「やめて…っ、」
「まだ混乱してる?大丈夫だよ美尋、俺は平和島静雄じゃない」
ああ、やっぱりわたしは自分1人じゃ何も出来なかったんだ。
されるがままなんて絶対に嫌なのに、明らかな体格差を前に、抵抗し続けた体は容赦なく疲労を訴える。
「やだってばっ、!」
「…美尋、俺がどんなにつらかったかわからないの?」
「…っ」
見たことのない先輩の表情に体が強張るのがわかる。
嫌だ嫌だ、誰か助けて。そう声に出したいのに溢れるのは涙ばかりで、口から出るのは言葉にすらならない声ばかり。
「うん、いい子」
やめて、セルティが、新羅さんが、門田さんが、静雄さんが撫でてくれた頭を、撫でないで。
まだ誰も知らないわたしの肌を、暴こうとしないで。
頭と心ではそう思うのに、手首をまとめられてしまったせいでじたばたとしか動けないわたしの体から、少しずつ布がまくられていく。
「おい、美尋」
「っ!」
もうだめなんだ。
頭がぼうっとしていくのを感じながらそう思った時だった。
ここからは少し遠い玄関の向こうから、聞き慣れた低い声が聞こえてくる。
「…何だよ。あいつまだ美尋に付きまとって…」
見るからに不機嫌になった先輩が眉をひそめてわたしを睨む。
お願い、やめて。
何に対してかもわからないまま首を横に振れば先輩は少しだけ安心したように微笑んで、つかんでいたわたしの手首を解放した。
「っ…、」
「安心していいよ美尋。俺が追っ払ってきてやるから」
先輩がここに来てから、わたしはドアの鍵をかけた記憶はない。
けどわたしの知らないうちに先輩がかけていたとしたら?
しばらく出してない声を一か八かで出してみて、静雄さんに届かなかったとしたら?
わたしが寝てると思って帰ってしまったとしたら?
嫌な想像と恐怖が渦巻く中で溢れるのは、やっぱり声じゃなくて涙だった。
「…うるさいなあ、」
「ぅ、…」
静雄さんはまだ外にいるのだろうか、突如震え始めたわたしの携帯を鬱陶しそうに投げて言った先輩は、相当苛立っているようだった。
お願いだから静雄さん、気付いて。わたしはちゃんとここにいるよ。
そう祈った時遠くから聞こえてきたバキ、という音に、自分の耳を疑った。
「…手前何してんだ」
「っ、なんだよお前!」
「こっちが先に聞いてんだよ」
涙でぼやけてよく見えないけど、さっきよりも近くなったその声は紛れもなく静雄さんのものだった。
静雄さんが現れたと同時に先輩がどいたおかげでやっと動かせるようになった体は、未だ強張ったままで言うことを聞かない。
「お前、もう俺の彼女に付きまとうのはやめろ」
「あ?彼女?そうなのか美尋」
静雄さんがこっちを向いたような気がするけど、言うことを聞かない体は首を振るという簡単な動きすら出来ない。
違うって言いたいのに、言わなきゃいけないのに。
「美尋はお前に付きまとわれたショックで混乱してるんだ。話しかけるな」
「…はあ?手前何言ってんだ」
「それはこっちの台詞だ、俺の大切な美尋を傷つけやがって…」
いくらか涙の引いた目で見上げれば、静雄さんの顔に怒りが満ちていくのに比例して、先輩の震えは徐々に大きくなるのがわかった。
よかった、静雄さんはここにいる。これは夢じゃないんだ。
ぎゅっと目と閉じたと同時に大きく音を立てて先輩を殴った静雄さんは、そのまま先輩の胸倉をつかんで口を開く。
「……こいつに嫌がらせしてたの手前だろ」
「い、嫌がらせなんかじゃ…ただ俺はお前から美尋を守ろうと、っ!」
「守る?美尋がお前にそう頼んだのか」
「当然だろ、お前に付きまとわれて怖いっていつも言ってたんだ!」
違うの静雄さん、わたしそんなこと言ってない。
先輩はわたしに言われたと思ってるけど、本当にわたしそんなこと言ってないんだよ。
「…絶対に有り得ねぇってわかってるけどよ。仮にお前がこいつの彼氏だとして、その付きまとってる男から堂々と彼女を守れもしないっつーのは、男としてちょっと違うんじゃねぇ?」
「っ…お前みたいな化けもん相手に、まともに張り合えるわけないだろ!」
「だからって帰り道に後つけて、こんな風に泣いてんのに無理矢理シようとするなんておかしいって思わねぇか?」
「ちっ…ちが、俺は、」
先輩が何か言おうとしたのを遮ってもう一度殴った静雄さんは、胸倉をつかんだまま壁に先輩を押し付ける。
臨也さんの時と比べていくらか落ち着いてる気がするのは、ここに女のわたしがいるからか、相手が臨也さんじゃないからか。
「お前とこいつの関係は知らねぇ。こいつのこともまだよくは知らねえ」
「は…ははっ、どうせそんなことだろうと思った、美尋の顔だけ見て、美尋が弱いのを知ってて、それを逆手に取ったんだろ!」
「…お前、美尋のことなんも知らねぇんだな」
「な、何を…」
「こいつは強くない。けど、弱い女なんかじゃねぇよ」
わたしに背中を向けてそう言った静雄さんが、どんな顔をしているのかはわからない。
けど後姿から感じる雰囲気はとても黒く、けど少しだけあたたかみを帯びているように思える。
「…自分が怖ぇ思いしてんのに周りに迷惑かけないように1人で無理して、明るく振る舞う」
「…っ」
「こいつはそういう女なんだよ」
多分今までで1番強い力で、静雄さんは先輩を殴った。
静雄さんの肩口から見える先輩の顔は目を背けたくなるくらい赤くなっていて、切れたのだろう口からは血がぽたぽたと滴っている。
「手前死にたいのか?いや、死にたくなかったら俺の知り合いにこんなことするわけねぇよなぁ?」
「…っ!」
「どうやって殺されたいかくらいは選ばせてやるよ」
「っ静雄、さ…」
やっと出た声は、蚊の鳴くような本当に小さいものだった。
けどそれに気付いた静雄さんは鋭い視線のままわたしの方を向いて、またすぐに先輩へと向き直る。
「優しいな美尋は。こんなことされてんのに、お前が死ぬのは可哀想だってよ」
「…っ、はなせ、!」
「…なるほどな、よしわかった。殴り殺して、」
「静雄さん…っ!」
気付いたら勝手に動き出していた体は、静雄さんの背中に抱きついていた。
いや、抱きついてるなんてものじゃない。
しがみついていると表現した方が的確で、だけどその時のわたしは、そんなことを考える余裕なんてないくらいに必死だった。
「もう、いいですから…っ」
「……」
正直、この状態の静雄さんに近寄るのは怖かった。
けどもしわたしがその恐怖に負けたら、静雄さんが静雄さんでなくなっちゃうような気がして。
「…選ばせてやる。死ぬのとこいつに一生会えないのと、どっちがいい」
「…し、死にたくな、」
「…ならさっさと失せろ」
投げつけるかたちで静雄さんが乱暴に手を離せば、先輩は恨めしそうな目で一瞬わたしを見た後、脱兎の如く走っていった。
部屋に残されたのはわたしと静雄さんだけ。一気に静かになった部屋には、わたしの鼻をすする音だけが響く。
「…美尋」
「……は、ぃ」
「…悪い、怖かっただろ」
さっきの表情はどこに行ってしまったのか、悲しそうな顔でそう言った静雄さんの目は本当に優しかった。
わたしの涙を拭う手も、その声も、みんなみんなついさっきまでのものと違う。
いつもの静雄さんが、帰ってきた。
「よか、た…」
「ん?」
「静雄さんが、来てくれて…っほんと、に、よかった…」
「…もう大丈夫だからな」
わたしの乱れた服を直し、ぽんぽんと頭を撫でてくれるいつもの静雄さんの手。
安心したせいかまた溢れ出した涙は、いくら静雄さんが拭ってくれても追いつかないくらいぼろぼろとこぼれて止まらない。
「ごめ、なさ…静雄さ、っごめんなさ、い」
「…いいから。すぐに来てやれなくて、怖い思いさせてごめんな」
怖い思いっていうのは、どっちの意味だろう。
もし先輩にされたことだったらたしかに怖かったけど、静雄さんの行動だったら、怖さなんてどうだってよくなるくらいの感情があったのに。
「…セルティたちのとこ行くか?」
「…はぃ、」
最後に一回頭を撫でて、静雄さんに手を取られる。
その手が本当にあたたかくて優しかったから、もう二度と離したくないと思ってしまった。