「ご馳走さん、ちゃんと鍵かけろよ」
「はーい」
「じゃあまたな」
ご飯を食べ終わり少し話した後、そう言って静雄さんは帰っていった。
ついさっきまで静雄さんがいた部屋はすごく広く感じてちょっとだけさみしいけど、それでもシンクの中の2つ揃いの食器を見ると、また頬がゆるんでくる。
「…さて、洗い物しちゃおっと」
ご飯粒1つないお茶碗を見るのはとても気分がいい。
作ってる時こそ量が多いとは思ったけど、明日のお昼ごはんに持っていこう、と思っていた炊飯器の中身も今や空っぽだ。
「…また来てくれるといいなあ、」
そう呟いた時だった。
玄関のドアがコンコン、と叩かれ、食器を洗うわたしの手が止まる。
静雄さん忘れ物でもしたのかな。
あ、もしかしたら食後に煙草吸ってた時にライター置いて忘れてっちゃったのかも。
「はいはーい」
今行きまーすと声を上げて、手についた水を洋服で拭う。
すぐ忘れ物に気付いてくれてよかった、なんて思いながら開けたドアの先にいたのは、
「…え、先輩?」
「よっ」
そこにいたのは、バイト先の先輩だった。
面倒見が良くて優しくて、わたしがしちゃったミスもさりげなくカバーしてくれる、みんなが慕ってる先輩。
けど今日の先輩はいつもとなんだか雰囲気が違って、少し不安になる。
「え、何でわたしの家…」
「ちょっといい?」
「あっ、ちょっ先輩!」
わたしの声なんて聞こえてないみたいに、先輩はずかずかと家の中に上がりこんでいく。
ちょ、灰皿見たとたんに立ち止まったりして、何なんですかいきなりっ。
「怖かっただろ、ごめんな」
「え…?」
「でも何もされてないみたいで安心したよ」
え、何、どういうこと?
意味のわからないことを言いながらわたしの頬を撫でる先輩に、数秒前に感じた恐怖が全身に広がっていくのがわかった。
まずい、このままじゃ良くないことが起きる。
そんな嫌な予感が芽生えると同時に、速くなる鼓動がうるさい。
「平和島静雄だろ?」
「え、…」
「ごめんな、助けてやれなくて。けど相手が平和島静雄だし、俺も正直怖かったんだよ」
「何、言って、」
「…でもよかった、美尋が無事で」
信じたくなかったけど信じるしかなくなった。
あの写真も後をつけてきてたのも、あの静雄さんのことを書いた紙も、みんな先輩がやったことだったんだ。
でも怖かったって、助けるって何?無事ってどういうこと?
「あ、の。わたし 意味が、」
「何言ってるんだよ。いつもメールで言ってただろ?」
「メール…?」
わたしを見ながら不思議そうな顔をした先輩は、ほら、と言って携帯をわたしに見せてくる。
そこにうつっていたのは当然送った覚えのない言葉ばかりで、背中にぞくりと鳥肌が立つのがわかった。
「ちが、う」
「え?」
「わたし、こんなの送ってない」
「…ああ、わかった。俺が傍にいてやれなかったこと怒ってんだろ」
俺だってお前が苦しんでるのに、ただ遠くから見守ることしか出来なかったのはつらかった。ごめんな。
まったく理解出来ないことに頭を下げる先輩は、わたしの知っている先輩じゃなかった。
誰かがわたしに成りすましてこんなメールを送ったのはわかったけど、でも誰が?
誰が、何のために?
「そうだ、美尋のお父さんとお母さんにも俺たちのこと報告しなきゃな」
「ちょっ、待ってください!」
「何?」
「先輩、これ送ったのわたしじゃないです。怒ってるとかそういうのじゃなくて、本当に違うんです」
「はあ?」
何言ってんだよ、と笑いながら部屋の奥に向かった先輩は、お父さんたちの写真を見つけるとパッと嬉しそうな表情を見せる。
やめて先輩、そこはさっき静雄さんが、
「もう大丈夫ですよ。これからは俺が、美尋のことを守りますから」
わたしが追いつくより早く、お父さんたちに向かって先輩はそう言った。
お父さんたちが亡くなってから初めて出来た、心から信じられる人。
その静雄さんが手を合わせてくれた場所で、
「やめてください」
「…美尋?」
「お願いですから…やめてくださ、」
泣きそうになるのを必死にこらえながら言えば、先輩はわたしの体を包もうとする。
やめて、触らないで。お願いだからもうこれ以上わたしに関わらないで。
「…怖かったよな、悪かった」
「…っ、」
「けど俺だって出来る限りのことはしてたんだ。いつもお前の傍にいるって証に写真もたくさん撮ったし、帰り道は1人で怖くないように後ろから着いてってやっただろ?」
「何、言って」
「俺も苦しかったよ。何されるかわからないからって、あいつの前で楽しそうに振る舞う美尋を見るのは」
先輩はまるで愛おしいものを見つめるような目でわたしを見て、大切なものに触れるようにわたしの頬を撫でる。
「けどもう安心していいから」
「え、やっ、!」
「大丈夫、終わったらこの家を出よう。そうすれば、もう平和島静雄に怯えることもなくなる」
乱暴に押し倒されて、視界いっぱいに先輩と天井が広がる。
こらえていた涙が流れるのを感じた時、頭によぎったのは静雄さんのことだった。
******
「あー…さみぃ」
美尋の家を出て数分。
さみぃさみぃとは思ってたけど、今日は一段と冷えるな。
そんなことを思いながら澄んだ空気を肺いっぱいに吸い込めば、冷たい空気が全身に行き渡る。
「…あ?」
乾いた夜の空気の中で吸う煙草が好きだった。
加えて今日は気分がいいし溜めてた幽のドラマでも見るか、と思いながら煙草を取り出した時、ライターがないことに気付く。
「あー…忘れたか、」
記憶をさかのぼってみれば、案外すぐに忘れた場所を思い出すことが出来た。
多分飯食い終わって吸った時に、テーブルかなんかの上に置き忘れたんだな。
正直、来た道を戻るのは面倒くせぇ。
けど少し歩けば手に出来るものを面倒がって、わざわざコンビニで100円ライターを買うのはもっと面倒くせぇ。
「…しょうがねぇな、戻るか」
連絡来てないってことは俺がライター忘れたのも気付いてねぇんだろうし、一応行くって電話しとくか。
…いや、何も言わずに行って、驚くあいつの顔見るのも悪くない。
そんなことを考えながら、俺は足早に来た道を引き返した。