「遅いなー…」
1月28日、午後11時42分。
家主のいない部屋でそう呟いたわたしは、冷蔵庫に入れられたケーキを思い1人ため息を吐いた。
「……早く帰ってきてって、言ったのになあ」
それは決して強制するようなものではなく、出来る限り、という言葉を付け加えてのものだった。
もちろん静雄さんには理由を聞かれたけど、本人はわたしが誕生日だと知ってることを知らないし、言っちゃったらびっくりさせられないから適当にはぐらかしといた。
多分気付かれてはいない。…気付いていないから、まだ帰ってきてないんだろう。
「…もう日付変わっちゃいますよ」
こんなことなら、朝起きた時に「おめでとうございます」と言えばよかった。
どうしてこういう時に限って遅いんですか、静雄さんの馬鹿。
そんなことをぼうっと考えているうちに時計の針はまた進み、時刻は11時50分になった。
「…ん?」
その時外から足音が聞こえた気がして、無意識に視線が玄関の方に向いたのには自分でも苦笑した。
静雄さんかな、帰ってきたのかな。よかった、これでやっとお祝いが出来る。
そう思ってドアスコープから向こうを覗けば、そこにいたのは紛れもなく静雄さんだった。
「おかえりなさいっ」
「…ん、ああ」
「……?」
いつにも増して少ない口数に何があったのかと思っていると、静雄さんは不機嫌さを隠そうともしないで玄関に入ってくる。
お仕事で嫌なことがあったのか、それともあの人に会ったのだろうか。
「何かありました?」
「…別に」
明らかに機嫌が悪い。
ここまであからさまに不機嫌なのを見たのは多分初めてで、だからどうしていいかなんてわからない。
どうしよう。
「…悪かったな、遅くなって」
「え?」
「何か知んねぇけど、お前早く帰って来いっつってただろ」
静雄さんがバーテン服を脱ごうとし始めたので背中を向ければ、後ろからそんな声が聞こえてくる。
その声は相変わらず不機嫌さを感じさせるものだったけど、緊張していた心は少なからずほぐれた。
携帯で時間を確認すれば11時58分。よかった、何とか間に合った。
「わたし、この前新羅さんから静雄さんの誕生日聞いたんです」
「…誕生日?」
「今日なんですよね?だからわたしお祝いしようと思って」
そろそろ着替え終わっただろうと思って振り返れば、いつもの部屋着に身を包んだ静雄さんがタバコに火を点けようとしているところだった。
表情は…やっぱり不機嫌なままだけど。
「あー…そういや今日だったな」
「ふふ、少し待っててくださいね」
そういや、ってことは自分の誕生日忘れてたのか。何とも静雄さんらしい。
けど甘いもの大好きな静雄さんのことだ、ケーキを見たら少しは機嫌も良くなるだろう。
そんなことを考えながら冷蔵庫を開け、静雄さんの元へケーキを持っていく。
「じゃん!作りました!」
「…あ?」
ずいっと差し出したケーキに目を向けた静雄さんは、一瞬目を丸くして小さくため息を吐く。
…え、どうしたんですか?
「お前さ、」
「は、はい」
「こんなもんに金使わないで、自分のほしいもんとか買えよ」
眉間に皺を寄せて言った静雄さんの言葉に思ったのは、拒否されたということだった。
どうして、そんなこと。
「珍しく早く帰って来いっつーから何かと思ったら…そんなことのためかよ」
「……」
「…はあ」
静雄さんが2度目のため息を吐くより前に、わたしの心は限界に達していた。
悲しい。静雄さんは不機嫌。何でそんな。仕方ない。否定された。
まるで天使と悪魔が囁くように、わたしの頭の中には静雄さんを責める言葉と、許そうとする言葉が交互に生まれてくる。
「…何ですか、そんなことって」
「あ?」
「静雄さんの誕生日を祝おうって、そう思うのが、そんなにいけないことですか」
言ってしまった。
そう気付いた時にはもう遅くて、ぼたぼたと涙が溢れ出す。
今まで一度だってわたしのことを否定したことのなかった静雄さんなのに、どうして今日この日に限って。
「わたし静雄さんに喜んでほしくて、おめでとうって言いたくて、っ」
「…おい、」
「だからいっぱい考えて、がんばって、それなのに、」
こんなこと言ったら静雄さんを怒らせてしまう。
ただでさえ機嫌が悪いのに、静雄さんにもっと嫌な思いをさせてしまう。
そうわかっているのに口から出続ける言葉は止まらなくて、自分でも嫌になった。
「その気持ちを、自分の誕生日のことを、」
「おい美尋、」
「“そんなこと”なんて、言わないでください…っ」
そう言った瞬間に見た静雄さんの目は珍しく見開かれていて、こんな顔を見られているのが恥ずかしくなった。
けど自分の中で溢れた気持ちとか、否定されたっていう気持ちとか、そういういろんな感情が止まらなくて、涙もどんどん流れてく。
「…すいません、ちょっと外出てきます」
「っおい、!」
静雄さんの腕がわたしを捕らえるより早く、歩き出したわたしはケーキをシンクの横のスペースに置く。
特に急ぐこともなく、靴を履いてドアを閉めたわたしを追ってくる足音なんてものは、聞こえてこない。
「…ばかみたい」
こんなことで不機嫌になって、拗ねて、家を飛び出すなんて、それこそ子供のすることだ。
けど子供なわたしにはこうするくらいしか思いつかなくて、だからこそ、夜の池袋に繰り出したのだった。