「…っ、」
いつもなら何てことない階段が今だけは鬱陶しい。
じわりと滲んだ額の汗も、ポケットの中で震え続ける携帯も、名前を呼んでも開かないドアも、開いていない鍵も、すべてが鬱陶しくて、邪魔だった。
「美尋っ!」
「え、静雄さん?」
いっそ壊して中に入ってしまおう、そう考えて古めかしいドアノブに手をかけようとした時だった。
携帯を持ったまま顔を出した美尋は驚いた顔で俺を呼び、何事かと目を丸くする。
「え、ちょ…は?」
「え?」
「お前、何かあったんじゃないのか?」
「は?」
会話が噛み合わない。
何のことだと言いたげな美尋は数秒してから理解したように携帯のボタンを押し、それと同時にうるさかったポケットの震えが止まった。
どうやらさっきから俺の携帯を震わせていたのは美尋だったらしい。
「す、すいません!わたしあの時持ってたお皿落としちゃって、びっくりして、それで…」
「…何だよ」
「すいません…」
聞けば、皿を落としたのと同時に携帯も落とし、どういうことかそこで通話は終了してしまったようだ。
そしてそれを詫びるために俺に電話をするも、美尋の身に何かが起こったのだと思い込んでいた俺は、それに構うことなくここまで来てしまった、と。
「…はあ」
「ごめんなさい、ほんとすいません」
「…いいよ、安心した」
申し訳なさそうに謝る美尋の頭に手を乗せれば、小さく笑って再び謝られた。
また取り越し苦労かと気は抜けたが、まあ何もなかったならそれが一番だ。
「…あ、静雄さんご飯もう食べました?」
「いや、仕事終わってお前に電話した後すぐ来たからな」
「…すいません。お詫びって言ったらなんですけど、良かったらご飯食べていきません?」
眉尻を下げていたのから一転、へらっと笑いながら美尋はそう言った。
こっちの気も知らねぇで、俺がどんだけ焦ったと思ってんだ。
そんな呆れとわずかな苛立ちをその間の抜けた表情に感じながらも、それに勝る安心にため息を吐く。
「じゃあご馳走になるか」
「ふふー、どうぞ上がってください!」
「…お邪魔します」
久しぶりに全力疾走をしたせいなのか、昨日ぶりとは言え、美尋の家に上がるせいなのか。
おそらく理由は全力疾走のせいだろうが、心臓がどくどくと速い。
「…ん?」
「どうしました?」
「何で灰皿なんかあんだ?」
美尋に促されて部屋に入ると、テーブルの上にある灰皿に目が行った。
…こいつ、見かけによらず高校生で煙草吸うタイプだったのか。そうは見えねえけど。
「…ああそうだ!静雄さん、煙草1本もらえませんか?」
「吸うのか?」
「わたしじゃないですよ、お父さんの分です」
言ってる意味がよくわからないまま煙草を1本取り出し美尋に渡そうとすれば、火を点けてくれと頼まれる。
父親がどうこうっていうのはよくわからないまま火を点ければ、今度は渡せと言わんばかりに手を出された。何なんだ一体。
「今日はお父さんとお母さんの命日なんですよー」
「……」
「だから今日はバイトも休んで、お父さんたちが好きだったもの作ろうって思ってたんです」
結局バイトは入っちゃってましたけど、毎年こうするって決めてるんですよ。
そう言いながら棚の上の写真立ての前に灰皿と煙草を置き、美尋は軽く手を合わせる。
こいつの言ってた“大切な日”の意味も、こいつが今日やけに明るかった理由もようやくわかった。
それは命日のことで、だからこいつはいつも以上に明るく振る舞っていたんだ。
「…おい、もうちょっとそっち行け」
「は?」
「…俺も手ぇ合わせっから」
そう言えば少し驚いたような顔をしたあと、美尋は本当に嬉しそうに笑って横にずれる。
手を合わせたところでこいつの両親に何を伝えたらいいのか、気の利いたことは浮かばない。
けど横から感じる美尋の視線はそんなことをものともしない、朗らかなものだった。
「…さて、ご飯食べましょっか」
「おう。何作ったんだ?」
「ふふー、静雄さんは運がいいですよっ。今日はいつもより豪華なメニューです!」
笑いながら言う美尋についていけば、鍋に入った水餃子に皿に盛られたハンバーグ、そして炊飯器の中の炊き込みご飯をドヤ顔で見せてくる。
…いや、今日は命日だから好きなものをっつってたし、人の好きなもんにケチつける気もねぇけどよ。
「……見事にばらばらだな」
「し、仕方ないじゃないですかッ」
「わかってるって。ほら、さっさと運ぶぞ」
「はーい」
ちなみに水餃子とハンバーグはお父さんが好きで、炊き込みご飯はお母さんが好きなんですよー。
間延びした声を出しながら美尋が料理を皿によそい、それを受け取った俺がテーブルに置いて行く。
「あ、わたしの分は写真立ての前に置いてもらえますか?」
「…お前棚の上に置いたまま食うのか?」
「先にお父さんとお母さんにあげるんですよ」
ああなるほど、と納得して、皿2つと茶碗1膳を棚の上に乗せる。
相変わらず火の点いたままの煙草はもうずいぶんと灰が伸び、今にも灰皿から落ちそうだ。
「美尋、煙草まだ残しとくか?」
「ああああ、煙草味のご飯になっちゃうんで消してください!」
「わかった」
確かに煙味の飯は食いたくねぇよな。
焦って言ったこいつに心の中で小さく笑い煙草を消せば、ちょうどそのタイミングで2つのグラスを持った美尋が部屋に入ってくる。
「あ、そろそろご飯おろしちゃっていいですよ」
「もういいのか?」
「まだ食べるなって言うんですか」
「いや、ちげえけど」
「ふふ、冗談ですよ。あまり量が作れなくて自分の分をそこに乗せる時とかは、1分だけでいいって自分ルールあるんです」
今の会話から予想するに、今日はちゃんと自分と両親の分が作れた日だったらしい。
…何か申し訳ねぇな。
「悪いな、お前の親御さんの分取っちまったみたいで」
「え、何でですか?静雄さんのはわたしの分ですよ?」
「…ん?」
「わたしは娘だから気になりませんけど、やっぱり故人へのご飯を食べるってなんかアレじゃないですか。だからお父さんたちの分はわたしので、わたしの分は静雄さんのです」
そうだ、こいつはそういう奴だった。
俺が気にしたことをなんでもないことだと言って、無意識に罪悪感を取り除いてくれる奴だったんだ。
別に写真立ての前に置かれた飯を食うことになっても抵抗はない。
けど美尋はいつだって他人のことを考えて、思いやれる奴なんだ。
「ほら、冷めないうちに食べちゃいましょ!」
「おう」
今になって後悔した。
さっきこいつの両親の写真を前に手を合わせた時、何で俺は言わなかったんだ。
どうして俺は、思いつかなかったんだ。
「それでは、」
「「いただきます」」
美尋に出会えてよかった。
言えなかった言葉を心の中で唱えながら、ハンバーグを口に含んだ。