかったねー美尋っち」
「え?は?…え?」
「じゃあ今日はデートっすね!」
わけがわからないまま、狩沢さんに頭を撫でられている間に言ったゆまっちさんの一言に静雄さんが反応した。
…ちょ、ちょっ静雄さん!
「静雄さん!ゆまっちさん死んじゃいますから!」
「………」
眉間に皺を寄せたままわたしの方を見た静雄さんは、数秒考えた後にゆまっちさんから手を離す。
もう、ちょっとからかってきただけじゃないですか。
…いや、まあ静雄さんには絶対やっちゃいけないことなんだけどね。
「…行くぞ」
「え、あっ、」
「じゃあねー」
急に手をつかんできた静雄さんの驚きながらも振り返れば、さっきより遠くなった狩沢さんがわたしたちに向かって手を振っている。
…大丈夫かな、ゆまっちさん。
いや、それよりも今は静雄さんだ。
「し、静雄さん!」
「…あ?」
「あの、水族館行くんですか?」
「…嫌いか?水族館」
嫌いじゃ、ない。
っていうかむしろ好きだけど、……あああああ!
「…何かよくわからないですけど、楽しみです」
狩沢さんとどんなことを話したのかとか、どうして水族館なのかとか、いろいろ聞きたいことはある。
けど、少しでも静雄さんが安心してくれるなら。
そう思って言った言葉に笑った静雄さんは、わたしの手をそっと離した。