「あ、」
街が赤く染まる夕暮れ時。
昨日の静雄さんの衝撃的なお知らせが頭を離れないまま学校からの帰り道を歩いていると、アパートの入り口に見慣れた黒バイクと人の姿があった。
「セルティー」
後ろ姿だけでもわかる、完璧なスタイルとかわいい猫のヘルメット。
わたしの声に気付いたセルティが振り返って、数メートル離れたところのわたしに手を振る。
どうしたんだろ、静雄さんに何か用かな。
「どうしたの?」
《次の仕事まで少し時間があったから寄ったんだ》
「あ、静雄さんに用事だった?ごめん、静雄さんまだ帰ってないの」
《ああ、いや、美尋ちゃん上手くやってるかと思って来たんだ》
どうやらわたしを心配してわざわざ寄ってくれたらしい。優しいね。
聞けば次の仕事まであと1時間くらいあるらしいので、上がってもらうことにした。…静雄さんの許可取ってないけど、セルティだしいいよね。
「ごめんね、外寒かったでしょ」
《10分くらい前に来たばかりだから大丈夫だよ》
「そっか。あ、散らかっててごめんね」
朝わたしが出て行く時は平気だったのに、後から出て行った静雄さんの部屋着が無造作に脱ぎ捨てられていた。
もう、昨日はちゃんと洗濯籠に入れといてくれたのに、今日は急いでたのかな。
《もう慣れた?》
「うん、最初の2・3日と比べたらだいぶねー」
《良かった。美尋ちゃんは静雄と仲良いけど、実際生活するとなると別だと思ったから正直少し心配だったんだ》
「ありがと、でもちゃんとうまくやってるよ」
前より扱いが雑になられた気もするけど、それはわたしも同じだから特に問題ではないよね。
多分お互いにより慣れたことが理由だろうし。
《喧嘩とかしてない?》
「んん…言い合いはたまにするけど、大体わたしが負けるから喧嘩にならないかな」
《それは……》
「あ、大丈夫だよ、今まで通りだから」
わたしが笑って言えば安心したのか、《良かった》という文字がPDAに打ち込まれる。
んんん。昨日のあれもちょっとした言い合いに入るのかもしれないけど、もし入るならやっぱりわたし負けてるなあ。悔しい。
《静雄の帰りは遅い?》
「日によってバラバラかな。昨日は19時過ぎに帰ってきたけど、先週は夜中の3時とかに帰ってきたりもしたし」
《そ、そんなに不規則なのか?》
「静雄さんのお仕事知らないからよくわからないけど、早く終わるか長引くかはその時にならなきゃわかんないみたい」
ベランダに干してあった洗濯物を取り込み、畳みながらセルティと話す。
あ、この前血だらけで帰って来た時のシャツちゃんと白くなってる。よかったー。
《…え、美尋ちゃん静雄の仕事知らないの?》
「うん。知り合ったばっかの時にバーテンじゃないってことは聞いてるんだけどね」
《気にならないの?》
「んー…気にならないわけじゃないけど」
考えてみれば、あれ以来静雄さんとお仕事の話してないなあ。
あの時はまだわたしと知り合ってすぐだから言わなかったのか、隠したい職業なのかはわからない。
どうしても知りたいというわけじゃないけど興味がないわけでもないし、今度聞いたら教えてくれるかな。
《そっか。なら静雄本人から聞いた方がいい》
「うん、今度聞いてみるよ」
《でも、美尋ちゃんが楽しそうでよかった》
そのPDAの文字を見て、畳もうとしたタオルを落とした。
え、楽しそう?
《やることも増えて大変だろうけど、それでも前より楽しそうだよ》
「…そう?」
《うん》
「…まあ、うん。1人じゃないのは、すごく嬉しい」
どこか歯切れの悪い感じがするかもしれないけど、そんなことないよ。
ただ自分も知らなかったわたし自身の変化を、客観的に言われて恥ずかしいだけなんです。
「いつ帰ってくるかわからないから、ご飯のことで困ったり暇だったりはするけど、寂しくはないし」
《…そっか》
「帰ってくるのがわかってるから、待つのも嫌じゃないよ」
そのヘルメットの中に顔があるとすれば、セルティは今とても安心したように笑っているのだろう。
そうしてセルティがわたしの頭をぽんぽんと撫でていると、PDAが音を立てた。
「…大丈夫?」
しばらくの間PDAを眺めていたセルティが、わたしの声に気付いてこちらを向く。
お仕事だろうか。
《ごめん美尋ちゃん、仕事が早まったからそろそろ行くね》
「あ、うん。頑張ってね」
《今日は様子を見れてよかった、安心したよ》
またうちにも遊びにおいで。
そう言い残して去った黒バイクを見送り、ドアを締めて鍵をかけた時。
本当にその瞬間鳴ったインターホンの音に、思わず体が大きく震えた。
「(誰…?)」
タイミング的にセルティじゃないし…なんて思いながらドアスコープを覗けば見覚えのある人の姿。
折原臨也その人が、ドア1枚挟んだ向こう側で怪しく微笑んでいた。
「…え、何のご用ですか」
「え、チェーン外さないの?」
「外しませんよ。外して中入られでもしたら静雄さんに何言われるかわかりませんから」
「へえ、ちょっとは利口になったんだね」
まあ俺もシズちゃんがいる家なんか入りたくないけど、と言いながら肩をすくめる臨也さん。
ちょっとは利口に、っていう言葉が少しだけ引っかかるけど、まじで何しに来たんだ。
「で、何のご用ですか?」
「どうしてこの場所を知ってるか聞かないんだ?」
「だって臨也さんですもん」
「美尋ちゃんは学習能力があるね。誰かさんとは大違いだ」
「臨也さんは誰かと違ってよく喋りますね」
「ああ、やっぱシズちゃんとの生活は退屈?そりゃそうだよね、あんなただ暴力しかーーーー…」
「臨也さんは無駄口が多いって言ったんですよ」
「…君、何か辛辣になったね」
チェーンのせいでわずかに出来た隙間から見える臨也さんは相変わらず鬱陶しい。
学校以外で話す相手のほとんどが静雄さんになった今、臨也さんはこんなにべらべら話す人だったんだと初めて気付いた。
「今日はね、報告に来たんだ」
「報告?何のですか?」
「君のバイト先の先輩、クビになったよ」
忘れてない、忘れることなんかできない。
わたしがこの家で暮らすことになったきっかけである2週間ほど前の出来事が、その人のことが、臨也さんの口から語られた。
「…そうですか」
「どうして俺が知ってるのかって驚かないんだね」
「何となく、臨也さんが絡んでるんだろうとは思ってましたから」
そう言えば臨也さんの方が驚いたような顔をしてわたしを見た。
だってそうでしょ。
わたしに成りすましてあんな意味のわからないメールを送るなんて、そんなことする人臨也さん以外に考えられなかったもん。
「シズちゃんに話してなかったんだね。この前何も言われなかったよ」
「ただの推測で嫌な思いさせることないと思っただけですから。…まあ、推測じゃなくなったから今日にでも話しますけど」
「へぇ。何でもシズちゃんに話すんだ?」
「臨也さんのことに関してはそうですね」
だってそうしないと怒られるし。
その言葉は、なんとなく胸にしまっておくことにした。
「ちなみにだけど、あの時君の家のすぐ近くにいたんだよ」
「…は?」
「ま、いつもはすぐに俺を見つけるシズちゃんも、焦るあまり気付かなかったみたいだけどね」
次々と語られるわたしの知らなかった事実に、少しずつ体が強張る。
え、何で?どうして、何の意味があってそんなことをしたの?
「本当に危なくなったら俺が颯爽と登場して、助けた君をさらってしまおうと思ったんだけどね」
「……」
「まあさらうなんていつでも出来るし、これはこれで俺としては面白いことになってくれたと思ってる」
結局のところ、この人は静雄さんに嫌な思いをさせることしか考えてないんだ。
どういう手順を踏んだのかはわからないけど、先輩のこともそのために利用したんだ。
「……じゃあ臨也さんには、感謝しないといけないですね」
「…は?」
「色んな人に迷惑かけることになった点は許せませんけど、」
今わたしすごく楽しいですから、臨也さんのおかげですね。
満面の笑みでそう言えば、臨也さんは一瞬だけ鋭い視線をわたしに向けた。
こんなの、本当に思ってるわけじゃない。
自業自得にしても先輩は怪我をしたし、新羅さんやセルティにも迷惑をかけたし、静雄さんだって嫌な思いはした。
でも、この人にはこういう風に言うのが、一番効果的な気がしたから。
「…ふうん、つまんないね」
「それはどうもです。臨也さんにとっての退屈がわたしたちの幸せなので」
「君、本当に言うようになったよね」
まだ数えるくらいしか話したことのない臨也さんだけど、その数回で接し方はわかってきたつもりだ。
もちろん扱い方なんてわからないけど、きっとこの人にはそんなもの存在しないんだろうし。
「美尋ちゃん俺のこと嫌いでしょ」
「…自分で聞きます?」
っていうかどこに好きになる要素がある。
またしても肩をすくめた臨也さんは、半分呆れたような目でわたしを見る。けど、
「別に嫌いじゃないですよ」
「…は?」
「もちろん好きではないですけどね」
嫌いの逆は無関心とか言うけど、好きじゃないと言ってもそれとは違う。
何ていうのか…多分静雄さんが聞いたらものすごく怒るだろうけど、わたしが直接何かをされたわけじゃないし、この前の先輩のことだって、あれがあったから今があると思うんだ。
「シズちゃんは俺のことが嫌いなのに?」
「静雄さんが嫌ってるからってなんでわたしも嫌わなきゃいけないんですか」
「だって君シズちゃんと一緒にいるじゃん」
「臨也さん絡みで苛立たせたくはないですけど、それとわたしの感情は別じゃないですか」
わたしがそう言ったのを聞いて、臨也さんは本当におかしそうにお腹を抱えて笑いだす。
え、なにこの人こわい。
「面白い、面白いよ美尋ちゃん!」
「こわいですよ臨也さん」
「大目に見てよ。君みたいな子は初めてなんだから!」
わたしの何が面白いのか、いまいちよくわからないけどどうでもいいから触れないでおく。
ただでさえあんまりよろしくない状況なんだし、これ以上余計なことは聞きたくない。
「俺、君はシズちゃんの信者だと思ってたよ」
「信者って」
「だってあのシズちゃんと一緒にいる子だよ?信者でもおかしくないでしょ」
この人は何を言ってるんだ。
わたしが静雄さんの信者?馬鹿にしないでいただきたい。
「信頼はしてますけど、妄信的じゃないですよ」
「うん、そうみたいだね」
「…これって臨也さん的に面白いんですか?」
「とてもね」
うわ、ものすごく嫌だ。
何か面倒なこととか起きたりしないといいんだけどなあ…
「美尋ちゃんは自分の意思がちゃんとあるんだね。実にいいことだ」
「思ってないでしょう」
「そんなことないよ。便利なのは自分の意思がない子だけど、俺の興味を引くのは君みたいなタイプだしね」
「やだなあ」
あからさまに嫌そうな顔をしていたらしく、わたしを見て臨也さんが笑う。
この人顔はいいのにこの性格だからなあ…
「ねえ、今からでも遅くないよ。俺と一緒に暮らそう?」
「嫌です」
「俺なら金銭面でも苦労はさせないよ?バイトなんてしなくても、君1人くらい余裕で養える」
「そういう問題じゃないんですー」
静雄さんだから一緒に住んでるんだってことを、きっとこの人はわかっているだろうに。
わざわざそういうこと言うこの人は、本当に損をしていると思う。
「臨也さん黙ってればいいのに」
「え、何いきなり」
「顔がいいから余計にもったいないですね」
本当、心からそう思う。
よく考えてみれば、わたしの周りには、この前TVで見た羽島幽平と比べても遜色ないくらい顔がいい人がそろってる。
でも大体の人が性格に癖があるからそれがかすんじゃうんだけど…臨也さんはその代表格だと思う。
「そんなことはないさ。この性格にはこの顔の方が何かと便利でね」
「まあ本人がそう言うなら何も言いませんけど」
「今日は楽しかった、ありがとう美尋ちゃん」
臨也さんの背後に広がる空が暗いと気付いたのは、彼がそう言った時だった。
そっか、セルティが来た時も夕方だったもんな。あたりから漂ってくる夕飯の香りがお腹につらい。
「それじゃあまたね」
「もう2度とここには来ないでくださいね」
「へぇ、街中で会う分にはいいんだ?」
「ここに来られるよりはマシです」
怪しく笑った臨也さんが踵を返したのとほぼ同時に、開かれていたドアを閉め鍵をかける。
うん、相手が普通の人だったらすごく失礼なんだろうけど、臨也さんだからいいよね。
「さて、何作ろうかな」
制服を脱ぎながら今夜のメニューを考えるわたしは、良い意味でも悪い意味でも、彼らとこの生活に慣れてきたらしい。