「…んん?」
それは3月3日、いわゆる雛祭りの日。
60階通りをサンシャイン方面に歩いていると、やたらと笑顔の狩沢さんがいた。
「美尋っちー」
「狩沢さん、こんにちはー」
「いやー、ちょうどよかった」
「?」
何のことだかさっぱりわからないわたしに、狩沢さんはにこにこ笑いながら近づいてくる。
どうしたんだろう。
「美尋っちさ、バイト見つかった?」
「それが…なかなか条件が合わなくて」
「よかった!」
「え?」
いや、何も良くないですよ狩沢さん。
そんなことを思いながら見つめてみると、彼女はますます楽しそうにわたしに語りかける。
「あのさ、年末年始に働いたメイド喫茶あるでしょ?」
「はい」
「あそこね、進学とか就職で今度たくさん辞めちゃうらしくてさ」
「はあ…」
嫌な予感しかしない。
「だからさ、また働いてみない?」
「………」
「あれ?美尋っち聞こえてる?」
「は、はい。聞こえてはいるんです、けど…」
聞こえてはいた、確かにはっきりと聞こえていた。
けどね、何ていうかね。どうしたらいいんだろう、わたし。
「都合悪い?」
「いや、そういうわけじゃないんですけど…その、単純に恥ずかしいのと」
「と?」
「静雄さんにどう言えばいいのか…」
そう、問題はそこだった。
確かに同じメイド喫茶だったら、少しだけどやったことのある仕事だからまあ大丈夫だろう。
それに時給もよかったし、あのふりっふりの服を着るという羞恥心を除けばほぼ問題はない。
けど、その数少ない問題の1つが、静雄さんなわけで…
「カフェで働くって言えば?別に嘘じゃないんだし」
「…条件は、また一緒で平気なんですかね?」
「ああ、そこは大丈夫みたいだよー」
そうか、前と同じ感じでいいのか。
…それだったら、羞恥心に耐えればいいだけなわけだし…やってみてもいいかもしれない。
いや、すっごく恥ずかしいけどね?
「大丈夫だよ、美尋っちあれすごい似合ってたし」
「も、もう言わないでくださいよ!」
「何でよー、ゆまっちだってそう言ってたよ?」
ううう、狩沢さんたちが来た時のことは思い出すだけでも恥ずかしい。
似合ってる似合ってる連呼されて、写メぱしゃぱしゃ撮られまくって、本当に怒る直前になってやっとやめてくれたんだもんなあ。
「美尋っちなら面接もなしでいいって店長が言ってたし。もし心配だったり何か聞きたいことあるなら、今度お店行って話してきたら?」
「…そう、ですね」
「大丈夫、シズちゃんには内緒にしとくから安心して!」
「呼んだか?」
「!!」
狩沢さんの言葉に安心して、お礼を言おうとした瞬間。
わたしのすぐ後ろから、聞き慣れた声がした。
「静雄、さん」
「何だよ。どうした?」
まるで木製の重いドアを開ける時のように、ギギギ、と首を後ろに持っていく。
いや、うん。すごい焦ったけど、とりあえず会話は聞かれていなかったようなので安心した。
どうやら自分の名前が呼ばれているという点についてだけ反応したらしい。
「あ、えっと…あはは!」
「あははって何だよ。俺のこと呼んだんじゃねえのか」
むしろ今だけは絶対に来てほしくなかったです。
心の中でそんなことを考え、どうごまかそうか必死に考える。
「ひ、ひとりですか?トムさん一緒じゃないなんて珍しいですね!」
「ん?ああ、何か事務所に忘れもんしたらしくてな」
「ってことは待ってるんですか」
わたしの言葉に「おう」と短く返事をした静雄さんは、サングラスをポケットにしまう。
代わりに取り出した煙草に目が行ったのは、きっと偶然じゃないだろう。
「あ、ライター」
「ん?家でもこれ使ってるだろ」
「そうですけど、外で使ってるの初めて見ました」
ここは路上喫煙禁止区域ですけどね、なんて言葉はもはや今更過ぎて言う気にもなれない。
それに今は外でも使ってくれてるのが…というところまで考えたところで、わたしたちを見る狩沢さんの視線に気付いた。
「なになに、それ美尋っちがプレゼントしたの?」
「はい。あ、前にバイトした時はこれ買うためにお金がほしかったんですよ」
1月の終わりが静雄さんの誕生日だったから。
そう付け加えて言えば、狩沢さんは目に見えて楽しそうな笑みを浮かべる。
「静雄ー」
「あ、トムさん!」
「おー美尋ちゃん、もう体調いいの?」
「はい、静雄さんのおかげでめちゃくちゃ元気です!」
「そりゃ良かった」
ご心配おかけしました、なんて言いながら笑い合っていると、お疲れ様ですだか何だか、静雄さんがトムさんに声をかけた。
ふむ、トムさんも戻ってきたし、これでお仕事を続行できるということか。
「美尋、今日飯何だ?」
「雛祭りだから、ちょっと豪華に海鮮ちらしとお吸い物です!」
「あー…雛祭りか。じゃあ今日は早く帰れそうだし、ケーキか何か買ってってやるから待っとけ」
そんなのいいから早く帰ってきてくれればいいのに。
そう思う反面、今日は女の子のための日だから、という静雄さんの優しさが嬉しいのも事実で。
「わかりました、じゃあ頑張って海鮮ちらし作ります」
「おう」
じゃあまた後でな、とわたしの頭に手を乗せて、静雄さんがトムさんとともに去っていく。
ケーキかあ、雛祭りっぽいやつだったら嬉しいなあ。
「…美尋っちさー、」
「はい?」
「ほんっとーにシズちゃんと付き合ってないんだよね?」
珍しく疑うような目でわたしを見てきた狩沢さんは、いぶかしげにそう言った。
何でそんなことを聞くのだろう。
「はい、付き合ってませんよ?」
「何で!」
「は?」
「今のやりとりで付き合ってないって方が無理あるよ!」
わけがわからないよ。
わたしたち的にはいつも通りな至極普通のやりとりだし、どこをどう見たらそう思えるんだろうか。
「静雄さんって確か年上好きですよ」
「そうなの?」
「前にトムさ…あーえっと、さっきいた静雄さんの先輩が言ってました。それにわたしたち5つくらい離れてますし、お兄ちゃんと妹みたいなもんですよー」
「近親相姦もありだと思う!」
「は?」
きんしん?とか何だとかよくわからない単語が聞こえてきたけど、その辺はもう無視しよう。
相手が狩沢さんだし、多分聞かない方がいいことなんだ。
「あーもう今ので3冊は本作れる!」
「本?」
「あっ、狩沢こんなとこいたのか!」
本格的にどうしよう、と思い始めてた時、向こうからやってくる門田さんが見えた。
よかった、助かった。
「よう大槻。狩沢が何か迷惑かけなかったか?」
「あはは、大丈夫ですよー」
ちょっと困ったりはしましたけど、という言葉はぐっと飲み込んでおいた。
早く帰らないとご飯の準備ができなくなるしね。
「それじゃ、わたし夕飯の支度しなきゃなので失礼しますねー」
「静雄によろしくな」
「はーい」
そう言った門田さんと狩沢さんに手を振って、家までの道を歩き出す。
その時何本か離れた向こうの通りの上空に舞った自販機を見て、わたしは静かにため息をついた。